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壱億総抜刀  作者: るふな


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第37話 「張り忘れた年の縄」

 来週の場の前日、雨森から連絡が来た。

「榊原さんに声をかけました。来る、と言っていただきました」

「話の内容は伝えましたか」

「話してもらうつもりがあれば話してください、とだけ伝えました。何を話すかは、榊原さんに任せています」

 靈は了解と返信した。

 榊原が場に何をもたらすか、靈には読めなかった。ただ、四十年という時間が、その場に入ってくることは確かだ。


 木曜日の夜、集会所に向かう前に、靈は道場で一度型を通した。

 今夜は短くした。零の型を一度だけ、確認のため。

 型を終えてから、板の間に正座した。

 今夜の場に、靈がどう関わるかを整理した。先週は途中で一度だけ問いを出した。今夜は、榊原が来る。榊原の話がどう場に影響するかを見てから、動くかどうかを決める。

 「機を見るに敏」という言葉が、親父の口癖の一つだった。機会を見極めて、素早く動く。ただ、機会を見極めることは、待つことと同じだ。動く前に、十分に見る。


 集会所に着くと、先週より早く人が集まっていた。

 自警団側が八人、市民グループが九人。先週来た顔が全員いて、新しい顔が数名混じっていた。

 榊原は、雨森ときゃるんと一緒に端の席に座っていた。健一がその隣にいる。

 石丸は、先週と同じ場所、どちらの側にも属さない位置に座っていた。

 靈は壁際に立った。


 場が始まった。

 先週からの経緯を、自警団の男が簡単にまとめた。市民グループの女性が、今週の記録活動の状況を説明した。

 先週より、言葉の出方が滑らかだった。一週間の間に、それぞれが先週の話を持って帰って、考えてきたことがわかる。

 二十分ほど話が続いてから、市民グループの一人が榊原を見た。

「今日、お年を召した方が来ていますね。どういうご関係ですか」

 雨森が答えようとしたとき、榊原が先に口を開いた。

「近くの神社の者です」


「どの神社ですか」自警団の男が聞いた。

「八雲神社です。川口に長くある神社です」

「知っています」男は続けた。「以前、あそこを巡って揉め事があったと聞きました」

「ありました」榊原はうなずいた。「ただ、今は落ち着いています」

「なぜ落ち着いたんですか」

 榊原は少し間を置いた。

「話したからです」

 場が少し静かになった。

「神社に来た人たちと、話しました。怒っていた人たちも、話せば話ができた。全部が解決したわけではありません。ただ、話したことで、次が生まれました」


 場の空気が少し変わった。

 先週は、石丸の話が場を変えた。今夜は、榊原の一言が場を動かした。

 「水は低きに就く」という言葉が、老子の言葉にある。水は高いところから低いところへ自然に流れる。力を使わずに、あるべき場所に収まる。今夜の榊原の言葉が、その動きをした。

 自警団の別の男が言った。

「話しても変わらないことがある。ここ数年、ずっとそれを感じてきました」

「そうかもしれません」榊原はうなずいた。「変わらないことの方が多い。ただ、変わることも、ある」

「どうすれば変わりますか」

 榊原はしばらく考えた。

「続けることだと思います」ゆっくりと言った。「一度話して変わらなかったとき、やめてしまえば、その一度で終わります。続ければ、変わる機会が増えます」


「一つ、話してもいいですか」

 場が静かになった。

 榊原は姿勢を整えてから、手を膝の上に置いた。

「神社の縄の話をします」榊原は続けた。「注連縄といいます。毎年、新しく張り替えるものです。私は、父から教わって、四十年以上張り替えてきました」

「四十年以上」市民グループの女性が繰り返した。

「ただ、一度だけ、忘れた年がありました」

 場が少し前に傾いた気がした。全員が、榊原の次の言葉を待っている。


「どういう年でしたか」

 靈が聞いたのではなかった。市民グループの若い男が、自然に聞いていた。

「家内が入院した年です」榊原は手を膝の上に置いたまま続けた。「年の暮れに入院して、年が明けてからも退院できなかった。その年、縄を張り替えることを、忘れました。正確には、気づいたときには時期を過ぎていた」

「それで、どうなりましたか」

「縄が古いまま、一年が過ぎました」榊原は続けた。「神社に来る人間の中に、気づいた人間がいたかもしれない。ただ、誰も何も言わなかった。神社は、そのまま続きました」


「張り忘れた年があったことを、恥ずかしいと思いましたか」自警団の男が聞いた。

「思いました」榊原はうなずいた。「長い間、続けてきたつもりだった。その年、初めて欠けた。欠けた年があったことで、続けてきた年の意味が、改めてわかりました」

「わかったとは、どういう意味ですか」

「続けることを、当たり前だと思っていました。続けることが、形を守ることだと、頭で知っていた。ただ、一度欠けてみて、初めて体でわかった気がしました」榊原は続けた。「欠けることで、満ちていたものが見えました」


