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壱億総抜刀  作者: るふな


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第38話 「灯籠、ひとつ」

きゃるんが鬼籍に入ったのは、金曜日の夜だった。

 靈がそれを知ったのは、翌朝の土曜日。

 雨森からの電話が来たのは、朝の型を終えてすぐだった。靈はまだ板の間に立っていた。木刀を壁に戻したばかりで、手のひらに木の感触が残っていた。

「拝郷さん」

 雨森の声が、いつもと違った。最初の一言でわかった。

「なんですか」

「きゃるんさんが、昨夜亡くなりました」

 靈は木刀を持っていた手を、壁についた。

 板の間の木が、やけに冷たく感じた。


 雨森が道場に来たのは、一時間後のことだった。

 引き戸の前で礼をしてから入ってきた。今日は礼の角度が、いつもより深かった。

 板の間に向かい合って座った。靈は茶を淹れなかった。そういう場面ではないと感じたのだ。

「昨夜の十一時過ぎです」雨森は静かに言葉を漏らした。「川口南部の工場跡地の近くで、ムスリム系の移民グループが一般の女性に暴行を加えていました。きゃるんさんが、その場を通りかかった」

 靈は黙って聞いた。

「目撃していた市民から話を聞きました。きゃるんさんは、女性を助けようとして、工場跡地の廃材の鉄パイプを拾って、移民グループに向かっていった。そのうちの一人が、ナイフを所持していた」

 雨森が一度止まった。

「刺されました。腹部です。搬送されましたが、病院で亡くなっています」


 靈はしばらく、板の間を見ていた。

 きゃるんが鉄パイプを持って向かっていった。

 師匠が教えたことを、使おうとした。誰かを守るために、武器になるものを持って、立ち向かった。

 ナイフが出た後では、話の時間はない。

 靈がずっと考えてきた問いが、現実になった。最悪の形で。

「親族は」靈は言った。

「確認しましたが、連絡が取れる親族がいません」雨森は続けた。「父親の所在が不明で、母親はすでに亡くなっています。他の親族も、確認できていません」

「葬儀は」

「行われません。身元引受人がいない場合の手続きになります」


 靈は立ち上がった。

 板の間を歩いた。一歩、二歩。壁際まで歩いて、木刀を見た。

 昨日の夜、きゃるんは道場にいなかった。週に一度の稽古は、今週はもう終わっていた。昨夜、きゃるんが一人で歩いていたのは、仕事ではなかった。

「誰かに呼ばれていたんですか」

「わかりません」雨森は首を振った。「ただ、通りかかった、という証言です。意図してその場に行ったのか、偶然なのかは、まだ確認中です」

「きゃるんらしい」靈は壁際から振り返った。声が少し変わっていた。「通りかかって、見て、動いた。それがあの子のやり方だった」


 雨森が続けた。

「移民グループの人間は、現在警察が追っています。ただ、対応が遅れています」

「暴行を受けていた女性は」

「軽傷です。病院で手当てを受けています」

「きゃるんが向かっていったとき、女性は」

「逃げていました。その隙に」

 靈はうなずいた。

 きゃるんが向かっていったことで、女性が逃げる時間が生まれた。そういうことだ。

 ナイフを持った人間に、鉄パイプで向かっていった。怖かったはずだ。怖いことと、動くことは別だ、と靈はきゃるんに言った。

 きゃるんは、その言葉通りに動いた。


「石丸さんには、私から伝えます」靈は言った。「健一さんには」

「健一さんには、今朝私から連絡しました」雨森の目が少し赤くなっていた。「健一さんは、今神社に行っています。父と一緒に、大祓詞を唱えると言っていました」

 靈は少し間を置いた。

「南部の対話の場は」

「今週は、できません」雨森は続けた。「きゃるんさんの件が広まれば、川口の状況が変わります。昨夜からSNSで情報が出始めています。自警団の人間の一部が、今朝から動いています」

