第36話 「言葉の重み」
来週の対話の場は、木曜日の夜に設定された。
靈は前日の水曜日の朝から、場の準備を考えていた。
今回は、靈が最初から話しかけるつもりはなかった。石丸が父親の話をする。その言葉が、どう受け取られるかを確認してから、必要なら動く。
零の型を通しながら、靈は今週の川口の動きを頭の中で整理した。
健一のシステムで確認できる範囲では、南部の自警団の動きは先週より落ち着いていた。記録活動に転換した市民グループが、SNSに淡々と情報を積み上げている。追いかけることから記録することへの転換が、少しずつ定着してきていた。
ただ、全体が落ち着いているわけではない。
川口の外では、帰化議員の追跡スレッドが形を変えながら続いている。国会では緊急質疑が続き、政府は文書の真偽について「確認中」という答弁を繰り返していた。
水曜日の午後、石丸が道場に来た。
チャイムを鳴らして引き戸を開ける前に、石丸は引き戸の前で礼をした。靈が中から見ていると、角度が毎回少しずつ深くなっている気がした。
「明日の場のことで、話があります」
「どうぞ」
板の間に入って向かい合うと、石丸は少し緊張した顔をしていた。
「父親の話をしろ、と言われました」石丸は続けた。「できます。ただ、どのタイミングで話せばいいかがわかりません」
「タイミングは、私が合図します」靈は答えた。「場が硬くなったとき、あるいは言葉が出なくなったとき。そのときに、私が石丸さんを見ます。それが合図です」
「どういう形で話せばいいですか」
「説教ではなく、ただ話してください」靈は続けた。「正しいことを言おうとすると、相手が構えます。自分の話をするだけで、相手の構えが解けることがある」
石丸は少し間を置いた。
「それは、あなたが私や他の大正義に対してやってきたことですね」
「そうかもしれません」靈は答えた。「意識していたわけではありませんが」
「一つ聞いていいですか」石丸は靈を見た。
「なんですか」
「父親の話をすることで、場が変わるとあなたは思っていますか」
「変わる可能性があると思っています」靈は答えた。「ただ、確証はありません」
「確証がないのに、頼んだんですか」
「確証があることしかやらないと、動けなくなります」靈は続けた。「古い言葉に、『案ずるより産むが易し』という言葉があります。やってみれば、案じていたより易しいことがある。ただ、易しくないこともある。どちらかは、やってみなければわからない」
石丸は少し考えた。
「やってみます」石丸は言った。「うまくいかなくても、やってみることに意味があると、最近思うようになりました」
「そうですか」
「あなたの影響かもしれません」石丸は少し目を動かした。「拝郷さんは、うまくいく保証がない場面に、何度も踏み込んできた。それを見てきた」
木曜日の夜、集会所に集まったのは先週より少し多かった。
自警団側が七人、市民グループが八人。雨森ときゃるんが端に座り、靈は壁際に立った。石丸は、自警団でも市民グループでもない場所に、一人で座った。
靈は石丸の座り方を見て、それでいいと思った。どちらの側にも属さない位置に、自分で座った。
場が始まった。
先週来た自警団の男が、先週の話を簡単にまとめた。「このままではよくないと思って来た」という言葉から、今週何があったかを話した。
市民グループの女性が、記録活動の近況を報告した。SNSのスレッドで、どういう情報が集まってきているかを説明した。
話が続いた。
二十分ほど経ったとき、場が少し硬くなった。
自警団側の一人が、先週の南部での出来事を話し始めた。移民グループとの小競り合いの話だ。怒りが混じってきた。市民グループの側が、少し引いた。
靈は石丸を見た。
石丸が靈の視線を受けた。
一秒ほど、二人の目が合った。
石丸が立ち上がった。
「一つ、話してもいいですか」
場が静かになった。
石丸は自分が座っていた場所から、部屋の中央寄りに移動した。どちらの側でもない位置に立った。
「私の父の話をします」石丸は続けた。「二十年以上前に亡くなった父の話です」
誰も話さなかった。
「父は川口の出身で、鋳物工場で働いていました。昭和の話です。その頃の川口は、工場が多かった。外国人の出稼ぎ労働者も、一緒に働いていた」
靈は壁際で、場を見ていた。
「父が毎朝やっていたことがありました」石丸は続けた。「工場に行く前に、近所の神社に寄って、頭を下げていく。それだけです。私は子供の頃、それを見ていました。理由を聞きませんでした。そういうものだと思っていた」
石丸の声が、少し変わった。
