第39話 「欠けた形」
きゃるんが亡くなって三日が経った。
道場の板の間に、木刀が一本、余っていた。
きゃるんが使っていた木刀だ。靈が選んで渡した、少し短めのものだ。きゃるんの体格に合わせて選んだ。
靈は毎朝、その木刀を見た。壁に立てかけたまま、触れなかった。壁から外して別の場所に移すことも、しまうことも、できなかった。
型を通すとき、その木刀が視野に入る。入るたびに、靈の動きが少し変わる。変わることに気づいて、また動き直す。それが三日間続いていた。
四日目の朝、チャイムが鳴った。
引き戸を開けると、見知らぬ男が立っていた。三十代、作業着を着ている。その後ろに、さらに数人が路地に立っているのが見えた。
「道場の方ですか」
「そうです」
「居合を教えてもらいたい。入門したい」
靈は男の後ろを見た。路地に、五人、六人と立っている。
「今日は受け付けていません」
「そんなこと言わずに」男は続けた。「先日、女の子が移民に殺害された事件、ご存知ですよね。ああいうことが起きたら、自分で身を守れないといけない。居合を教えてくれれば、俺たちも戦える」
靈は引き戸を少し引いた。
「明日の午前十時に来てください」
翌朝、道場の前に三十人以上が集まっていた。
靈は引き戸を開けて、全員を見た。
年齢はばらついている。二十代から五十代まで。男性が多いが、女性も数名いる。みんなコートを着ていて、息が白い。路地が、人で埋まっていた。
全員が靈を見ていた。
「板の間に入りきりません」靈は言った。「外でいいですか」
全員がうなずいた。
靈は引き戸を開けたまま、道場の前の路地に出た。
「居合を学びたい理由を、聞かせてください」靈は言った。
最初に来た作業着の男が前に出た。
「身を守るためです」男は言った。「移民にやられないように。亡くなった少女みたいなことが、自分や家族に起きないように」
「他の方も、同じ理由ですか」
複数がうなずいた。
「もっと直接的に言います」別の男が言った。「礼とか作法とかはいいんで、あいつらをやっつける技術を教えてほしい。実戦で使える技術を」
場がざわめいた。同意する声が、複数から出た。
靈はその声を、しばらく受けた。
「一つだけ確認させてください」靈は続けた。「攻撃の手段として居合を学びたい方は、私ではお力になれません」
場が少し静かになった。
「なぜですか」作業着の男が言った。「身を守ることは、正当防衛じゃないですか」
「身を守ることと、攻撃の手段を持つことは、別のことです」靈は答えた。「居合は、刃を相手に向けることを教える技術ではない。刃を向ける必要がない状態を作るための技術です」
「その違いが何になるんですか」
「違いは、使うときに出ます」靈は続けた。「攻撃の手段として持った刃は、怒りがあれば使います。守るための刃は、怒りがあっても、守れるなら使わない」
「屁理屈じゃないですか」別の男が言った。「女の子は死んだんですよ。怒るのは当然じゃないですか」
「怒りは正当です」靈は答えた。「ただ、怒りのために刃を教えることは、私にはできません」
場がざわついた。
文句の声が出た。
「じゃあ、お前は何もしないのか」
「役に立たない道場主だ」
「亡くなった少女のことを、どう思っているんですか」
靈は動かなかった。
一つ一つの言葉を、体で受けた。
怒りがある。正当な怒りだ。きゃるんが死んだことへの怒りは、靈の中にもある。それを否定するつもりはない。
ただ、その怒りを刃に乗せることは、靈にはできない。
「帰ります」男が言った。「役に立たない」
背を向けて歩き始めた。
他の人間も、続いて離れていった。文句を言いながら去る人間、無言で去る人間、靈を見てから去る人間。
三十人以上いた人間が、一人ずつ減っていった。
靈は路地に立ったまま、その場にいた。
全員が去った、と思ったとき、路地の端に一人だけ残っているのに気づいた。
若い女性だった。
二十代と思われる。コートを着て、マフラーを巻いている。他の人間が文句を言いながら去っていく間、端で立っていた。靈とは目が合っていなかった。
全員が見えなくなってから、その女性は靈の方を向いた。
「まだいていいですか」
「どうぞ」
引き戸を開けて、女性を板の間に通した。
靴を脱ぐとき、女性は自然に靴を揃えた。靈はそれを視界の端にとらえた。