「どういう動きですか」

「怒りです」雨森は一言で言った。「今夜、南部で何かが起きると思います」


 雨森が帰った後、靈は一人で板の間に座った。

 長い時間、動かなかった。

 きゃるんの顔が、頭の中に何度も出てきた。

 最初に会ったとき、隣の空き家の玄関前で男たちに腕をつかまれていた。靈が木刀を帯に差して、零の型の最初の動作で男たちの背後に回った。きゃるんは状況が呑み込めていない顔をしていた。

 道場に来て、靴を揃えた。礼をした。木刀を受け取った。怖いんだけど、さらしたい、と礼について言った。師匠、という呼び方に変えた。

 最後に道場に来たのは、いつだったか。

 先週の木曜日の夜、集会所できゃるんが隣に並んだ。今夜、師匠は何もしませんでしたね、と言った。

 それが最後だった。


 石丸に電話した。

 二度鳴って繋がった。

「知っています」石丸は言った。「今朝、確認しました」

「知っていましたか」

「はい」しばらく沈黙があった。「私の知っている中で、一番余計なことをしない子でした。だから、あの場面で動いたことが、想像できます」

「余計なことをしない」

「必要なことだけ、やる子でした」石丸は続けた。「あの夜、その場を通りかかって、必要なことをやった。それで、死んだ」

 靈は返事をしなかった。

「今夜、南部で何かが起きます」石丸は続けた。「私は、今夜は止めに行きません」

「なぜですか」

「私も、止まっていません」石丸の声が、かすれていた。「今夜だけは、止まれない」


 電話を切った。

 靈は板の間の中央に立った。

 何をすべきかを考えた。

 今夜、南部で暴力が起きるかもしれない。靈が行けば、和の間を作ることができるかもしれない。ただ、石丸でさえ止まれないと言った夜に、靈の言葉が届くかどうかはわからない。