「父が死んだ後、母から聞きました。父が毎朝神社に頭を下げていたのは、自分の仕事の安全と、工場で一緒に働く外国人の健康を祈っていたからだと。自分のためだけじゃなかった」
部屋が静かだった。
「私は、その話を聞いたとき、何も感じませんでした。当時は」石丸は続けた。「ただ、今の川口で、あの夜のことを思い出した。息子が外国人に傷つけられた夜。誰も来なかった夜。あの夜から、私は父が外国人の健康を祈っていたことを、理解できなくなっていた」
市民グループの女性が、少し前に身を乗り出した。
「最近、ようやく少しわかってきた気がします」石丸は続けた。「父が祈っていたのは、特定の人間のためではなかった。一緒にいる人間が、安全でいてほしかった。それだけだったと思います」
石丸が座った。
場に、長い沈黙があった。
「間」という言葉が、日本語には二つの意味を持っている。空間の間と、時間の間だ。今の沈黙は、時間の間だった。その沈黙が、場を次に進める力を持っていた。
自警団の男が、ゆっくりと口を開いた。
「私の親父も、工場で働いていました」
靈は動かなかった。
「川口の工場じゃないけど、似たような話があります。外国人の同僚と、一緒に飯を食っていたと言っていた。今は、そういうことができなくなった気がする」
市民グループの別の人間が言った。
「今もやっている人間はいます。ただ、見えにくくなっている」
「なぜ見えにくくなっているんですか」
「怒りの方が、声が大きいからじゃないですか」
対話が続いた。
先週より、声の質が変わっていた。怒りがないわけではない。ただ、怒りの下にあるものが少し見えてきた感じがした。
靈は一度だけ、今週の問いを出した。
「川口で、一つだけ守りたいものは何かを、聞いてもいいですか。意見ではなく、一つだけ」
全員が少し黙った。
自警団の男が最初に答えた。
「子供が安全でいること」
市民グループの女性が続けた。
「隣に誰かがいること」
一人ずつ、答えが出た。
全員の答えが違った。ただ、全員の答えの中に、他者の存在があった。自分一人が安全でいればいい、という答えは、一つも出なかった。
集会所を出たのは、夜の九時半だった。
帰り道、石丸が靈の隣に並んだ。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
路地を歩きながら、石丸が口を開いた。
「うまくいきましたか」
「今夜は、よかったと思います」靈は答えた。「ただ、来週続くかどうかが本当の確認です」
「来週も来ます」石丸は言った。「父の話をして、場が変わったのを感じました。あの話をして、よかった」
「そうですか」
「一つ、聞いていいですか」
「なんですか」
「私は、変わりましたか」
靈は少し間を置いた。
この問いは、石丸が自分に向けている問いだ。靈への確認ではなく、靈を鏡にして自分を見ようとしている。
「変わっています」靈は答えた。
「どう変わりましたか」
「最初に会ったとき、あなたは神社を占拠しようとしていました」靈は続けた。「今夜、あなたは集会所の中央に立って、父親の話をした。どちらの側にも属さない場所に、自分で座った」
「それが、変わったということですか」
「座る場所が変わりました」靈は答えた。「どこに立つかが変わることが、変わることの一つの形です」
石丸は少し考えた。
「座る場所が変わったのに、怒りは変わっていません」石丸は続けた。「息子が傷ついた夜への怒りは、今もあります」
「変わらなくていいと思います」靈は言った。
「怒りは変わらなくていいんですか」
「怒りそのものが、問題なのではありません」靈は歩きながら言った。「怒りは、何かが正しくないという感覚から来ます。その感覚は、正しい場合がある。問題は、怒りをどこに向けるかです」
「どこに向ければいいんですか」
「今夜、あなたは怒りを、父親の話に変えました」靈は続けた。「父親が外国人の健康を祈っていたこと。その話を、自警団の男たちの前でした。それは、怒りを別の形に変えることができた、ということです」
「怒りがなければ、あの話はできなかったかもしれません」
「そうです」靈は答えた。「怒りが力になった。ただ、怒りのまま使わず、別の形に変えた。それが今夜の石丸さんの変化だと思います」
石丸は少し黙って歩いた。
「武道の言葉に、『怒りは下段に抑えよ』というものがあります」靈は続けた。「怒りを完全に消すのではなく、下に置いて、上に別のものを乗せる。今夜、あなたはそれをやりました」
「意識していませんでした」
「意識していないやり方が、体に入っているということです」
道が分かれる場所で、二人は立ち止まった。
石丸が靈に向いた。
