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壱億総抜刀  作者: るふな


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第41話 「受け継ぐ手」

来週の稽古の日が来た。

 朝の型を終えてから、靈は道場を整えた。

 座布団を三枚出した。壁の木刀を確認した。きゃるんの木刀と、靈の木刀が並んでいる。今日、どちらかが動く。

 窓の外から、川口の朝の音が入ってきた。車の音、どこかの店が開く音。変わらない朝だ。ただ、今日は変わらない朝の中に、変わることが含まれている。


 午前九時半に、倉敷からメッセージが来た。

「今、川口に入りました。三田先生と一緒です。先生の体調が良く、早めに出発できました」

「道場で待っています」靈は返信した。

 十分後、チャイムが鳴った。

 引き戸を開けると、倉敷と三田が立っていた。三田は今日も杖を持っている。

「早かったですね」

「先生が、急かすので」倉敷は少し苦笑いをした。

「稽古を見るのに、遅れたくなかった」三田はそのまま靈を見た。「弟子は来ていますか」

「まだです。十時に来ます」

「では、少し待ちましょう」


 三人で板の間に座った。

 三田は茶を両手で受け取って、一口飲んだ。

「今日の弟子は、どういう人ですか」

「二十四歳です。川口に出向で来ています。きゃるんの一件を聞いて、来ました」

「きゃるんさんと面識は」

「ありません。ただ、川口で一人で働いている女性として、他人事と思えなかったと言っていました」

「どういう目的で来ましたか」

「自分が今、どう立ち回るべきかを教えてほしいと言いました」靈は続けた。「攻撃の手段ではなく、その場での判断の仕方を知りたいと」

 三田はしばらく茶碗を見ていた。

「それは、きゃるんさんとは違う始め方ですね」

「違います。きゃるんは、何かできるようになりたいと言って来ました。若菜は、どう立ち回るかを知りたいと言って来ました」

「入口が違う」

「ただ、礼の意味を聞いて、礼をして帰っていきました。そこは、きゃるんと同じです」


 チャイムが鳴ったのは、午前十時ちょうどだった。

 靈が引き戸を開けると、若菜が立っていた。コートを着て、動きやすそうな服装を下に着ている。今日の稽古に向けて、考えてきたことがわかった。

 若菜の視線が、靈の後ろに向いた。板の間に二人がいることに気づいた。

「見学の方々が来ています」靈は言った。「構いませんか」

「大丈夫です」若菜は引き戸の前で止まった。

 それから頭を下げた。

 礼をした。先週、意味を聞いて帰った日から一週間で、自分で続けていたことがわかる動作だった。首の後ろがさらされる角度で、三秒ほど保った。

 靈は板の間の奥から、三田が見ているのを感じた。


 若菜が板の間に入り、靴を揃えた。

 三田と倉敷に向かって、頭を下げた。

「東條若菜です。よろしくお願いします」

 三田がうなずいた。倉敷も頭を下げた。

「今日は見ているだけです」三田は言った。「気にせず、稽古をしてください」

 若菜がうなずいた。緊張している様子だが、引いていない。


 靈は若菜を板の間の中央に立たせた。

「今日は、立ち方から始めます。先週聞いた礼の意味は、覚えていますか」

「覚えています」若菜は答えた。「首の後ろをさらすことで、信頼を示す」

「では、今日最初にやることは礼ではなく、礼をするための立ち方です。礼は、立ち方があって初めて成立します」

「立ち方が礼の前にあるんですか」

「そうです。足が揃っていなければ、上体をどう傾けても礼にならない」靈は続けた。「今の立ち方を見せてください」

 若菜がその場に立った。

 靈は若菜の全体を見た。重心が少し前に出ている。肩が左右で高さが違う。足が微妙に平行になっていない。どれも、意識していない癖だ。

「重心が今、どこにありますか」

「つま先に近いかもしれません」

「そうです。少しかかとに戻してください」


 立ち方を整えていった。

 足の幅、重心の位置、膝の緩め方、肩の落とし方。一つずつ確認した。

 三田が板の間の端に座って、見ている。倉敷がその隣に座っている。

 靈は教えながら、三田の視線を感じていた。ただ、視線を気にすることはしなかった。今日、三田に見せるために教えているのではない。若菜のために教えている。その順番は変わらない。

