第42話 「間に立つ者」
対話の場が再開したのは、きゃるんが亡くなって十日が経った週の木曜日だった。
石丸が段取りをした。場所は前回と同じ集会所だ。来る人間の顔ぶれも、ほぼ同じだ。ただ、きゃるんの件があった後だということは、全員が知っている。
靈は集会所に向かう前に、道場で型を一度通した。
今夜の場が、前回より難しいことはわかっていた。怒りが残っている。きゃるんが死んで川口が荒れた後、時間が少し経ったことで、怒りは薄れていない。ただ、行き場を失い始めている。行き場を失った怒りが、対話の場にどう出るかは、予測できない。
型を終えて、木刀を帯に差した。
集会所に着いたのは、開始の十五分前だった。
すでに数名が来ていた。石丸が端のパイプ椅子に座っていた。靈を見て、小さく頭を下げた。
靈は石丸の隣に立った。
「来てくれてよかったです」石丸は言った。「今夜は、どうなるかわからない」
「そうですね」
「きゃるんさんのことを、知っている人間が今夜の場には複数います。前回より、話が出やすい状態です。ただ、その話がどこに向かうかが」
「読めない」
「読めません」石丸は続けた。「私自身も、今夜どう動くかが、まだわかっていません」
靈は石丸を見た。
「それでいいと思います」靈は言った。「今夜どう動くかがわかっている状態で来るより、わからないまま来て、場を見てから判断する方が、今夜の場には合っています」
開始の時間になって、全員が集まった。
前回より二名多い。自警団側が九人、市民グループが十人。
靈は壁際に立った。今夜も、木刀を帯に差したまま、構えない。ただ、そこにいる。
場が始まった。
最初に口を開いたのは、自警団側の最初から来ていた男だった。
「今日来るかどうか、迷いました」男は言った。「きゃるんさんのことがあって、正直、こういう場で話している場合じゃないと思っていた」
「なぜ来たんですか」市民グループの女性が聞いた。
「石丸さんから、来てほしいと言われたので」男は石丸を見た。「あなたも来ているということは、何か理由があると思って」
石丸が少し前に身を乗り出した。
「来てもらいたかったのは、きゃるんさんのことを、ここで話せると思ったからです」石丸は続けた。「きゃるんさんは、ここに来ていた。この場のことを知っていた」
「知っていたんですか」別の男が言った。
「来ていました。見学者として、この場を見ていた」
場が少し静かになった。
きゃるんがここにいた、という事実が、場に入ってきた。
「どういう人でしたか」市民グループの若い男が聞いた。
「叢雲で仕事をしていた」石丸は答えた。「川口の情報を整理する仕事です。対話の場を見ていたのも、仕事の一部でした。ただ、仕事だけではなかったと思います」
「仕事だけではなかったとは」
「あの夜、叢雲の仕事として動いていたわけではなかった」石丸は続けた。「通りかかって、見て、動いた。それが、きゃるんさんのやり方でした」
「どうして、そういうことができたんですか」自警団の男が言った。「普通、怖くて動けないでしょう」
靈は壁際で、その問いを聞いた。
どうして動けたのか。
靈には、答えがある。ただ、今まで対話の場でその答えを出したことはなかった。
靈は一歩前に出た。
場が靈を見た。
「少し話してもいいですか」靈は言った。
石丸が靈を見た。
「どうぞ」
「きゃるんは、私の弟子でした」
場が静かになった。
「礼の作法と、木刀の持ち方と、立ち方を教えました。それだけです。武器の使い方は教えていない。攻撃の仕方も教えていない」靈は続けた。「ただ、最後まで礼の稽古を続けていました」
「礼が、動くことに繋がるんですか」自警団の男が首を傾げた。
「礼は、首の後ろをさらすことです」靈は答えた。「急所をさらすことで、相手に信頼を示す。怖くても、さらす。それが礼の意味です」
「怖くても、さらす」男は繰り返した。
