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壱億総抜刀  作者: るふな


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第44話 「大祓詞の朝」

土曜日の朝、靈は夜明け前に起きた。

 型を始める前に、板の間に正座した。窓の外が白んでいくのを見た。元日の朝と同じようにしている。大事なことの前日に、こうして座る。今日は前日ではなく当日だが、同じようにした。

 川口の夜明けが来た。

 今日、きゃるんのための祭事がある。

 靈は立ち上がって、型を一度通した。今日は確認のためだ。体の状態を見る。

 型を終えて、木刀を壁に戻した。

 一本だけ、そこにある。


 九時に道場を出た。

 神社に向かう前に、靈は路地に立って看板を見上げた。

「拝郷道場 制定居合道・宗家」

 塗り直してから、時間が経った。字が馴染んできている。

 靈は歩き始めた。


 八雲神社の鳥居が見えてきたとき、すでに数人の人影があった。

 榊原と健一が境内にいる。雨森が社殿の前で何かを確認している。

 鳥居の外に、石丸が立っていた。

 靈が近づくと、石丸は靈を見た。

「来ました」

「来ました」靈も答えた。

 二人で並んで、鳥居の前に立った。

 靈が先に礼をした。石丸が隣で礼をした。二人が同じ角度で、同じだけ保った。

 礼から戻して、二人でくぐった。


 境内に入ると、雨森が靈の前に来た。

 今日の雨森は、白い装束を着ていた。叢雲のコートではなく、神職の白衣だ。靈は雨森がこの装束を着ているのを、初めて見た。

「準備ができました」雨森は言った。「開始は十時です。あと三十分あります」

「三田さんたちは」

「倉敷さんから連絡が来ています。十時に間に合うよう向かっているそうです」

「若菜さんは」

「まだです」

 靈はスマートフォンを確認した。若菜からのメッセージが入っていた。

「今、鳥居の前にいます。入り方がわからなくて」


 靈は鳥居の外に出た。

 若菜が鳥居の前に立っていた。コートを着て、きゃるんの木刀を布に包んで脇に抱えていた。

「木刀を持ってきたんですか」靈は聞いた。

「来る前に、持ってきた方がいいと思いました」若菜は答えた。「きゃるんさんのものだから、ここに来る方がいいと思って」

「そうですね」

「入り方がわからなくて」若菜は鳥居を見上げた。「礼をすると聞いていましたが、木刀を持ったまま礼をするのか、置いてから礼をするのか」

「持ったまま礼をしてください」靈は答えた。「武道では、木刀や刀を持ったまま礼をすることがあります。持つものが、その人の一部です」

「わかりました」

 若菜は鳥居の前で、正面を向いた。

 木刀を脇に抱えたまま、上体を傾けた。首の後ろがさらされた。

 三秒ほど保ってから、戻した。

 それからくぐった。


 境内に入ってから、若菜は立ち止まった。

 社殿を見た。注連縄を見た。石畳を見た。

「初めて来ました」若菜は言った。

「そうですね」靈は答えた。「きゃるんは、この境内で太鼓を打ったことがあります」

「太鼓を」

「初めて来たとき、太鼓の稽古があって、一緒に打ちました」靈は続けた。「下手だったけれど、音は出ていた、と榊原さんが言っていました」

 若菜がきゃるんの木刀を少し持ち直した。

「来てよかったです」


 倉敷と三田が着いたのは、十時の五分前だった。

 三田は今日も杖を持っていた。鳥居の前で、倉敷と並んで礼をした。靈は境内から、その場面を見た。

 全員が境内に入った。

 榊原、健一、雨森、石丸、靈、若菜、倉敷、三田。

 八人が社殿の前に集まった。


 雨森が社殿の前に立った。

 白衣が、冬の朝の光を受けている。

「始めます」雨森は全員を見てから、社殿に向いた。

 大祓詞が始まった。

 高天原に神留まり坐す、から始まる言葉が、境内に響いた。

 靈は聞きながら、体の中を確認した。

 大祓詞は、亡くなった者の魂を鎮める言葉でもあり、残された者の穢れを祓う言葉でもある。両方が、同じ言葉の中に入っている。

 雨森の声が境内に広がっていく。石畳に、社殿に、注連縄に、冬の木々に、届いていく。

 靈の隣で、若菜がきゃるんの木刀を両手で持ち直した。


 大祓詞が続く間、境内に静けさがあった。

 川口の街の音が、鳥居の外から薄く入ってくる。ただ、境内の中は別の空気だった。

 靈は石丸を横目で見た。

 石丸が目を閉じていた。手を体の前で組んでいる。口が、かすかに動いていた。言葉は聞こえなかった。ただ、何かを言っている。

 父が毎朝頭を下げていた場所が、この神社だったかどうかはわからない。ただ、今日石丸はここにいる。父が向けていた方向に、向いている。

 三田が目を開けて、社殿を見ていた。倉敷がその隣で頭を少し下げていた。


 大祓詞が終わった。

 雨森が全員を向いた。

「きゃるんさんのために、この場を設けました」雨森は続けた。「神道では、亡くなった方の魂は、荒御魂から和御魂へと鎮まっていきます。今日の大祓詞が、その一助になればと思っています」

