第45話 「抜く理由」
神社での対話の場が最初に開かれたのは、きゃるんの祭事から十日後だった。
場所は社務所ではなく、境内だった。
榊原が提案した。社務所は狭い。境内なら、空気が違う。屋根のない場所で話すことには、別の意味がある。
靈が来たとき、すでに自警団と市民グループの人間が石畳の上に並んでいた。いつもより少し人数が多い。南部からの顔ぶれに、見慣れない顔が数名混じっていた。
雨森が靈の隣に来た。
「東部から来ている人間が三名います」雨森は小声で言った。「石丸さんが声をかけたようです。ただ、南部の場とは、少し性格が違います」
「どう違いますか」
「東部の自警団は、南部より立場が強硬です。移民との共存に、より否定的な立場を取っています」
「今日、どう動くかはまだわからない」
「はい」
靈は境内を見回した。社殿の前に人が集まっている。注連縄が風に揺れている。左が太く、右が細い。榊原が四十年以上張り替えてきた縄だ。
場が始まる前に、榊原が全員の前に立った。
「今日から、この神社で場を開きます」榊原は続けた。「始める前に、少し話をさせてください。この場所について」
全員が榊原を見た。
「昔、地域の集会は神社で行われていました。氏子だけでなく、地域の人間が集まって、農業の話も、水の話も、揉め事の解決も、ここでやっていた。神社は、地域の中心でした」
榊原は社殿を見た。
「その習慣が、ある時期に禁じられました。明治以降、国家神道の体制が作られる中で、神社の地域的な役割が制限されていきました。さらに戦後、GHQの神道指令で、神社が公的な集会の場として使われることが禁じられた。それから長い間、神社は個人の参拝の場になっていきました」
「今日、ここで皆さんに集まってもらいました」榊原は全員を見た。「禁じられていたものを、少し取り戻したいと思っています。神社が地域の話し合いの場であることを、もう一度始めたい」
誰かが言った。
「参拝の仕方も、変えられたと聞きました」
「そうです」榊原はうなずいた。「参拝の作法が、GHQによって変えられました。もともと、三礼三拍手一礼が正式な作法でした。三回礼をして、三回拍手を打って、最後にもう一度礼をする」
「今は二礼二拍手一礼ですが」
「GHQの占領期に、変えられました」榊原は続けた。「三という数字が、日本の伝統的な数として重視されていました。天地人、三種の神器、三礼三拍手。それを変えることで、形の意味が薄れる。形が変われば、意味も変わっていく」
石丸が一歩前に出た。
「具体的に、三礼三拍手にはどういう意味があったんですか」石丸は榊原に聞いた。
「三礼は、天地人への礼です」榊原は答えた。「天への礼、地への礼、人への礼。三つが揃って、礼が成立する。二礼では、人への礼が欠けます」
「人への礼が欠けた」
「そうです。人と人の繋がりを、神の前で示すことが、三礼の意味の一つでした。それが欠けた参拝では、自分と神の関係だけになる。地域の繋がりとしての神社の役割が、薄れていきます」
靈は榊原の話を聞きながら、境内を見た。
形が変われば、意味が変わる。意味が変われば、使い方が変わる。使い方が変われば、場所の性格が変わる。
神社が地域の集会の場から、個人の参拝の場に変わっていったのは、そういう積み重ねの結果だ。
市民グループの女性が手を上げた。
「社殿に鏡が祀られているのは、なぜですか。三種の神器の一つだと聞いていますが、参拝するときに鏡の前に立つ意味が、わかっていなかった」
雨森が答えた。
「神社の御神体として祀られる鏡は、八咫鏡といいます」雨森は続けた。「鏡が御神体として祀られる意味は、いくつかあります。一つは、鏡は見る者の姿をそのまま映すという性質です」
「見る者の姿を映す」
「参拝するとき、鏡の前に立ちます。鏡が映すのは、神ではなく、自分自身です」雨森は続けた。「自分の姿を鏡に映しながら、神に向かって礼をする。それは、自分の中に神を見出すという意味があります」
「自分の中に神を」
「古い言葉で言えば、我を無くして神になる、という考え方です」雨森は静かに言った。「自分という固定したものを手放したとき、神の領域に入ることができる。鏡はその象徴です」
「我を無くす、というのは、自分を消すということですか」若菜が聞いた。
「違います」雨森は答えた。「自分という、固定した見方を手放すことです。自分の都合、自分の先入観、自分の怒り。それらを手放して、今ある状況をそのまま見ることができる状態になる」