 場が静かになった。

 今度の沈黙は、先週の沈黙と種類が違った。考えているのではなく、受け取っている沈黙だった。

 靈は壁際で、その沈黙を受けた。

 「守破離」という言葉が、武道や芸道にある。まず形を守り、次に形を破り、最後に形から離れる。ただ、榊原の話は少し違う。形を守り続けた人間が、一度だけ形を破った。破ることで、守ることの意味が深まった。

 守ることの意味は、守り続けているときよりも、欠けたときに見える。


「今の川口で、続けることが難しいと思っていますか」

 石丸が言った。場の中央に向けて、静かに言った。

「思っています」自警団の男が答えた。「何かが起きるたびに、続けることが馬鹿らしくなる。ただ、やめることもできない」

「やめることができないのは、なぜですか」石丸は続けた。

「わかりません。ただ、やめてしまったら、それで終わりだと思う」

 石丸は少し考えた。

「私も、同じです」石丸は言った。「息子が傷ついた夜から、やめたいと思ったことが何度もありました。ただ、やめることができなかった。やめたら、息子が傷ついたことが、何でもなかったことになる気がして」


「やめないことが、続けることですか」市民グループの女性が聞いた。

「違うかもしれません」石丸は少し間を置いた。「やめないことと、続けることは、違う気がします。やめないことは、ただ止まっていること。続けることは、少しずつ前に進んでいること」

「その違いは、どこで生まれますか」

 石丸は靈を見た。

 靈は返事をしなかった。石丸が自分で答えを出す場面だ。

「話すことだと思います」石丸は靈から目を戻して、場全体を見た。「今夜みたいに、話すことで、少し前に進む。やめないだけだったものが、続けることになる」


 場が続いた。

 先週と同じく、一つだけ問いを出すつもりで靈は待っていた。ただ、今夜は問いを出す必要がなかった。

 榊原の話と石丸の言葉が、場を動かしていた。

 会話が自然に続いていく。靈が介入するより、場に任せる方がいい。

 「無為にして為さざるなし」という言葉が老子にある。何もしないことで、全てが成される。今夜の靈の役割は、壁際に立って場を見ていることだった。何もしないことが、今夜の靈のやることだった。


 終わりに近づいた頃、榊原が靈を見た。

 靈は一歩だけ前に出た。

「今夜、一つだけ聞かせてください」

 場が靈を見た。

「次に来るとき、一つだけ持ってきてほしいものがあります。今夜の話の中で、自分が続けてきたことを、一つ思い出してきてください。仕事でも、習慣でも、どんな小さなことでも構いません。一つだけ」

「なぜですか」自警団の男が聞いた。

「続けてきたものを持っている人間が、続けることの話をすると、言葉に重さが入ります」靈は答えた。「今夜の榊原さんの話がそうでした。四十年続けてきた人間の言葉だから、張り忘れた年の話が届いた」


 場が終わって、集会所を出た。

 榊原が靈の隣に来た。

「今夜、話してよかったですか」

「よかったです」靈は答えた。「榊原さんが話してくれなければ、今夜の場はまた先週と同じ場になっていた。続けてきた人間の言葉が、場を変えました」

「張り忘れた年の話が、役に立つとは思っていませんでした」榊原は少し目を細めた。「失敗の話が、どう使えるかは、自分では判断できない」

「失敗の話は、成功の話より届くことがあります」靈は続けた。「成功の話は、聞いた人間が自分との距離を感じます。失敗の話は、自分も失敗したことを思い出します。欠けた経験を持っている人間に、欠けた話が届く」

