第35話 「間合いの確認」
道場が情報拠点として動き始めて、最初の週が経った。
健一が独自のシステムを構築した。叢雲のデータベースとは別の、小さなシステムだ。川口市内の複数のSNSアカウントと、地域の防犯情報アプリと、雨森が持っている独自の情報源を一箇所に集めて表示できるようにした。
「大きなシステムではありません」健一は道場でシステムの説明をしながら言った。「ただ、川口に関係する動きを、一画面で確認できます。叢雲のシステムより範囲は狭い。ただ、川口に特化した分、精度は上がっています」
雨森が画面を見ながら、いくつか確認した。きゃるんが隣で覗き込んでいた。
靈は少し離れた場所で、その様子を見ていた。
道場の板の間に、スマートフォンの画面が三つ並んでいる。百年前の柱と、電子の光が同じ場所にある。
違和感はなかった。
最初のデータが集まり始めた火曜日の朝、健一から報告が来た。
「川口南部で、新しい動きがあります。記録活動に転換した市民グループが、自警団の一部に対話を申し入れました。今週の木曜日に、場を持ちたいという連絡が、自警団側に入っています」
「自警団は受けましたか」
「受けた、という返事が来ています。ただ、どういう形でやるかが決まっていない。場所も、司会も、何も決まっていない」
「叢雲が入れますか」
「叢雲の権限はもうありません。私的な関与なら可能です」
「雨森さんに伝えてください。私も関わります」
木曜日の午前中、きゃるんが道場に来た。
今日は稽古の日だった。引き戸の前で礼をしてから入ってきた。最近は、礼の角度が安定している。首の後ろをさらす感覚が、体に入ってきている証拠だ。
「今日の夜、南部の対話の場がありますね」きゃるんは板の間に入りながら言った。「師匠も行くんですか」
「行きます」
「私も行けますか」
「雨森さんに確認してください」
「します」きゃるんはスマートフォンを取り出しながら木刀を受け取った。「今日の稽古、何をやりますか」
「間合いの話をします」
「前にも聞きました。木刀が届く距離の話ですか」
「今日は、別の間合いです」
きゃるんが木刀を持って板の間の中央に立った。
靈は木刀を持たずに、きゃるんの正面に立った。
「今日教えるのは、対話できる距離のことです」靈は言った。「武道では、間合いというと戦う距離のことを指すことが多い。ただ、間合いには別の意味があります」
「別の意味とは」
「お互いが、相手の存在を感じながら、ただ立っていられる距離のことです」靈は続けた。「戦う距離より遠く、届かない距離より近い。その間に、話ができる空間があります」
「具体的には、どのくらいの距離ですか」
「人によって違います。ただ、確認する方法があります」
靈はきゃるんから五歩ほどの距離を取った。
「今、私はここに立っています。あなたはどう感じますか」
きゃるんは少し考えた。
「遠いです。師匠がどこを見ているかが、わかりにくい」
「では」靈は二歩近づいた。
「少し近くなりました。顔が見えます」
「もう一歩」靈は近づいた。
「これくらいが、話しやすい気がします」
「今の距離が、あなたにとっての対話の間合いです」靈は続けた。「これより近づくと、相手の動きに反応しなければいけなくなる。これより遠いと、声が届きにくくなる。その間に、話せる空間がある」
「武道の先人たちは、これを『和の間』と呼ぶことがあります」靈は続けた。「戦う間合いを『剣の間』と呼ぶのと対比して」
「和の間」きゃるんは繰り返した。「聞いたことがない言葉です」
「古い言葉です。武道の稽古では、今は使われないことが多い。ただ、概念として残っています」靈は続けた。「昔の武士は、剣を抜く前に、必ずこの間合いを確認した。剣を抜かずに済む距離かどうかを、先に見極めた」
「剣を抜かないことを、最初に考えていたんですか」
「そうです」靈は答えた。「剣を抜くことは、最後の手段です。その前に、和の間で話ができるかどうかを確かめる。それが、武士の作法だったと親父から聞きました」
きゃるんが少し考えた。
「今夜の南部の対話の場も、それですか」
「似ています」靈は答えた。「自警団と市民グループが、剣を抜く前に、和の間で話す機会を作った。それが今夜の場です」
「うまくいきますか」
「わかりません。ただ、和の間に入ろうとすることが、まず必要です。入ろうとしなければ、剣の間だけが残る」
きゃるんは木刀を持ったまま、少し考えていた。
「師匠は、ずっとそれをやってきましたね。鳥居の前で、石丸さんの前で、集団の前で」
「やってきました」靈は答えた。「ただ、いつも和の間に入れたわけではありません。入れなかった場面もあります」