「禅に似ていますか」
「影響し合っています。ただ、神道の鏡の前に立つことは、特別な修行を必要としない。ただ、礼をして、鏡の前に立てば、その場に入れます」
「礼をすることで、我を手放す状態に入る」若菜は繰り返した。
「礼は、急所をさらすことです」靈が横から言った。「自分の弱いところをさらすことで、守ろうとする自分が一瞬、緩みます。その瞬間が、我が薄れる瞬間と重なっています」
東部から来た男が、初めて口を開いた。
四十代、体格がいい。腕を組んで聞いていた。
「拝郷さん」男は靈を見た。「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたは、木刀を帯に差している」男は続けた。「ただ、これまで聞いた話では、使ったことがない。構えたこともない。なぜ真剣を抜かないのか、ずっと気になっていました」
場が少し静かになった。
「今夜、答えをもらえますか」男は靈を見た。「あなたが居合の道場主で、真剣を持っているなら、なぜ抜かないのか。きゃるんさんが死んだことで、状況は変わったと思います。それでも抜かないのか」
靈はしばらく、男を見た。
この問いは、靈が自分自身にずっと向け続けてきた問いだ。真剣の前に座って、自問し続けてきた問いだ。
初めて、外から向けられた。
「答えます」靈は言った。
男が少し前に出た。
「真剣を抜く理由が、今の私にはまだないからです」
「きゃるんさんが死んでも、ですか」
「きゃるんが死んだことは、真剣を抜く理由になりません」靈は続けた。「怒りは正当です。ただ、怒りは真剣を抜く理由にはなれない」
「なぜですか」
「義なき勇は、ただの暴力です」靈は答えた。「真剣を抜くことが、誰かを守ることに直接繋がるとき、その守ることが正しいと判断できるとき、それが抜く理由になります。今の私には、その判断ができていない」
「判断ができていないということは、できる日が来ると思っているということですか」男は続けた。
「来るかもしれません」靈は答えた。「ただ、来ないかもしれない」
「どちらかわからないまま、真剣を持っているということですか」
「持っています。使えるものを持っていて、使わないことを選んでいます。使えないものを持っているのではない」靈は続けた。「使える状態にあって、使わないことを選び続けることが、今の私のやり方です」
「それは、弱さではないですか」
「弱さかもしれません」靈は答えた。「ただ、弱さであることと、間違っていることは別のことです」
男は少し間を置いた。
「あなたが真剣を抜かないことで、誰かが傷ついたら」
「その可能性は、常にあります」靈は続けた。「きゃるんが死んだとき、靈が隣にいれば、真剣があれば、違ったかもしれない。その問いは、今も抱えています」
「抱えているのに、答えが出ないということですか」
「抱えていることが、答えです」靈は男を見た。「抱えることをやめれば、簡単な答えが出ます。抜く、または抜かない、どちらかを決めて、それ以降考えない。ただ、状況は変わります。状況が変わるたびに、判断をし直す必要があります。抱え続けることで、状況に合わせた判断ができます」
「もう一つ聞いていいですか」男は続けた。
「どうぞ」
「あなたは、今夜ここで何をしているつもりですか」男は境内を見た。「神社で話し合いをして、礼の話をして、真剣を抜かない。それで、川口は変わりますか」
「変わりません」靈は即座に答えた。
男が少し表情を動かした。
「変わらないと思っているのに、なぜやっているんですか」
「すぐには変わりません」靈は続けた。「ただ、形が積み重なることで、時間をかけて変わることがあります。榊原さんが四十年、縄を張り替えてきた。その形が、今日ここで神社が地域の集会の場として使われることに繋がっています」
「四十年、待つということですか」
「四十年かかることもあります」靈は答えた。「ただ、今日始めることで、四十年後に何かが変わる可能性が生まれます。今日始めなければ、その可能性はない」
男はしばらく、靈を見ていた。
それから、腕を組んでいた手を解いた。
「わかりました」男は言った。「今夜は、聞くことにします」
場が、少し柔らかくなった。
対話が続いた。
場が終わって、全員が帰っていった後、石丸が靈の隣に残った。