「今夜の場にいた人間は、欠けていますか」

「欠けています」靈は答えた。「だから、ここに来た」


 帰り道、きゃるんが靈の隣に並んだ。

「今夜、師匠は何もしませんでしたね」

「そうです」

「壁際に立っていただけ」

「それが今夜の役割でした」

「でも、場は動きました」きゃるんは続けた。「何もしないで、場が動いた。それって、すごいことじゃないですか」

「何もしないことが、今夜の場には必要でした」靈は答えた。「いつも動くことが正しいわけではない。引くことが必要な場面がある。今夜は、引く場面でした」

「それを、どうやって判断しましたか」

「場を見ていました。榊原さんが話し始めたとき、場が自分で動き始めた。自分で動いている場に、外から入ると、場が壊れます。入らずに見ていた」


 きゃるんが少し考えた。

「今日の稽古で教えてもらった、和の間と同じですか」

「同じかもしれません」靈は答えた。「和の間に入ることと、和の間の外で待つことは、どちらも間合いの技術です」

「外で待つことも、技術なんですか」

「技術です。ただ、難しい技術です。入ることよりも、待つことの方が、判断が難しい」

「なぜですか」

「入ることは、体が動くから確認できます。待つことは、動かないから、待てているかどうかが自分でわかりにくい」靈は続けた。「ただ、待つことにも型があります。零の型が、その一つです。動く前の状態を、意識的に保つ練習です」

「師匠は今夜も、零の状態でいたんですか」

「いようとしていました」靈は答えた。「完全にできていたかどうかはわかりません」


 道場に戻ったのは、夜十時を少し過ぎていた。

 雨森からメッセージが来ていた。

「今夜の場、よかったです。榊原さんが来てくれたことで、場に時間の重さが入りました。拝郷さんが今夜動かなかったことも、正しい判断だったと思います」

「来週の場は続けますか」

「続けます。ただ、来週は少し形を変えたいと思っています。提案があります。明日、道場で話せますか」

「どうぞ」


 石丸からも連絡が来た。

「今夜、帰り道に考えていました。父が通った神社と、今夜榊原さんが話した八雲神社が、同じかもしれない、と」

「同じかもしれませんね」靈は返信した。「川口の鋳物工場で働いていた時代、近所の神社に頭を下げていた。その神社が八雲神社かどうかは、確認できないかもしれない。ただ、川口にある神社という意味では、繋がっています」

「繋がっている、か」しばらくして返信が来た。「今夜の榊原さんの話を聞きながら、父が神社に頭を下げていた場面を想像していました。同じ縄の前で、同じように頭を下げていたかもしれない」

「その想像が、今夜の場で話をするときの力になっていたと思います」

「そうかもしれません」最後の返信が来た。「拝郷さん、私はまだ続けられますか」


 靈は少し考えてから返信した。

「続けられます。ただ、続けられるかどうかを確認するために、続けることが必要です」

「それは、やってみなければわからない、ということですか」

「そうです。案ずるより産むが易し、という言葉があります。ただ、易しくないこともある。どちらかは、やってみなければわからない」

「前にも同じことを言っていましたね」

「同じことが、何度も確認されるということです」靈は返信した。「大事なことは、一度言えばわかるものではない。繰り返し確認されて、体に入っていく」

「縄を毎年張り替えることと、同じですね」

「同じです」


 板の間に立って、木刀を手に取った。

 型を始める前に、道場に礼をした。

 今夜も、道場はここにあった。

 榊原が張り忘れた年があった。ただ、翌年また張り替えた。続けることは、欠けることを含んでいる。欠けた年があっても、翌年張り替えれば、続けることは続く。

 礼から戻して、型を始めた。

 型をやりながら、靈は自分に問いを向けた。

 靈が道場の稽古を怠けていた年は、何年あったか。AIに動画を作らせて、木刀に触れなかった一年。ただ、今年また触れた。続けることは、欠けた年があっても、続けられる。


 型を終えた。

 板の間の隅の真剣を見た。

 今夜も、触れなかった。

 ただ、今夜の榊原の話が、靈の中で一つのことを整理した。

 欠けることで、満ちていたものが見える。

 真剣を抜かないことが続いている。それは、抜く必要がなかったからだ。ただ、抜かないことが続くほど、抜く瞬間が来たときの意味が重くなる。

 欠けた年の縄が、張り続けた年の意味を明らかにしたように、抜かなかった日々が、抜く日の重さを作っている。

 靈は真剣に近づかなかった。

 ただ、今夜は真剣との距離が、以前と違う感じがした。遠い、のではなく、必要な距離にある、という感覚だ。


 正座して、目を閉じた。

 来週の場がある。榊原がまた来るかもしれない。石丸が、続けられるかどうかを確認しながら来る。自警団と市民グループが、自分が続けてきたものを持ってくる。

 一つ一つが積み重なっていく。

 「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という孔子の言葉が、親父の本棚の本に書いてあった。朝に真理を知ることができれば、夕方に死んでも悔いはない。

 一日の中に、一つの気づきがあれば、その日は十分だ。

 今夜の気づきは、欠けることで満ちていたものが見える、ということだった。

 それが今夜の一歩だ。

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