 榊原が社殿に向かって礼をした。全員が続いた。

 靈も礼をした。

 首の後ろをさらす。きゃるんへの礼として。この場所への礼として。


 礼から戻したとき、三田が靈の隣に来た。

 杖をついて、ゆっくりと歩いてきた。

「よい祭事でした」三田は言った。

「来ていただいてよかったです」

「一つだけ」三田は境内を見た。「あなたの弟子は、二人います」

 靈は少し止まった。

「二人、ですか」

「若菜さんが一人。もう一人は、きゃるんさんです」三田は続けた。「弟子は、師匠が生きている間だけ弟子なのではない。弟子が亡くなっても、師弟の関係は続きます。きゃるんさんは、今もあなたの弟子です」


 靈はしばらく、三田を見ていた。

「弟子が亡くなっても、続く」

「続きます」三田は靈を見た。「わしにも、教え子の中に、亡くなった子がいます。何十年経っても、その子はわしの教え子です。顔が出てくる。声が聞こえる気がする。それは、続いているということです」

「きゃるんの顔が、まだ毎日出てきます」

「それでいい」三田はうなずいた。「出てきた顔に、何を感じるかが変わっていきます。最初は、重い。だんだん、別のものが混じってくる。それが時間をかけて変わっていくことが、師弟の関係が続いているということです」

「いつか、重くなくなりますか」

「軽くはなりません」三田は静かに言った。「ただ、重さの質が変わります。最初の重さは、喪失の重さです。時間が経つと、存在の重さに変わっていきます」


 若菜が靈と三田のそばに来た。

「お話し中、すみません」若菜は言った。「きゃるんの木刀を、ここに置いてきてもいいですか」

 靈は若菜を見た。

「置いてくる、とはどういう意味ですか」

「今日だけです」若菜は続けた。「今日、この場所に木刀を置いて、帰るときに持って帰ります。ここに一日いさせてあげたいと思って」

 靈は少し考えた。

「榊原さんに聞いてください」靈は答えた。「社殿の前に置かせてもらえるかを」

 若菜が榊原のところに歩いていった。

 三田が靈を見た。

「弟子が、きゃるんさんの木刀のことを考えている」三田は言った。「きゃるんさんが、若菜さんに届いています」


 榊原が若菜の話を聞いて、社殿の前の台に木刀を置いていいと言った。

 若菜が木刀を布から取り出して、台の上に置いた。

 少し短い木刀が、社殿の前にある。

 全員がその場面を見ていた。

 石丸が、木刀を見て、一度目を閉じた。

 健一が、父の隣でその場面を見ていた。

 倉敷が、社殿に向かって頭を下げた。


 靈は木刀を見ながら、きゃるんのことを思った。

 太鼓を初めて打ったとき、音が出たことに驚いた顔をしていた。礼をしたとき、怖いんだけどさらしたい、と言った。師匠、という呼び方に変えた日の顔。集会所の帰り道、師匠の答えはいつも一個だけですね、と言った声。

 全部が出てきた。

 重い。ただ、重さの中に、別のものも混じっている。

 今日、全員がここに来た。その全員が、それぞれの形できゃるんと繋がっている。

 それが、きゃるんがまだここにいるということかもしれない。


 祭事の後、全員で社務所に入った。

 榊原が茶を淹れた。八人分の湯呑みが、テーブルに並んだ。

 誰かが話し始めた。きゃるんの話ではなく、川口の話だった。対話の場の続きの話、来週の動きの話。

 靈は聞きながら、その場にいた。

 きゃるんのための祭事が、川口の話に繋がっていく。それが自然な流れだと思った。きゃるんは川口で動いていた人間だ。きゃるんを弔う場が、川口のことに繋がっていくことは、きゃるんらしい。