 きゃるんが死んだ。移民の一人がナイフを使った。それは事実として川口に残った。

 その事実が、怒りを作っている。

 靈の内側にも、何かがある。それが怒りかどうかは、まだわからない。ただ、いつもより体が重かった。板の間が、いつもより遠く感じた。


 靈は真剣の前に立った。

 鞘を持ち上げた。

 いつもより、軽く感じた。いや、軽くなったのではない。靈が重くなったのだ。

 鞘から、わずかに刃を出した。

 刃文が見えた。曾祖父から続く刃だ。親父が触れた刃だ。靈がこれまで抜かなかった刃だ。

 今夜、これを持って南部に行くべきか。

 靈は刃を見ながら、自分に問いを向けた。


 きゃるんは鉄パイプを持って向かっていった。

 武器を持って、誰かを守ろうとした。ナイフが出た後では、話の時間はない。それは靈がずっと考えてきたことだ。

 鉄パイプでは、ナイフに勝てなかった。

 真剣なら、違ったか。

 靈は自分にそう問いかけてから、止まった。

 違う問いだ。それは、靈がその場にいたかどうかという問いで、真剣があったかどうかという問いではない。

 靈はその場にいなかった。きゃるんは一人でその場に向かった。

 靈が真剣を持っていたとしても、その夜、その場所に靈はいなかった。


 刃を収めた。

 ただ、手は鞘から離れなかった。

 今夜、南部で何かが起きる。自警団の怒りが、今夜どこかに向かう。移民への暴力になるかもしれない。それを止めようとする人間が傷つくかもしれない。

 靈が行けば、和の間を作ることができるかもしれない。木刀で、零の型で、場の空気を変えることができるかもしれない。

 ただ、今夜の怒りは、きゃるんが殺されたことから来ている。

 靈自身の中にある重さも、同じところから来ている。

 靈が和の間に入ろうとするとき、靈の内側にあるものが、間合いに影響する。今夜の靈の内側が、和の間を作れる状態かどうか。


 真剣の鞘を床に置いた。

 板の間に座った。

 真剣を前に置いて、向かい合った。

 何のために、この刃があるか。

 曾祖父が持っていた。使ったかどうかは、わからない。親父は使わなかった。靈も、使っていない。

 使わないことが、正しかったのか。

 きゃるんが鉄パイプで向かっていったとき、靈が隣にいれば、靈は何をしたか。木刀で場の空気を変えようとしたか。真剣を抜いたか。それとも、話しかけたか。

 わからない。

 ただ、どれをやっても、ナイフが出ていたなら、きゃるんが傷つく可能性は変わらなかったかもしれない。


 真剣を見ながら、靈は一つの問いに向き合った。

 これを抜く日が、来るか。

 来るとすれば、どういう場面か。

 きゃるんのような場面か。誰かが傷つきそうになっていて、話が通じない相手がいて、木刀では届かない状況。

 その場面で、靈は真剣を抜くか。

 抜くとすれば、何のためか。誰かを守るためか。それとも、怒りのためか。

 義のために抜くことと、怒りのために抜くことは、刃の動きが同じでも、中身が違う。

 「怒りは下段に抑えよ」と、靈は石丸に言ったことがある。怒りを完全に消すのではなく、下に置いて、上に別のものを乗せる。

 今夜の靈の怒りは、まだ下段に抑えられているか。


 わからなかった。

 今夜、靈は自分の内側をうまく確認できていない。

 きゃるんが死んだという事実が、靈の中で何かを変えている。それが何かは、まだわからない。

 ただ、変わった状態で、今夜南部に行くことが正しいかどうかを、靈は判断できなかった。

 真剣を持って行くことは、今夜ではない。それだけは確かだった。

 今夜の靈は、真剣を持って行く状態ではない。怒りが下段に抑えられているかどうかが、自分でわからない状態で、刃を持って出るべきではない。


 靈は真剣を元の場所に戻した。

 立ち上がって、木刀を一本手に取った。

 南部には行かない。今夜は行かない。

 ただ、一つだけやることがある。

 靈は道場を出た。


 荒川の河川敷に着いたのは、夕方だった。

 三田の祖父が灯籠を流した場所だ。靈が親父の灯籠を流した場所だ。

 叢雲のテープも、警察の規制線も、何もない。ただ、川が流れている。

 靈は近くの店で、小さな和紙の灯籠を一つ買った。蝋燭を立てた。

 河川の縁に膝をついた。

 火をつけた。

 蝋燭の火が、風に揺れて、それから落ち着いた。

 靈は灯籠を水面に置いた。

 手を合わせた。

 きゃるんの顔が、また頭に出てきた。

 師匠、という声が、頭の中に聞こえた気がした。その声を何度も思い出そうとしては、だんだん薄れていく。


 灯籠がゆっくりと流れ始めた。

 靈は火が消えるまで、その場にいた。

 灯籠が遠ざかっていく。蝋燭の光が揺れながら、下流に向かっていく。

 きゃるんの魂が、迷わないように、明かりを灯して送り出す。それが、この行事の意味だと、靈は以前話した。

 親族がいない。葬儀がない。

 だから、靈が一人でここに来た。

 葬儀ができないなら、灯籠を流す。弔いは、誰かに禁じられるものじゃない。三田の祖父が書いていた言葉が、頭の中に出てきた。


 灯籠の光が、川の曲がり角で見えなくなった。

 靈は立ち上がった。

 川の水が、ずっと流れている。

 きゃるんが死んだ。それは変わらない事実として、ここに残る。

 靈はその場を離れなかった。

 しばらく、川を見ていた。

 今夜、南部で何かが起きている。雨森から連絡が来るかもしれない。石丸が止まれないと言っていた。収拾がつかない状況になっているかもしれない。

 ただ、今夜の靈には、その場に行く状態ではない。

 それは逃げることか。

 靈は自分に問いかけた。

 逃げることと、今夜は動かないと判断することは、別のことのはずだ。ただ、その境界が、今夜は見えにくかった。


 スマートフォンが鳴った。

 雨森からだった。

「今夜の南部の状況です。自警団の複数のグループが、移民のアパート周辺に集まっています。叢雲の体制では対応できていません。警察が来ていますが、数が足りていない。拝郷さん、今夜は来られますか」