向かい合って座った。
靈が茶を淹れようとすると、女性は少し首を振った。
「結構です。短くて済みますから」
「名前を教えてもらえますか」
「東條若菜です」女性は正面を向いたまま言った。「二十四歳です。新潟出身で、今は川口に出向しています。仕事はスポーツ用品メーカーの営業です」
「川口には、長くいますか」
「一年半です」
「今日、来た理由を聞かせてください」
東條若菜は少し間を置いた。
「最初から、あの人たちと目的が違いました」若菜は言った。「攻撃の手段が欲しかったわけじゃない」
「どういう目的で来ましたか」
「自分が今、どう立ち回るべきかを教えてほしかった」若菜は靈を見た。「道場主さんのことは、知っていました。神社での一件を、近所の人から聞いていた。鳥居の前で木刀を持って立っていた人がいると。そしてそこには吉田さんも居たと」
「それを聞いて、来ようと思ったんですか」
「それだけじゃないです」若菜は続けた。「吉田さんの件が、他人事と思えなかった。川口で一人で働いている女性として。夜道を歩くことがある女性として。あのニュースを見て、次は自分かもしれないと思った」
「怖かったんですか」
「怖かったです」若菜はうなずいた。「怖いのに、何もできない。逃げればいいとは思うんですが、吉田さんは逃げなかった。それが、頭から離れなかった」
「きゃるんとは、面識がありましたか」
「ありません。ただ、歳が近い。川口で一人で生活している女性として、近いものを感じました」
靈は少し間を置いた。
「どう立ち回るべきかを教えてほしい、と言いました。それは、武器を持つこととは違う話ですか」
「違います」若菜は答えた。「私が知りたいのは、吉田さんがやろうとしたことが、どこから来ていたのか、ということです。あの人は、なぜ向かっていけたのか。私には、できない気がする。ただ、何もしないでいることも、できない気がする。その間で、どうすればいいかがわからない」
靈は若菜を見た。
目が、動いていない。逸らしていない。
「きゃるんは、私の弟子でした」靈は言った。
若菜が少し目を見開いた。
「知りませんでした」
「礼の作法と、木刀の持ち方と、立ち方を教えました。それだけです」靈は続けた。「ただ、きゃるんが最後にやったことは、私が教えたことからは外れています」
「どういう意味ですか」
「私は、きゃるんに鉄パイプを持って向かっていくことを教えていない」靈は言った。「きゃるんが向かっていったのは、きゃるん自身の判断です。稽古が、その判断を支えたかもしれない。ただ、教えたことと、きゃるんがやったことは、同じではない」
「それは、後悔していますか」
靈は少し間を置いた。
「しています」
若菜はしばらく靈を見ていた。
「道場主さんは、何を後悔していますか」
「きゃるんがその場にいたとき、私はいなかった」靈は答えた。「それだけです。教えたことへの後悔ではなく、いなかったことへの後悔です」
「いたとしても、同じことが起きたかもしれない」
「そうかもしれません」靈は続けた。「ただ、いることで、別の可能性があったかもしれない。その可能性を、私は持てなかった」
若菜はしばらく考えた。
「私が知りたいことと、道場主さんの後悔は、同じところから来ていると思います」
「どういう意味ですか」
「その場に、どうあるべきか、ということです」若菜は言った。「向かっていくことも、逃げることも、それぞれの答えです。ただ、自分の答えがわからない。何かが起きたとき、自分がどう動くかを、今のうちに知っておきたい」
「それは、稽古で確認できることです」靈は言った。
「稽古で、ですか」
「型を通すことで、自分の動き方がわかります」靈は続けた。「どこで力が入るか、どこで視線がずれるか。体の癖が見えてくる。癖を知ることで、判断の前に自分がどう動きやすいかがわかる」
「それが、どう立ち回るかに繋がりますか」
「繋がります」靈は答えた。「判断は、体の癖に引っ張られます。癖を知っていれば、引っ張られずに動けます。引っ張られずに動けるようになることが、その場での立ち回り方を選べるようになることです」
「選べるようになること」若菜は繰り返した。
「向かっていくか、逃げるか、その場にいるか。その選択ができる状態になることが、稽古の目的の一つです」
