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壱億総抜刀  作者: るふな


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第43話 「大祓の準備」

雨森と榊原が祭事の準備を始めたのは、きゃるんが亡くなって二週間が経った頃だった。

 靈は雨森から連絡を受けて、八雲神社に向かった。

 鳥居の前で礼をしてからくぐると、境内に雨森と榊原が並んで立っていた。二人とも社殿の方を向いている。靈が近づく音に気づいて、榊原が振り返った。

「来てくれましたか」

「来ました」

「雨森さんと話し合いました」榊原は社殿を見た。「小さな祭事を、ここで行います。神社で行う以上、きちんとした形で行いたい」

「日程は決まりましたか」

「来週の土曜日です」雨森が振り返った。「大安ではありません。ただ、その日を選んだ理由があります」

「なんですか」

「きゃるんさんが亡くなって、ちょうど三週間になります」雨森は続けた。「三週間という区切りに、特別な意味があるわけではありません。ただ、我々が準備できる最短の日程が、その日でした」


 三人で社務所に入った。

 榊原が茶を淹れた。

「祭事の内容を、説明します」雨森は手帳を開いた。「大祓詞を唱えます。亡くなった方の魂を鎮め、残された者の穢れを祓う。それが、今回できる最も適切な形だと判断しました」

「参加者は」靈は聞いた。

「拝郷さんと、石丸さん。それから、新しい弟子の東條さんに声をかけようと思っています」雨森は続けた。「きゃるんさんと直接関わりのあった方たちです。倉敷さんと三田先生にも、連絡を入れます」

「健一さんは」

「参加します。父の隣で聞きたいと言っていました」


「一つ確認させてください」靈は雨森を見た。「きゃるんは、神道の信仰を持っていましたか」

「把握していません」雨森は答えた。「ただ、神社に来て、礼をしていた。鳥居をくぐるたびに礼をしていた。それは、形として残っています」

「形が、信仰の代わりになりますか」

「なると思っています」雨森は続けた。「神道では、信じることより、行うことが先です。礼をすることが、参拝です。きゃるんさんは、礼をしていた。それで十分です」

 榊原が茶碗を置いた。

「拝郷さんが灯籠を流した話を、雨森さんから聞きました」榊原は靈を見た。「一人で流しに行ったと」

「行きました」

「それも、形です」榊原は続けた。「形が積み重なって、今回の祭事に繋がった。一人で流した灯籠が、神社での祭事に繋がった」


 石丸への連絡は、靈が引き受けた。

 神社からの帰り道、電話した。

「来てほしい場所があります」靈は言った。「来週の土曜日、八雲神社できゃるんのための祭事を行います」

 石丸は少し間を置いた。

「行きます」即座に答えた。「準備することはありますか」

「特にありません。来てくれれば十分です」

「わかりました」石丸はさらに続けた。「一つだけ聞いていいですか」

「なんですか」

「父が毎朝頭を下げていた神社が、八雲神社だったかどうかは、確認できませんでした。ただ、今回参加することで、父が向けていた方向に、私も向けると思っています」

「それで十分だと思います」靈は答えた。


 若菜への連絡は、次の稽古の日に直接伝えた。

 稽古を始める前、板の間に向かい合って座ったとき、靈は来週の土曜日の祭事について話した。

 若菜は黙って聞いていた。

「参加できますか」靈は聞いた。

「参加します」若菜は答えた。「ただ、一つだけ確認していいですか」

「なんですか」

「私は、きゃるんさんとは面識がありませんでした。その人のための祭事に、私が参加してもいいんですか」

「きゃるんの木刀を持っています」靈は答えた。「それで十分です」

 若菜はしばらく靈を見た。

「木刀を持っていることが、繋がりになりますか」

「形が繋がりになります」靈は答えた。「会ったことがない人間と、形を通じて繋がることがある。礼の意味と同じです。首の後ろをさらすことで、会ったことのない相手とも信頼を示せる」


 稽古が始まった。

 今日は、先週教えた立ち方の確認から入った。

 若菜が板の間の中央に立った。先週より、立ち方が落ち着いていた。一週間、自分で確認していたことがわかる。

「先週より、重心が安定しています」靈は言った。

「毎日、鏡の前でやっていました」若菜は答えた。「ただ、師匠から言われたことを思い出して、鏡は使わないようにしました。形を確認するのではなく、意識を確認するように」