「今の状態が、力が抜けた立ち方です」若菜に言った。「これが、礼をする前の立ち方です」

「さっきより、地面に近い気がします」

「重心が下がったからです」靈は続けた。「肩に力が入っていると、体が浮いた状態になります。以前、きゃるんに同じことを言いました」

 若菜が少し止まった。

「きゃるんさんも、同じことを言われたんですか」

「立ち方は、誰でも同じところから始まります。癖の形が違うだけです」


 立ち方を確認してから、礼の動作に入った。

「足を揃えて立ちます。それから上体を傾けます」靈は見本を見せた。「目線は、斜め前の床に落とします。首の後ろが、自然にさらされる角度になります」

「角度は決まっていますか」

「決まっていません。ただ、首の後ろをさらすという感覚があれば、自然に同じくらいの角度になります」

 若菜がやった。

 先週見た礼より、立ち方が整った分、礼の動作も安定していた。一週間、自分で続けていたことがわかる。

「今、首の後ろを意識しましたか」靈は聞いた。

「しました」若菜が顔を上げた。「先週より、意識がはっきりした気がします」

「立ち方が整ったからです。体が安定していると、意識が届きやすくなります」


 そのとき、三田が口を開いた。

「一つだけ、聞いていいですか」

 靈が振り返ると、三田が若菜を見ていた。

「どうぞ」靈は言った。

「東條さん」三田は若菜に向いた。「礼をするとき、怖かったですか」

 若菜は少し考えた。

「怖かったです」若菜は答えた。「急所をさらすと聞いていたので、最初は」

「今も怖いですか」

「今も、少し怖いです。ただ、怖さの種類が変わりました」

「どう変わりましたか」

「最初は、さらすことが怖かった。今は、さらしたい怖さになりました」

 三田がわずかに目を細めた。

「きゃるんさんも、同じことを言いましたか」三田は靈を見た。

「同じことを言いました」靈は答えた。「怖いんだけどさらしたい、と」

 三田はしばらく若菜を見ていた。

「続きをどうぞ」三田は靈に向いた。「邪魔をしました」


 稽古を続けた。

 礼の動作から、木刀の受け取り方に入った。

 靈は壁から木刀を一本取った。自分の木刀だ。若菜に渡した。

「受け取るとき、両手で受け取ります」

 若菜が両手を出した。靈が木刀を渡した。

「重い」若菜が言った。

「七百グラムほどです。ただ、慣れると重さを感じなくなります。体の延長として動くようになると、重さより先に動きが来ます」

「今は、重さしかありません」

「最初はそうです」靈は続けた。「今日は持ち方だけです。右手を柄の上、左手を下に。両手の間に、握りこぶし一つ分の隙間を作ります」

 若菜が握り方を確認した。

「強く握ると」靈は言った。「手首が固まります。卵を握るように。割らないけれど、落とさない強さです」


 若菜が何度か握り直した。

「卵を握るように、というのは」若菜は木刀を見ながら言った。「先週、礼の意味を聞いたとき、この道場の言葉は具体的だと思いました」

「どういう意味ですか」

「首の後ろをさらす、と言われたとき、体の具体的な部分を言っていた。卵を握るように、も同じです。感覚ではなく、体の状態で言う」

「体の状態で言わないと、判断できません」靈は答えた。「感覚だけで伝えると、人によって受け取り方が違います。体のどこがどういう状態かを言えば、確認できます」

「師匠が言う一個の答えが、いつも体の話になるのは、そのためですか」

 靈は少し止まった。

 若菜は一度しか会っていないのに、靈の言い方の特徴を見ていた。

「そうかもしれません」靈は答えた。「意識していませんでしたが」


 一時間の稽古が終わった。

 木刀を靈に返して、若菜は少し肩で息をした。木刀を握り続けただけで、体に入ってくる疲れがある。

「今日の稽古は以上です」靈は言った。「来週は、立ち方の確認から始めます」

「わかりました」

 若菜が靴を履こうとした。

 靈は壁に向いた。

 きゃるんの木刀を見た。

 少し短い木刀が、靈の木刀の隣に立てかけてある。


 靈は、きゃるんの木刀を手に取った。

 板の間の中央に戻って、若菜の前に立った。

 若菜が靈の手元を見た。さっき持っていたものより、少し短い木刀だ。

「これは」若菜が言いかけた。

「きゃるんの木刀です」

 若菜が黙った。

「きゃるんの体格に合わせて選びました。あなたの体格にも、合うと思います」靈は続けた。「使ってください」

「いいんですか」

「使ってもらうことが、一番いいと思っています」

 若菜はしばらく、木刀を見ていた。

 それから、両手を出した。

 靈が木刀を渡した。


 若菜が木刀を受け取って、少し持ちなおした。

「軽い」

「きゃるんも、最初にそう言いました」靈は言った。

 若菜が靈を見た。