「入れなかったとき、どうしましたか」
「その場にいました。入れなくても、その場にいることで、何かが変わることがあります」
稽古を一時間続けた後、二人で板の間に座った。
靈が茶を淹れると、きゃるんは両手で受け取った。
「師匠、一つ聞いていいですか」
「なんですか」
「間合いって、人によって違うって言いましたよね」
「そうです」
「師匠の間合いは、どのくらいですか。対話できる距離」
靈は少し考えた。
「以前は、かなり遠かったと思います」靈は答えた。「道場にこもって、AIに動画を作らせて、人と関わらないようにしていた。あの頃の間合いは、とても遠い」
「今は変わりましたか」
「変わりました。ただ、どのくらい変わったかは、自分ではわかりにくい」
「私から見ると」きゃるんは少し考えた。「師匠の間合いは、今もそんなに近くないと思います。ただ、近い人間を選んで、その人間との間合いは近くなっている」
「たとえば」
「私とか、雨森さんとか、石丸さんとか」きゃるんは湯呑みを見た。「最初から全員に近いわけじゃなくて、時間をかけて近くなっている」
靈はその言葉を、少し頭の中に置いた。
夜、南部の対話の場が開かれた。
場所は、地域の集会所だった。公民館ほど大きくない、二十人ほどが入れる部屋だ。
靈が着いたとき、すでに十五人ほどが集まっていた。自警団側が六人、記録活動の市民グループが七人、雨森ときゃるんが端に座っていた。
司会は誰もいなかった。
靈は部屋の端に立った。壁際に、木刀を帯に差したまま立った。構えない。ただ、そこにいる。
しばらく、誰も話し始めなかった。
自警団側と市民グループが、向かい合って座っている。目は合っているが、言葉が出ない。
部屋の沈黙が続いた。
靈は動かなかった。
日本には、沈黙を埋めない作法がある。「沈黙は金」という言葉より古い概念で、相手が言葉を出すのを待つことが、礼の一つだとされてきた。沈黙に耐えることが、対話の最初の一歩だ。
一分ほど経って、自警団側の一人が口を開いた。
「何を話せばいいんですか」
市民グループの一人が答えた。
「わかりません。ただ、話したかった」
「なぜ」
「追いかけることをやめた後、何をすればいいかわからなかった」
そこから、少しずつ言葉が出てきた。
靈は聞いていた。
自警団側の不満。南部で起きた衝突の経緯。叢雲が権限縮小した後、対応が遅れた話。移民との日常のトラブル。それがどう積み重なって、あの夜の衝突になったか。
市民グループ側の話。文書を見て怒った。議員を追いかけようとした。ただ、追いかけることが正しいかどうか、迷い始めた。昨夜のSNSの流れの変化を、自分たちも見ていた。
二つの話が、交互に出てきた。
靈は途中で口を挟まなかった。
「七事五計」という言葉が、親父の本棚にあった本に書いてあった。交渉の場では、まず相手の話を七分聞いて、こちらの話は三分にする。聞くことが、話すことより先だ。
三十分ほど経ってから、靈は一歩前に出た。
全員が靈を見た。
「一つだけ、聞いてもいいですか」靈は言った。
「なんですか」自警団側の一人が答えた。
「今夜ここに来た理由は、それぞれ違うと思います。ただ、ここに来たこと自体は、同じです。なぜここに来ようと思ったかを、一人ずつ教えてもらえますか。意見ではなく、理由だけでいい」
少し間があった。
最初に口を開いたのは、自警団側の若い男だった。
「このまま続けていたら、誰かが死ぬと思った」
靈は返事をしなかった。
次に、市民グループの女性が言った。
「昨夜の空港の映像を見て、怖くなった。自分たちが、怖いものになっていると思った」
一人ずつ、理由を言った。
全員が違う理由を言った。ただ、全員の言葉の中に、共通のものがあった。
このままでは、よくないという感覚。
「聞いてわかりました」靈は言った。「全員、同じ方向を向いていません。ただ、このままではよくないと思っている点は、同じです」
「それで、何が変わりますか」自警団側の男が聞いた。
「今夜は、変わらないかもしれません」靈は答えた。「ただ、来週また来ることはできますか」
「来週、また話すということですか」
「今夜わかったことを、一週間持って帰ってください」靈は続けた。「一週間経ってから、また話す。一度の対話で何かが決まることは、稀です。話し続けることで、少しずつ形が見えてくる」
沈黙があった。
自警団側と市民グループが、互いを見た。
「来週、また来ます」最初に口を開いた自警団の男が言った。
「私も来ます」市民グループの女性が続けた。
集会所を出たのは、夜の九時過ぎだった。
きゃるんが靈の隣に並んだ。
「今夜、うまくいきましたか」
