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壱億総抜刀  作者: るふな


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第40話 「三田の来訪」

倉敷から連絡が来たのは、若菜が道場に来た翌日だった。

 朝の型を終えて、きゃるんの木刀と自分の木刀を並べて壁に戻したところだった。二本並んでいる様子が、靈の目に入る。毎朝そうなっている。

 電話が鳴った。

「三田先生が、川口に来たいと言っています」倉敷の声は静かだった。「拝郷さんに会いたいと言っています。私から止めることもできるのですが、先生の意志が強くて」

「来てください」靈はすぐに答えた。

「理由を聞かないんですか」

「聞きません。来てくれるなら、それだけで十分です」

 短い沈黙があった。

「わかりました。明後日、私が連れてきます」


 明後日の午前、靈は道場を少し丁寧に整えた。

 座布団を三枚出した。茶器を確認した。それから板の間を見回した。

 二本の木刀が、壁に並んでいる。

 靈は二本をそのままにしておくことにした。しまう必要はない。この場所にあるものを、この場所にあるまま見せる。それが、三田への誠意だと思った。


 午前十時、チャイムが鳴った。

 引き戸を開けると、倉敷が立っていた。その隣に三田がいた。

 三田は公園で会ったときと同じコートを着ていた。ただ、今日は杖を持っていた。前に会ったときはなかった。

「遠いところを」靈は頭を下げた。

「川口は、さいたまより近い」三田はかすかに笑った。「倉敷が連れてきてくれた」

「どうぞ」


 二人を板の間に通した。

 三田が板の間に入ったとき、公園で会ったときと同じように足を止めた。柱を見て、木刀を見て、奥の六畳間を覗いた。

 そして、壁の二本の木刀を見た。

 長い間、そこで止まっていた。

 倉敷が靈を見た。靈は首を振った。倉敷は何も言わなかった。

 三田がゆっくりと二本の木刀に近づいた。杖をついて、一歩ずつ。

 木刀の前に立って、二本を見た。

 それから靈を向いた。

「これは、誰の木刀ですか」


 靈は少し間を置いた。

「きゃるんの木刀です」靈は答えた。「私の弟子でした。先日亡くなりました」

 三田はまた二本の木刀を見た。

「右と左、どちらがきゃるんさんのですか」

「右です。少し短いのが、きゃるんのものです」

 三田が右の木刀に手を伸ばした。触れた。鞘でも刃でもない、木刀だ。柄の部分に、指先で触れた。

「軽い」三田は言った。

「きゃるんの体格に合わせて選びました」

「何歳でしたか」

「十七歳でした」

 三田が手を離した。それから、座布団に向かって歩いた。靈が座布団を置いた場所に、静かに座った。


 倉敷が隣に座った。靈が向かいに座った。

 茶を淹れた。

 三田は湯呑みを受け取って、一口飲んだ。

 それから、靈を見た。

「きゃるんさんのことを、話してもらえますか」

「どこから話しますか」

「最初に会ったときから」

 靈は少し考えてから、話し始めた。

 隣の空き家の玄関前で、男たちに腕をつかまれていたこと。木刀を帯に差したまま、零の型の最初の動作で男たちの背後に回ったこと。きゃるんが状況が呑み込めていない顔をしていたこと。

 叢雲に紹介されて、神社の手伝いをするようになったこと。太鼓を初めて打ったこと。鳥居の前で、礼をして入るようになったこと。

 稽古に来るようになったこと。靴を揃えること。礼の意味を聞いたとき、「怖いんだけどさらしたい」と言ったこと。

 師匠、という呼び方に変えたこと。

 三田は黙って聞いていた。


「最後に道場に来たのは、いつですか」靈が話し終えると、三田が聞いた。

「亡くなる一週間前です。集会所での対話の場の帰り道に、一緒に歩きました」

「最後に何を話しましたか」

「師匠の答えって、いつも一個だけですね、と言っていました」靈は続けた。「ただ、その一個で相手が決まる、と」

 三田がわずかに目を細めた。

「きゃるんさんは、師匠のことをよく見ていましたね」

「見ていました。私よりも、私のことをよく見ていたかもしれない」

「弟子は、師匠を見るものです」三田は続けた。「師匠は、弟子が自分を見ていることを、後から知ることが多い」


 倉敷が口を開いた。

「先生が川口に来たいと言ったのは、きゃるんさんのことを聞いたからです」

「そうです」三田はうなずいた。「倉敷から連絡が来ました。拝郷さんの弟子が亡くなったと。それで、来なければいけないと思いました」

「なぜですか」靈は聞いた。

「師が弟子を失ったとき、師の横にいる人間が必要です」三田は靈を見た。「倉敷も来ているが、倉敷は拝郷さんの弟子ではない。わしは、師が弟子を失う気持ちを、知っています」