「きゃるんさんが最初に持ったとき」

「そうです」

 若菜はしばらく木刀を見ていた。

 それから、靈に向かって礼をした。

 木刀を両手で持ったまま、上体を傾けた。首の後ろがさらされた。

 今日一番深い角度だった。

 靈も礼を返した。


 三田が板の間の端から、立ち上がった。

 杖をついて、若菜の前に来た。

 若菜が三田を見た。

「木刀を、少し見せてもらえますか」

 若菜が両手で三田に向けた。

 三田が木刀の柄に触れた。先週、来たときと同じように、指先で触れた。

「よく馴染んでいます」三田は言った。

「使い込まれているんですか」若菜は聞いた。

「使い込まれているというより、大事にされていた木刀です」三田は手を離した。「大事にされたものは、次の人の手に渡るとき、少し違う感触がある」

「わかりますか、触れて」

「わかります」三田は若菜を見た。「大事にしてあげてください」

「します」若菜はうなずいた。


 三田と倉敷が帰る準備をした。

 引き戸の前で、三田が道場に向かって礼をした。倉敷が隣で礼をした。

 若菜も一緒に礼をした。

 三人が、同じ方向に首をさらした。

 靈は少し離れた場所で、その場面を見た。

 三田と倉敷と若菜が並んで礼をしている。きゃるんがいない。ただ、きゃるんの木刀が若菜の手にある。

 欠けた形に、新しい形が重なっていく。


 三人が帰った後、靈は一人で板の間に立った。

 壁を見た。

 靈の木刀が一本、立てかけてある。

 きゃるんの木刀は、若菜の手に渡った。

 並んでいた二本が、一本になった。

 欠けた形に、また別の欠けが生まれた。ただ、この欠けは、さっきの欠けと種類が違う。

 きゃるんがいないことによる欠けは、埋まらない。

 ただ、きゃるんの木刀が若菜の手に渡ったことで、木刀の欠けは埋まった。

 二つの欠けは、別のことだ。


 靈は自分の木刀を手に取った。

 型を始めた。

 一本の木刀で、型を通した。

 以前と同じ感触だ。いつも使っている木刀だ。ただ、隣に短い木刀がなくなった今、この一本の感触が少し違って感じた。

 比較するものがなくなったから、それ自体の感触がより直接に来る。

 型を通しながら、靈は今日のことを整理した。

 若菜が礼をして入ってきた。立ち方を覚えた。木刀を受け取った。三田が一度だけ口を挟んだ。きゃるんの木刀を渡した。

 答えが出た、と三田は言っていた。出ていない答えが、出ていく場面を見たい、と。

 今日、答えが出た。


 型を終えた。

 木刀を壁に戻した。

 一本だけが、そこにある。

 靈はしばらく、一本の木刀を見た。

 若菜が来週また来る。きゃるんの木刀を持って来る。稽古をする。

 一本が二本になる瞬間が来る。今度は、靈の木刀と若菜の木刀が並ぶ。

 欠けた形が、別の形になっていく。


 雨森から連絡が来た。

「今日の稽古はどうでしたか」

「よかったです」靈は返信した。「きゃるんの木刀を、若菜さんに渡しました」

 少し間があって返信が来た。

「それは、よかった。三田先生は」

「見ていました。一度だけ、若菜さんに質問しました」

「どんな質問ですか」

「礼をするとき、怖かったですか、と」

「若菜さんは何と答えましたか」

「さらしたい怖さになった、と答えました」靈は返信した。「きゃるんと同じ言葉です」

 雨森からの返信は少し遅かった。

「きゃるんさんが聞いたら、喜んでいたと思います」


 石丸からも夜に連絡が来た。

「今日、南部の対話の場の続きを、少し動かせそうな気配があります。来週、可能ですか」

「来週、確認します」靈は返信した。

「わかりました。もう一つ。あの男から連絡が来ました。追跡スレッドに参加しなかった男です」

「何と言っていましたか」

「きゃるんさんの件を聞いて、落ち込んでいたそうです。ただ、今日、自分の父親が昔通っていた神社に行ってきた、と言っていました。理由はわからないが、行きたくなったと」

「そうですか」靈は返信した。

「形が、人を動かすことがある、と思いました。父親が通っていた神社という形が、息子を動かした」

「そうかもしれません」靈は答えた。「形は、使っていない間も残っています。使われる日を待っている」


 板の間に正座した。

 道場に礼をした。

 今日、三田と倉敷と若菜が礼をして帰った。一本の木刀が若菜の手に渡った。

 首の後ろをさらす。今日への報告として。

 礼から戻した。

 窓の外に、川口の夜が広がっていた。

 板の間に、一本の木刀がある。

 来週、若菜が来る。木刀を持ってくる。

 その日まで、一本で稽古をする。

 それが、今夜から来週までの靈の仕事だ。

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