若菜は少し考えてから言った。
「教えてもらえますか」
「始める前に、一つだけ確認します」靈は言った。「居合の稽古で、最初に教えることは礼です。礼の意味から始めます。それが受け入れられれば、来週から稽古を始めます」
「礼の意味、というのは」
「礼は、首の後ろをさらすことです」靈は続けた。「急所をさらすことで、相手に信頼を示す。それが礼の本義です。その意味を知った上で礼をすることが、稽古の始まりです」
「今日、聞かせてもらえますか」
「どうぞ」
靈は立ち上がって、板の間の中央に立った。
若菜も立った。
「今日は、礼の意味だけです。動作は今日覚えなくていい。意味を持って帰ってください」
「わかりました」
「礼をするとき、頭を下げます。頭を下げることは、首の後ろをさらすことです。首は、人間の急所です。急所を相手にさらすことは、本来であれば危険な行為です」
若菜が聞いている。
「その危険な場所を自分からさらすことで、あなたを傷つける気はないという意思を示す。信頼の表明が、礼です。礼は服従ではない。対等な相手への信頼の示し方です」
「対等な相手への」若菜は繰り返した。
「そうです。怖い相手に対して礼をすることは、怖さがあってもあなたを信頼していると示すことです。怖いことと、礼をすることは、別のことです」
若菜がゆっくりとうなずいた。
「きゃるんさんは、礼を学んでいたんですか」
「学んでいました」靈は答えた。「礼が体に入ってきていると、私が確認した直前まで、稽古を続けていた」
「礼が体に入っていた人間が、向かっていった」若菜は少し考えた。「礼は、怖くてもさらす、と言いましたね。向かっていくことも、怖くても動くことです。繋がっていますか」
靈は少し間を置いた。
「繋がっているかもしれません」靈は答えた。「きゃるんがそのつながりを意識していたかどうかは、わかりません。ただ、礼が体に入っていた人間の動き方として、矛盾していない」
「私も、そういう動き方ができるようになりますか」
「時間はかかります」靈は答えた。「ただ、始めることはできます」
若菜が帰り際、靴を揃えて、引き戸の前に立った。
そのまま、引き戸を開ける前に、頭を下げた。
礼をした。
意味を聞いてから、数分後の礼だ。動作を教えていない。ただ、意味だけを聞いて、自分でやった。
三秒ほど保ってから、頭を上げた。
「来週、来ます」
「待っています」
引き戸が閉まった。
靈は一人、板の間に立った。
壁のきゃるんの木刀を見た。
今日、三十人以上が来て、ほぼ全員が帰った。最後まで残った一人が、礼をして出ていった。
欠けた形が、別の形を引き寄せることがある。
榊原が張り忘れた年の縄の話をした後、場が動いた。今日、きゃるんがいないことで、東條若菜が来た。
欠けているから、見えるものがある。きゃるんの木刀が余っているから、その木刀の重さが今日感じられた。
靈はきゃるんの木刀を、壁から外した。
初めて手に取った。
軽かった。きゃるんの体格に合わせて、少し短くしたものだ。
靈の手には、少し短い。
靈はその木刀を持って、板の間の中央に立った。
型を始めた。
今日で初めて、靈はきゃるんの木刀で型をやった。
短い木刀の感触が、手のひらにあった。いつもの感触と違う。ただ、木刀は木刀だ。持ち方は同じ。重心を落として、摺り足で動く。
型を通した。
短い木刀でも、型は型だった。
型を終えて、靈はきゃるんの木刀を壁に戻した。
ただ、今日は別の位置に立てかけた。
これまで靈が使っていた木刀の隣に、並べて置いた。
二本、並んでいる。
欠けた形は、まだそこにある。きゃるんはいない。ただ、木刀は残っている。
来週、東條若菜が来る。若菜に、きゃるんの木刀を渡すかどうかは、まだ決めていない。
ただ、その木刀が、誰かの手に渡る可能性が生まれた。
板の間に正座して、道場に礼をした。
今日一日への報告として。きゃるんが亡くなって初めて、きゃるんの木刀で型をやったことへの、報告として。
礼から戻した。
窓の外に、川口の夜が広がっていた。
きゃるんが死んで、川口が荒れた。自警団が動いた。石丸が止まれなかった夜があった。
ただ、今日、東條若菜が最後まで残った。
全部が欠けていく中で、残るものがある。
欠けることで、残るものが見える。
それが今日、靈に見えたことだった。