「三田さんも、弟子を失ったことがありますか」

「あります」三田は湯呑みを置いた。「教師をしていた頃の話です。教え子が一人、事故で亡くなりました。二十歳のときです」


 靈は返事をしなかった。

 三田が続けた。

「その子の顔が、今でも出てきます。何十年経っても」三田はゆっくりと言った。「ただ、顔が出てくることは、悪いことではないと、今は思っています。顔が出てくることは、その子がまだここにいるということです」

「きゃるんの顔も、毎日出てきます」靈は言った。

「出てくるでしょう。しばらくは、毎日出てくる。それでいい」三田は続けた。「ただ、出てくるたびに、師匠が自分をどう見ていたかが、弟子には伝わっていく気がします」

「どういう意味ですか」

「きゃるんさんは、師匠の答えは一個だけだと言いました。ただ、その一個で相手が決まると言った。その言葉は、きゃるんさんがよく見ていたからこそ出てきた言葉です」三田は靈を見た。「よく見てもらえた師匠というのは、弟子に何かを残しています。その何かは、弟子が亡くなっても消えない」


 しばらく、三人とも黙っていた。

 道場の板の間に、静けさがあった。

 三田が立ち上がった。杖をついて、また壁の木刀の前に向かった。

 二本の木刀を、もう一度見た。

 それから振り返った。

「来週、稽古を見てもいいですか」

 靈は少し止まった。

「稽古を」

「弟子の稽古を見たい。新しい弟子がいれば、その稽古を」三田は続けた。「師匠が弟子に教えているところを、見ることが、師匠の師匠のできることだと思っています」


「新しい弟子が、昨日来ました」靈は答えた。「来週、初めての稽古があります」

「見ていいですか」

「来てください」

「倉敷も一緒に連れてきます」三田は倉敷を見た。「お前も、見ておきなさい」

 倉敷が少し驚いた顔をした。

「私がですか」

「師匠が弟子に教える場面を見ることは、どういう意味があるかを、お前に体で確認させたい」三田は続けた。「わしが古事記を授業で教えていたとき、倉敷は教室にいた。あれから何十年も経った。もう一度、教える場面を見なさい」

 倉敷はしばらく三田を見ていた。

 それから、靈を見た。

「来ていいですか」

「来てください」


 茶をもう一度淹れながら、靈は三田に聞いた。

「稽古を見たいと思った理由は、それだけですか」

 三田は湯呑みを受け取って、少し間を置いた。

「もう一つあります」三田は言った。「きゃるんさんの木刀が、どうなるかを見たかった」

「どうなるか、というのは」

「弟子が亡くなった後、師匠が弟子の道具をどうするかに、師匠の在り方が出ます」三田は壁の木刀を見た。「今、あの木刀は、師匠の木刀の隣に並んでいます。それは、一つの答えです。ただ、その答えが来週の稽古でどうなるかを、見たい」

 靈は少し考えた。

「答えは、まだ出ていません」

「わかっています」三田はうなずいた。「だから見たい。出ていない答えが、出ていく場面を見たい」


 昼過ぎに、三田と倉敷が帰る準備をした。

 三田が引き戸の前に立ったとき、一度振り返った。

 板の間を見た。木刀を見た。それから靈を見た。

「一つだけ言います」三田は言った。

「なんですか」

「師匠が後悔していることを、弟子は知っています」三田は続けた。「弟子は師匠をよく見ているから。ただ、弟子が見ているのは、後悔している師匠の姿だけではない。後悔しながらも続けている師匠の姿も、見ています」