「一つ提案があります」雨森が言った。

「なんですか」靈は聞いた。

「対話の場を、来月から神社でやることを、考えています」雨森は榊原を見た。「境内か、社務所を使わせてもらえれば、と」

「使っていいです」榊原は即座に答えた。「この神社は、そういう場所であるべきです」


「神社で対話の場を開くことの意味は」石丸が聞いた。

「神社は、地域の中心であるべき場所です」雨森は答えた。「氏子だけの場所ではなく、地域に関わる人間が集まれる場所。本来の神社の役割に戻すことが、川口で今できることの一つだと思っています」

「移民は来られますか」若菜が聞いた。

「来てもらえます」榊原が答えた。「以前、調停に来た移民の方たちが、礼をして入ってくれた。その日から、ここはその人たちにとっても、礼をする場所になりました」

「礼をすることで、来られる場所になる」若菜は繰り返した。「礼が、入る条件なんですね」

「そうです」靈は若菜を見た。「首の後ろをさらすことで、その場所に誠意を示す。それができれば、誰でも入れる」


 社務所を出るとき、全員が社殿に向かって礼をした。

 今日最後の礼だ。

 靈は礼をしながら、木刀のことを考えた。若菜が今日置いていった木刀は、今日の夕方に若菜が取りに来る。一日だけ、社殿の前にいる。

 その一日が、きゃるんにとって何かになるかどうかは、靈にはわからない。

 ただ、若菜がそう思ってやったことが、大事だった。

 礼から戻した。


 鳥居の前で、全員が別れた。

 三田と倉敷が、さいたまに戻る。石丸が南部の状況を確認しに行く。健一が父と一緒に残る。若菜が夕方に木刀を取りに戻る。

 最後に残ったのは、靈と雨森だった。

 鳥居の前に二人で立って、靈は鳥居を見た。

「よい祭事でした」靈は言った。

「ありがとうございます」雨森は続けた。「廃社になった神社の代わりに叢雲に入って、叢雲を出て、今日ここで大祓詞を唱えた。来た場所に戻ってきた気がします」

「来た場所、というのは」

「神職として、地域の人間のために動く場所です」雨森は鳥居を見た。「形が変わりました。神社の宮司ではなく、別の神社の協力者として。ただ、向いている方向は、同じです」


「一つ聞いていいですか」靈は雨森を見た。

「なんですか」

「廃社になった神社に、今も行きますか」

 雨森は少し間を置いた。

「行きます。年に一度、草が生えた境内に行って、礼をします」雨森は続けた。「廃社になっても、土地はあります。鳥居はなくなりましたが、石畳の跡があります。そこで礼をします」

「誰もいない場所で、礼をする」

「誰もいなくても、場所はあります。場所への礼は、人がいなくてもできます」

 靈はその言葉を、しばらく受けた。

「きゃるんに、礼をするとしたら」靈は続けた。「場所がない」

「今日、この神社が場所になりました」雨森は答えた。「灯籠を流した荒川も、場所になっています。礼をする場所は、形として残ります。きゃるんさんが礼をしてきた場所が、そのままきゃるんさんへの礼の場所になります」


 二人で鳥居に礼をした。

 くぐって、路地に出た。

 靈と雨森が別れた後、靈は一人で歩いた。

 道場に向かう路地を歩きながら、三田の言葉を思い返した。

 あなたの弟子は、二人います。

 若菜ときゃるん。

 二人の弟子が、今の靈にいる。

 若菜は来週また稽古に来る。きゃるんは毎日、靈の前に顔が出てくる。

 二つの繋がりが、別の形で続いている。


 道場に着いた。

 看板を見上げた。

「拝郷道場 制定居合道・宗家」

 中に入って、引き戸を閉めた。

 板の間に、一本の木刀がある。

 靈はその木刀を手に取った。

 型を始めた。

 今日は、通常の型ではなかった。いつもより遅く、一つ一つの所作を確かめるように動いた。

 祭事が終わった後の、体の状態を見る型だ。今日何を受け取ったかを、体で確認する。

 境内で全員が礼をした場面。雨森の大祓詞が境内に響いた音。若菜が木刀を台の上に置いた場面。三田の言葉。

 全部が体の中にある。


 型を終えた。

 木刀を壁に戻した。

 板の間に正座した。

 道場に礼をした。

 今日への報告として。きゃるんの祭事が行われたことへの報告として。弟子が二人いると知ったことへの報告として。

 礼から戻した。

 窓の外に、川口の午後の光があった。

 夕方、若菜が神社に木刀を取りに行く。

 来週、若菜が道場に来る。稽古をする。

 来週、対話の場が続く。

 全部が続いている。

 欠けた形の中で、続いていくものが形を作っていく。

 それが今日見えたことだった。

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