「もう一つ、聞いてもいいですか」
「なんですか」
「拝郷さんは、私のことを、いつから信頼するようになりましたか」
靈は少し考えた。
「鳥居の前で礼をしたとき、です」靈は答えた。「神社に再び来て、礼をして入った。あのとき、信頼できると思いました」
「礼だけで、ですか」
「礼は、首の後ろをさらすことです。急所をさらすことで、信頼を示す」靈は続けた。「あなたが礼をしたとき、私はそれを受け取りました。信頼は、片方が示して、片方が受け取ることで成立します」
石丸はしばらく靈を見た。
「父が毎朝神社で頭を下げていたのも、同じことですか」
「同じことだと思います」
石丸が路地の向こうに消えてから、靈は歩き始めた。
川口の夜が、路地を包んでいる。
石丸の問いが、頭の中に残っていた。
私は、変わりましたか。
変わっている、と靈は答えた。
では、靈自身は変わっているか。
最初に石丸と対峙した、神社の鳥居の前。あの夜の靈と、今夜の靈は、同じ場所にいるか。
同じ道場に、同じ木刀を持って、同じ川口にいる。ただ、座る場所が変わった、という意味では、靈も変わっている。
道場にこもってAIに動画を作らせていた靈が、今夜集会所の壁際に立っていた。その変化は、小さくない。
道場に戻ると、雨森からメッセージが来ていた。
「今夜の場、よかったと思います。石丸さんの話が、場を変えました。来週の継続を、本人に確認してもいいですか」
「してください」靈は返信した。「ただ、来週の場に、新しい人間を呼ぶことを検討してください」
「どういう意味ですか」
「同じ顔ぶれで続けることも大事です。ただ、閉じた場になると、外への影響が小さくなります。来週、外から一人か二人、別の立場の人間を呼んでみてください」
「誰を呼ぶか、考えますか」
「榊原さんが、候補の一人だと思います」
少し間があって返信が来た。
「榊原さんを呼ぶ理由は」
「場に、時間の重さを入れるためです」靈は返信した。「四十年、縄を張り替えてきた人間が場にいることで、今夜の話が川口の歴史の中に置かれます。今起きていることが、単発の出来事ではなく、長い流れの中にあることが見えてくる」
きゃるんからも連絡が来た。
「師匠、今夜の石丸さんの話、聞いていて泣きそうになりました」
「そうですか」
「泣きそうになったのが不思議でした。悲しいわけじゃないのに」
「美しいものを見たときに、涙が出ることがあります」靈は返信した。「日本語で、もったいない、という言葉が感謝と惜しむ気持ちを同時に表すように、美しいものへの反応は複雑なことがある」
「もったいない、って惜しむだけじゃなかったんですか」
「本来は、物の価値を十分に受け取れないことへの感謝も含みます。ありがたい、に近い感覚も入っている」
「難しいですね、日本語」
「ただ、その難しさの中に、細かい感情が入っています」
「今夜の石丸さんの話が、そういう感覚でした」しばらくして返信が来た。「父親が外国人の健康を祈っていた、という話が、もったいなかった。その気持ちが、ちゃんと伝わっていなかったことが」
靈は板の間に立った。
木刀を手に取った。
型を始める前に、道場に礼をした。
今夜も、道場はここにあった。その場所への報告として、礼をした。
礼から戻して、型を始めた。
摺り足で板の間を移動しながら、今夜の集会所の場を思い返した。
石丸が中央に立った。父親の話をした。場の空気が変わった。自警団の男が、自分の親父の話をした。市民グループの人間が、今もそういうことをしている人間はいると言った。
一本の話が、別の話を引き出した。
「以心伝心」という言葉が、日本にある。心が心に伝わる。言葉を超えたところで、何かが伝わる。今夜の集会所で、それに近いことが起きた気がした。
型を終えた。
板の間の隅の真剣を見た。
今夜も、触れなかった。
ただ、今夜の集会所で場が動いたことで、靈の中に一つの確認が生まれた。
話すことで変わることがある。ただ、話すことで変わらないものも、ある。
話で変わらないものが来たとき、真剣を抜くかどうかを決める日が来るかもしれない。
その日は、まだ来ていない。
ただ、その日に向けて、話すことを続けることが今の準備だ。
靈は正座した。
窓の外に、川口の夜が広がっていた。
来週、また場がある。榊原が呼ばれるかもしれない。石丸がまた話す。別の人間が来るかもしれない。
一回ずつ、積み重ねていく。
「千里の道も一歩から」という言葉が、親父の口癖だった。千里先を見るのではなく、今日一歩を確認する。
今夜の一歩は、石丸の話だった。
来週の一歩は、まだわからない。
ただ、一歩を積み重ねることが、続けることだ。