「うまくいった、というほどのことはありませんでした」靈は歩きながら答えた。「ただ、来週もう一度来るという約束が取れた」
「それだけですか」
「それで十分です」靈は続けた。「一回の対話で全部が決まると思うと、一回で失敗したときに続けられなくなります。続けることが目的だと思えば、一回の失敗は通過点です」
「継続は力なり、ということですか」
「それに近い考え方です。ただ、続けることと、惰性で続けることは違います。毎回、前回より少し何かが変わっていることが必要です。今夜は、全員が来週来ると言った。それが前回よりの変化です」
雨森が靈に並んだ。
「今夜の場を、どう評価しますか」
「始まり、です」靈は答えた。「ただ、始まりを大事にしないと、終わりになる」
「来週の場をどうするか、考えています」雨森は続けた。「今夜は、靈さんが一つだけ質問した。それで場が動いた。来週も、同じやり方がいいですか」
「来週は、別の問いを考えておきます」靈は答えた。「同じ問いを繰り返すと、答えが惰性になります」
「どういう問いを考えますか」
「川口で、一つだけ守りたいものは何かを、聞こうと思っています」
雨森が少し止まった。
「一つだけ、というのは」
「一つに絞ることで、相手が本当に大事なものを考えます。全部を守ろうとすれば、何も守れないことがある。一つを決めることが、方向を決める」
道場に戻ったのは、夜十時を過ぎていた。
板の間に入り、木刀を帯から外して壁に戻した。
手ぶらになった手を、少し見た。
今夜も、木刀を構えなかった。集会所でも、外でも。ただ、帯に差していたことで、場の空気に影響があった。構えないが、あることを知っている。その状態が、今の靈の間合いかもしれない。
スマートフォンを確認した。
石丸から連絡が来ていた。
「今夜の南部の対話の件、健一さんから聞きました。来週も続くそうですね。私も来週、参加してもいいですか」
靈は返信した。
「来てください。ただし、一つだけ条件があります」
「なんですか」
「来週の場で、あなたの父親の話をしてください。毎朝神社に頭を下げていた父親の話を」
少し間があって返信が来た。
「わかりました」
それが、和の間に入るための言葉になる気がした。
靈は本棚の前に立った。
親父の棚から、一冊を引き出した。「武道と礼の本義」という、昭和期の薄い本だ。以前に一度読んだが、今夜また開く気になった。
目次を確認してから、「間合いについて」という章を開いた。
「間合いとは、剣客の間に存在する空間的・時間的な距離のことである。ただし、間合いは単なる物理的な距離ではない。相手の気を読み、自分の気を整え、その場の空気を感じ取ることで生まれる、動的な概念である」
靈は続きを読んだ。
「間合いを制する者は、剣を制する。剣を抜かずに間合いを制した者は、剣を抜くことよりも高い境地に達したとも言える。古来、真の剣客は、剣を抜かずに勝つことを最上とした」
靈は本を閉じた。
「剣を抜かずに勝つ」。
今夜の集会所で、靈は何も構えなかった。ただ、その場にいた。それが間合いを制することになったかどうかは、まだわからない。ただ、来週また話す場が生まれた。
板の間に戻り、木刀を手に取った。
零の型を始めた。
型をやりながら、今日きゃるんに教えた間合いの話を、自分に向けて確認した。
和の間に入ること。話ができる距離に近づくこと。剣を抜かずに済む距離かどうかを、先に見極めること。
靈の間合いは、以前より近くなってきている。きゃるんが言っていた通り、時間をかけて近くなる。
ただ、全員との間合いが近くなったわけではない。
まだ遠い場所がある。まだ届いていない場所がある。
型を終えた。
板の間の隅の真剣を見た。
今夜も、触れなかった。
ただ、触れない理由が、以前と変わってきている気がした。
以前は、使う必要がないから触れなかった。今は、使う必要がないようにするために、間合いを確認し続けている。その違いが、少しずつ明確になってきている。
靈は正座した。
窓の外に、川口の夜が広がっていた。
来週、南部の対話の場がある。石丸が来る。自警団と市民グループが、また話す。
その場が続くかどうかは、来週になってみなければわからない。ただ、今夜、来週来るという約束が生まれた。
零の状態でいる。
ただ、今夜の零の中に、来週への具体的なものが入っていた。
靈は目を閉じた。
親父が言っていた言葉を思い出した。
「零というのは、数える前の状態だ。ただ、数える前だからこそ、全部の数を含んでいる」
来週の場が、どういう数になるかは、まだわからない。
ただ、今夜の零には、その可能性が入っている。