「今夜の話、聞いていました」石丸は言った。「真剣を抜く理由が、まだない、という答えでした」
「そうです」
「私は」石丸は少し間を置いた。「きゃるんさんが死んだ夜、刃物を持っていたら使っていたと思います。止まれなかったと言いました。あの夜の私は、怒りで動いていた」
「今は」
「今は、少し違います」石丸は境内を見た。「今夜、鏡の話を聞きました。我を無くして神になる、という話。それは、私が父から見てきたものと、繋がっている気がします」
「どう繋がっていますか」
「父が毎朝神社で頭を下げていたとき、何を考えていたかは、わかりません。ただ、今日の話を聞いて、少しわかった気がします。頭を下げることで、怒りや欲が薄れる瞬間がある。父は、それをやっていたのかもしれない」
靈は石丸を見た。
「石丸さんは、今夜礼をしましたか」
「しました。鳥居の前で、一礼をしました」
「一礼」
「榊原さんの話を聞いて、三礼にしようと思います。天と地と人への礼。川口の自警団として来ている私が、移民のことも含めて礼をするとしたら、三礼の方が正確だと思って」
靈は少し止まった。
「三礼にしようとしたのは、今日初めてですか」
「初めてです」石丸は続けた。「変えることへの抵抗はありました。ただ、今日聞いた話で、変えることが正しいと思いました。GHQが変えたものを、元に戻す。それが、失われた形を取り戻すことの一つです」
全員がいなくなって、靈と雨森が最後に残った。
社殿の前に二人で立った。
「今夜の東部の男の問い、聞いていました」雨森は言った。「なぜ真剣を抜かないのか、という問いです」
「初めて、外から向けられた問いでした」靈は答えた。「ずっと自分に向けていた問いだったので、少し驚きました」
「答えは、用意していましたか」
「していませんでした。ただ、考え続けてきたことだったので、言葉が出てきました」
「抱え続けることが、答えだという言葉が、印象に残っています」雨森は続けた。「廃社になった神社への問いも、私は抱え続けています。答えは出ていない。ただ、今日ここで大祓詞を唱えたことが、その問いへの一つの動きになりました」
社殿に向かって、二人で礼をした。
靈は三礼にした。
天への礼。地への礼。人への礼。
三回、首の後ろをさらした。
礼から戻して、鳥居に向かった。
鳥居の前で、一礼をした。
くぐって、路地に出た。
道場に戻ったのは、夜の十時を過ぎていた。
板の間に入って、木刀を壁に戻した。
板の間の隅の真剣を見た。
今夜、なぜ抜かないのかを問われた。答えた。答えながら、自分でも整理されていくものがあった。
抱え続けることが、答えだ。
状況が変わるたびに、判断をし直す。その都度、抱えている問いを確認する。今は抜かない。ただ、今夜の判断が、明日も同じとは限らない。
靈は真剣に近づいた。
鞘に手を置いた。
今夜も、抜かなかった。
ただ、今夜の「抜かない」には、以前の「抜かない」と違う重さがあった。
外から問われて、答えた後の「抜かない」だ。
自問していた問いが、対話の言葉になった。言葉になったことで、問いの形がはっきりした。
手を離した。
型を始めた。
今夜は、零の型を一度だけ通した。
最初の所作。重心を落とし、三呼吸待つ。
三呼吸の間に、今夜起きたことを整理した。
榊原が神社の歴史を話した。三礼三拍手がGHQによって変えられたこと。地域の集会が禁じられたこと。鏡が我を無くすための象徴であること。
それらが、今夜の場に入ってきた。失われた形が、少しずつ境内に戻ってきた。
型を始めた。
摺り足で板の間を移動しながら、靈は一つのことを確かめた。
抜かない理由と、抜く理由が、今夜少しずつはっきりした。
抜かない理由は、怒りで抜かないことだ。抜く理由は、怒りを下段に抑えた上で、守ることに直接繋がると判断できることだ。
その判断ができる状態を、靈は今夜より少し具体的に持てた気がした。
型を終えた。
木刀を壁に戻した。
正座した。
道場に礼をした。
今夜は三礼にした。
天への礼。この道場が百年近く、川口の空の下にあったことへの礼。
地への礼。この板の間の木が、曾祖父の時代から靈の足を受けてきたことへの礼。
人への礼。今夜の場にいた全員への礼。きゃるんへの礼。若菜への礼。石丸への礼。榊原への礼。雨森への礼。
三礼から戻した。
窓の外に、川口の夜が広がっていた。
明日も、この道場はここにある。