「意識が変わりましたか」

「変わりました」若菜は続けた。「形を見ようとすると、外を見ます。意識を見ようとすると、内側を見ます。その違いが、立ち方に出てくると気づきました」

 靈は少し止まった。

 きゃるんも、似たような気づき方をしていた。礼の意味を聞いて、形より先に意識が来た。若菜も同じ順番で理解している。

「よく気づきました」

「きゃるんさんも、同じことを気づきましたか」

「似たことを、別の言葉で言っていました」


 稽古が終わって、若菜がきゃるんの木刀を壁に戻した。

 戻し方が、先週より丁寧だった。壁に立てかける前に、一度木刀を両手で持ち直してから置いた。

「来週の祭事の前に、やっておきたいことはありますか」若菜は聞いた。

「礼を続けてください」靈は答えた。「毎日一回、礼をしてください。それだけです」

「それだけでいいですか」

「それだけで十分です」靈は続けた。「祭事に向けて特別なことをするより、続けてきたことを続けることの方が、本番に届きます」

「続けてきたことを続けること」若菜は繰り返した。「それは、きゃるんさんが続けていたことと、同じですか」

「同じです」


 土曜日の前日、靈は道場に一人でいた。

 夜になって、全員への確認が終わった。雨森、榊原、石丸、若菜、健一、倉敷、三田。全員が来ることを確認した。

 靈は板の間に立った。

 型をやろうとして、止まった。

 今夜は別のことをしようと思った。

 板の間の隅の真剣に向かった。

 鞘を両手で持ち上げた。

 抜かなかった。

 ただ、鞘のまま、板の間の中央に持ってきた。

 正座した。真剣を、膝の前に、横に置いた。

 向かい合って、座った。


 真剣を前に座りながら、靈は自問した。

 この刃を、今後抜く日が来るか。

 きゃるんが死んだ夜、真剣の前で同じことを考えた。あの夜は、答えが出なかった。

 今夜も、答えは出ていない。

 ただ、あの夜と違うことがある。

 あの夜の靈は、抜くべきかどうかという問いを、自分のこととして考えていた。今夜の靈は、誰かのこととして考えている。

 若菜が来た。稽古を続けている。来週、祭事に参加する。

 石丸が対話の場に来ている。きゃるんのことを話すと言っている。

 雨森が神社で祭事を準備している。榊原と一緒に形を作っている。

 全員が、それぞれの形で続けている。

 その全員のそばに、靈はいる。


 刃を抜く日が来るとすれば、そのそばにいる誰かのためになる。

 ただ、そのためなら、刃でなくても守れる可能性を、靈はまだ試し切っていない。

 今夜、真剣を前に座っているのは、答えを出すためではない。

 問いをはっきりさせるためだ。

 この刃が、いつ、誰のために、何のために抜かれるかという問いを、曖昧なままにしない。問いを明確に持ち続けることが、刃を持つ者の責任だと、靈は今夜思っていた。

「武器を持つ者は、使うことより、使わないことに技術を持て」という言葉が、親父の口伝の中にあった。使わないことを選ぶためには、使うことができる状態にいなければいけない。使えない人間が使わないことと、使える人間が使わないことは、別のことだ。


 靈はしばらく、真剣と向かい合って座っていた。

 答えは出なかった。

 ただ、問いが今夜より前より、少し具体的な形をしていた。

 それが今夜できることだった。

 靈は真剣を両手で持ち上げた。元の場所に戻した。

 板の間の中央に、靈一人が残った。

 木刀を手に取って、礼をした。道場に向かって。

 明日への準備として。きゃるんのための祭事が行われる日への準備として。

 礼から戻して、型を始めた。

 今夜は短く、三種類だけ通した。体の状態を確認するための稽古だ。

 型を終えて、木刀を壁に戻した。


 板の間に正座した。

 明日、全員が神社に来る。

 雨森が大祓詞を唱える。榊原が境内を整える。石丸が来る。若菜が初めて、神社の鳥居の前に立つ。三田と倉敷が来る。健一が父の隣にいる。

 靈は、その全員の間にいる。

 間に立つ者、と石丸が言っていた。

 靈は神職でも、霊媒でも、組織の人間でもない。ただ、道場があるから、この場所にいる。この場所にいるから、その場所の近くで起きることに関わる。

 それが靈の在り方だ。

 明日も、それは変わらない。


 窓の外に、川口の夜が広がっていた。

 靈は目を閉じた。

 きゃるんの顔が出てきた。

 出てきたまま、そこにいた。

 三田が言っていた。顔が出てくることは、悪いことではない。その子がまだここにいるということだ。

 きゃるんがここにいる。

 明日、神社に、きゃるんもいる。

 目を開けた。

 窓の外の川口が、静かだった。

 明日が来る。

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