 靈は川を見たまま、少し間を置いた。

「今夜は、行きません」

 雨森が一瞬止まった。

「わかりました」雨森は続けた。「理由を聞いてもいいですか」

「今夜の私が、場に入れる状態かどうかがわからない」靈は正直に言った。「自分の内側が確認できていない状態で、和の間に入ることはできない」

「わかりました」雨森は言った。「今夜は、叢雲の残っているスタッフと警察に任せます。無理をする必要はありません」


 電話を切って、靈は河川敷に立ち続けた。

 今夜行かなかったことで、誰かが傷つくかもしれない。その可能性は、受け入れなければいけない。

 ただ、靈が行って、靈の内側が整っていない状態で場に入れば、状況が悪化する可能性もある。

 どちらの判断が正しいかは、今夜終わらなければわからない。

 きゃるんを失った日の夜に、靈は今夜動かないことを選んだ。

 それが正しいかどうかは、まだわからない。

 ただ、今夜の靈には、それ以外の判断ができなかった。


 道場に戻ったのは、夜の九時を過ぎていた。

 板の間に入った。

 木刀を壁から外さなかった。

 板の間の隅の真剣の前に、靈は立った。

 今夜、真剣の前で自問自答した。答えは出なかった。

 ただ、今夜の問いの形が、以前より具体的だということはわかった。

 真剣を抜くことと、抜かないことの間に、今夜の靈はいる。どちらが正しいかではなく、どちらを選ぶかという問いが、今夜初めて、現実の重さを持った。

 きゃるんが居なくなったことで、その問いに重さが入った。


 靈は真剣の鞘に、一度だけ手を置いた。

 触れた。

 鞘の木の感触が、手のひらにあった。

 それから、手を離した。

 今夜は抜かない。今夜の靈には、まだわからないことが多すぎる。

 ただ、今夜の問いを、忘れないようにしておく必要がある。


 板の間に正座した。

 礼をした。道場に向かって。

 首の後ろをさらす。ただ、今夜の礼は、いつもと少し違った。誠意を示すというより、今夜の自分を受け取ってほしいという礼だった。道場に、今夜の靈を預けるような礼だった。

 礼から戻した。

 零の型を始めようとして、止まった。

 今夜は、型をやらない。

 きゃるんが死んだ夜に、型をやることが、靈にはできなかった。

 ただ、座っていることはできた。

 板の間に、長い間座っていた。

 外から、川口の夜の音が入ってきた。どこかで誰かが怒鳴っている。サイレンの音が、遠くから聞こえてきた。

 川口が、荒れている。

 きゃるんが死んだことで、まとまりつつあったものが、また散り始めている。

 靈には、今夜それを止める力がなかった。


 夜が深くなって、雨森から最終報告が来た。

「今夜の南部では、複数の衝突がありました。軽傷者が数名出ています。警察が対応していますが、収拾には時間がかかっています。明日以降の状況は、予測できません」

 靈は既読だけをつけた。返信しなかった。

 石丸からも、夜遅くにメッセージが来た。

「今夜、止まれませんでした。南部に行きました。ただ、私一人では何もできなかった。きゃるんさんのことを、ずっと考えていました」

 靈はそれにも、しばらく返信しなかった。

 それから、一行だけ返信した。

「今夜は、それでよかったと思います」


 板の間に、靈は夜明けまで座っていた。

 眠らなかった。眠れなかったのではなく、眠る気になれなかった。

 きゃるんが最後に道場に来た日の夜、帰り際に言っていた。

 師匠の答えって、いつも一個だけですね。ただ、その一個で相手が決まる。

 靈には今、一個の答えも出なかった。

 きゃるんが死んで、川口が荒れて、真剣の前で自問自答して、今夜動かないことを選んで。

 全部が、答えのない問いのまま、夜明けまで残っていた。

 窓の外が、少しずつ白んでいった。

 川口の夜明けが来た。

 新しい一日が始まる。

 きゃるんがいない、新しい一日が。

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