「あの夜、きゃるんは怖かったはずです。それでも動いた。礼を続けてきた人間の動き方として、矛盾していない。怖くても動くことを、体が知っていたのかもしれない」
場が静かだった。
市民グループの女性が、少し間を置いてから言った。
「礼って、武道の礼のことですか」
「そうです」
「それを学んでいたから、動けたということですか」
「それだけが理由ではないと思います」靈は答えた。「きゃるん自身が、そういう人間だった。ただ、稽古が、その判断を支えた可能性がある」
「動ける状態を、稽古で作っていた」
「そうかもしれません」
自警団の男が言った。
「道場主さんは、今夜ここで何かを教えようとしていますか」
「教えようとしているのではありません」靈は答えた。「きゃるんのことを、聞かれたので、話しました」
「それだけですか」
「それだけです」
しばらく、場が動かなかった。
石丸が口を開いた。
「私は、きゃるんさんが動いたことを、最初は受け入れられなかった」石丸は続けた。「若い子が、なぜそういう場面に行くんだと。もっと安全な場所にいればよかったと」
「今は」男が重い口調で問う。
「今も、そう思う部分があります」石丸は答えた。「ただ、きゃるんさんが動かなければ、助けられた女性がいた。その事実は変わらない」
「動いたことは、正しかったんですか」
「正しかったかどうかは、私には判断できません」石丸は続けた。「ただ、動いたことは、きゃるんさんの判断でした。私の息子が傷ついた夜、誰も動かなかった。そのことと、きゃるんさんが動いたことが、私の中で並んでいます」
市民グループの女性が言った。
「誰かが動ける状態にいることが、大事なんですか。動くかどうかより、動ける状態にいることが」
「そう思っています」靈は答えた。
「どうすれば、動ける状態になりますか」
「いろいろな方法があります」靈は続けた。「私が教えているのは、その一つです。ただ、稽古だけが方法ではない。今夜この場に来ていることも、動ける状態に向かっていることの一つだと思っています」
「対話の場に来ることが、稽古と同じということですか」
「近い部分があります」靈は答えた。「自分の癖を知ること、判断の前に場を見ること、怒りを下段に抑えること。稽古でやることと、対話の場でやることが重なっています」
場が少し動いた。
自警団の男が言った。
「私が今夜ここに来たのは、何かをしなければという焦りがあったからです。きゃるんさんが死んで、川口が荒れて、ただ怒っているだけではいけないと思った。ただ、何をすればいいかが、わからなかった」
「来ることが、その何かになっていますか」市民グループの女性が聞いた。
「なっているかどうかは、まだわかりません」男は答えた。「ただ、来たことで、少し違う気がします。怒りがなくなったわけではない。ただ、怒りをどこに向けるかが、少し見えてきた気がする」
「どこに向けますか」
「わからない。ただ、人に向けることではないと思い始めています」男は続けた。「きゃるんさんが動いた理由が、怒りではなかったとしたら。怒りで動いた私たちと、怒りではなく動いたきゃるんさんの違いは、何だったんだろうと」
靈は壁際に戻った。
話が続いた。
きゃるんの話が出ることで、場の質が変わっていた。前回の対話は、自警団と市民グループの間にある溝を少しずつ確認していく場だった。今夜は、きゃるんという一人の人間を通して、全員が同じ方向を向いている瞬間があった。
「一点を見る」という言葉が、弓道の稽古にある。標的の一点を見ることで、体が自然に向くべき方向を向く。今夜の場で、きゃるんという一点が、全員の向きを少し揃えた。
場の終わりに、自警団の男が言った。
「来週また来ます。ただ、一つお願いがあります」
「なんですか」靈は聞いた。
「きゃるんさんの話を、もう少し聞かせてもらえますか。今夜聞いた話だけでは、まだよくわからないことがある」
「来週、石丸さんが話せると思います」靈は石丸を見た。
「話します」石丸はうなずいた。「私が知っていることを、話します」