「続けている、というのは」

「きゃるんさんが亡くなって、型を止めていないでしょう」三田は言った。「それは見えます。きゃるんさんの木刀を手に取って、型をやった日があったでしょう」

 靈は少し止まった。

「どうしてわかりましたか」

「木刀の持ち方が、少し違います」三田は木刀を見た。「使い方が違う木刀を持つと、手のひらへの当たり方が変わる。その跡が、師匠の手に残っていました」


 三田が引き戸を開けた。

 出る前に、三田は道場に向かって礼をした。

 深く、丁寧に。杖を持ったまま、上体を傾けた。首の後ろがさらされた。

 三秒ほど保ってから、戻した。

 倉敷も隣で礼をした。

 二人が路地に出た。

 靈は引き戸を閉める前に、二人の後ろ姿を見た。

 三田が小さく、倉敷がその隣に並んでいる。師と弟子が、並んで歩いている。

 見えなくなるまで、靈は見ていた。


 一人になってから、靈は板の間に立った。

 三田が言っていた言葉を、頭の中に置いた。

 師匠が後悔していることを、弟子は知っている。ただ、後悔しながらも続けている師匠の姿も、見ている。

 きゃるんは、靈が後悔していることを、知っていたかもしれない。ただ、それと同時に、靈が続けていることも、見ていた。

 後悔していることと、続けていることは、同時にある。どちらかが消えることはない。


 スマートフォンに、若菜からメッセージが来た。

「東條です。来週の稽古の確認です。午前十時でよかったですか」

「よかったです」靈は返信した。「来週、見学者が来ます。二名です。問題ありませんか」

「どういう方ですか」

「年配の方と、その弟子です。稽古を見たいと言っています。見られることを、気にしますか」

 少し間があって返信が来た。

「気にしません。むしろ、緊張した状態で稽古した方が、自分の癖が出やすいかもしれない。そう理解しました。合っていますか」

 靈は少し止まった。

 若菜の理解が、正確だった。一度礼の意味を聞いただけで、稽古の目的の一部を自分で導いていた。

「合っています」靈は返信した。

「ありがとうございます。来週、お願いします」


 夕方、石丸から連絡が来た。

「今日の川口南部の状況を確認しました。きゃるんさんの件から一週間が経って、自警団の怒りは続いていますが、昨日より少し落ち着いています。ただ、アパート周辺の巡回が、民間で自発的に続いています。叢雲も警察も関与していない、個人の巡回です」

「危険ですか」

「今のところ衝突はありません。ただ、いつ衝突になるかは、読めません」石丸は続けた。「対話の場は、今週は難しいですか」

「難しいです」靈は返信した。「来週、状況を見て判断します」

「わかりました。もう一つ報告があります」

「なんですか」

「きゃるんさんに刺した人物が、昨日確保されました。警察から確認が取れました」


 靈はそのメッセージを、しばらく見ていた。

 確保された。

 それは事実として川口に残る。きゃるんが死んで、刺した人間が確保された。それで何かが変わるわけではない。きゃるんは戻らない。

 ただ、確保された、という事実が、川口の怒りの方向に少し影響するかもしれない。

「雨森さんに転送していいですか」靈は石丸に返信した。

「してください」

 雨森に転送した。

「把握しました」すぐに返信が来た。「この情報を、明日から川口の関係者に共有します。自警団の怒りの出口を、別の方向に少し向けられるかもしれません」


 夜、靈は板の間に立った。

 二本の木刀を見た。

 来週、若菜が来る。三田と倉敷が見に来る。

 きゃるんの木刀を、若菜に渡すかどうかは、まだ決めていなかった。

 三田が言っていた。答えが出ていく場面を見たい、と。

 答えは、来週の稽古で出るかもしれない。出ないかもしれない。

 靈には、今夜その答えを決める気にならなかった。

 来週、若菜が礼をして入ってくる。その場面を見てから、決める。


 型を始めた。

 今夜は、自分の木刀で始めた。

 ただ、型を通している間に、きゃるんの木刀に手が動いた。

 止めなかった。

 自分の木刀をいったん壁に戻して、きゃるんの木刀を手に取った。

 少し短い感触が、手のひらにある。

 型を続けた。

 三田が言っていた。使い方が違う木刀を持つと、手のひらへの当たり方が変わる。

 確かに変わる。短い木刀は、重心が少し手元に近い。動かすときの感覚が、いつもと違う。

 違う感覚で動くことで、自分の動きの癖が別の形で見えてくる。


 型を終えた。

 きゃるんの木刀を壁に戻した。

 また二本、並んでいる。

 靈は二本を見た。

 来週、この場所に若菜が立つ。三田と倉敷が見ている。

 その場面で、答えが出るかもしれない。

 靈は板の間に正座して、道場に礼をした。

 三田が礼をして帰っていった。倉敷が隣で礼をした。師と弟子が並んで礼をした場所に、今靈が一人で礼をしている。

 首の後ろをさらす。

 きゃるんがよく見ていた、靈の礼だ。

 礼から戻した。

 窓の外に、川口の夜があった。

 来週が来る。

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