「道場主さんも、話してもらえますか」男は靈を見た。
「来週、話します」靈は答えた。
集会所を出て、靈は石丸の隣に並んで歩いた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「今夜、きゃるんさんのことを話しましたね」石丸が言った。
「話しました」
「聞いていて、どうでしたか」
「まだ、整理できていません」靈は正直に言った。「話しながら、きゃるんの顔が出てきた。ただ、出てきても、話し続けることはできました」
「それが、今夜話してよかった理由ですか」
「そうかもしれません」靈は続けた。「話すことで、きゃるんがその場にいた。今夜の場に、きゃるんが少しいた気がします」
石丸は少し間を置いた。
「間に立つ者、という言葉があります」石丸は言った。「生きている者と、亡くなった者の間に立って、両方の声を伝える者です。神職の役割の一つです」
「雨森さんが、神職の資格を持っています」
「知っています」石丸は続けた。「ただ、今夜の道場主さんは、それに近いことをしていた気がします」
「私は神職ではありません」
「そうです」石丸は言った。「ただ、きゃるんさんの声を、今夜の場に届けた。それは、何かの役割を果たしていた」
道場に戻ったのは、夜の十時過ぎだった。
板の間に入って、木刀を壁に戻した。
一本だけ、そこにある。
靈は板の間の中央に立った。
今夜、きゃるんのことを話した。対話の場で初めて話した。話しながら、きゃるんの顔が出てきた。出てきたまま、話し続けた。
泣かなかった。泣きたいという感覚も、なかった。ただ、重かった。話すことで、重さが少し違う形になった。
石丸が言っていた。間に立つ者。
靈は神職でも、霊媒でもない。ただ、今夜きゃるんのことを話すことで、きゃるんがその場にいた感覚があった。
それが正しいかどうかは、靈にはわからない。
ただ、話してよかったと思っていた。
雨森から連絡が来た。
「今夜の場の様子、石丸さんから聞きました。きゃるんさんのことを話したそうですね」
「話しました」
「よかったです」雨森は続けた。「私も、きゃるんさんのことを、別の場で話す機会を作りたいと思っています。神社で、私が神職として何かをできないかを、榊原さんと相談しています」
「何を考えていますか」
「きゃるんさんのための、小さな祭事です。葬儀がなかった。ただ、神社という場所で、もう一度場を作ることができるかもしれない」
靈は少し間を置いた。
「きゃるんが喜ぶかどうかはわかりません」靈は返信した。「ただ、その場が、川口で続けていくことの形になると思います」
「そう思っています」雨森の返信が来た。「来週、榊原さんと詳細を詰めます。拝郷さんにも参加してほしい」
「参加します」
靈は型を始めた。
今夜は、丁寧にやった。一つ一つの所作を、確かめるように。
最初の所作。重心を落とし、三呼吸待つ。
三呼吸の間、靈は今夜の場を思い返した。
きゃるんのことを話した。場に届いた。自警団の男が、怒りをどこに向けるかが見えてきたと言った。
きゃるんが死んで、川口が荒れた。まとまりかけていたものが散った。ただ、今夜、また少し集まり始めた。
きゃるんが死んだことで散ったものが、きゃるんのことを話すことで、また集まり始めた。
それが、きゃるんが今夜の場にいた、という感覚の意味かもしれない。
型を終えた。
木刀を壁に戻した。
板の間に正座した。
道場に礼をした。
今夜への報告として。きゃるんのことを、初めて対話の場で話したことへの、報告として。
礼から戻した。
窓の外に、川口の夜があった。
来週、若菜が来る。稽古を続ける。
来週、石丸がきゃるんのことを対話の場で話す。
来週、雨森が榊原と祭事の話をする。
全部が続いている。
欠けた形は、まだそこにある。ただ、欠けた形の周りに、続いていくものが集まっている。
それが今夜見えたことだった。




