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壱億総抜刀  作者: るふな


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第46話 「若菜の問い」

次の稽古の日、若菜は約束の時間より十分早く来た。

 チャイムが鳴ったのは、九時五十分だった。靈が引き戸を開けると、若菜は引き戸の前で礼をしてから入ってきた。靴を揃えた。きゃるんの木刀を脇に抱えていた。

「早かったですね」

「少し話してから稽古したいことがあって」若菜は板の間に入りながら言った。

「どうぞ」

 向かい合って座った。靈が茶を淹れようとすると、若菜は首を振った。

「稽古の後でいいです。今日は、先に聞きたいことがあります」

「なんですか」


 若菜は少し間を置いた。

「先週の神社の場で、東部の方が師匠に聞いていました」若菜は続けた。「なぜ真剣を抜かないのか、と。師匠は、理由がまだないから、と答えた」

「そうです」

「その答えを聞いて、私は別の問いが浮かびました」若菜は靈を見た。「いつ抜くのか、ということです。そして、その判断は、誰がするのか」

 靈は少し止まった。

「続けてください」

「判断をする人間が師匠自身なら」若菜は続けた。「師匠が判断できない状況になったとき、誰が判断しますか。病気でも、傷でも、意識を失っていても。真剣を持ちながら、判断できない状態になることは、あり得ます」


「それは、私が考えてきた問いとは、少し違う問いですね」靈は言った。

「違いますか」若菜は続けた。「師匠が一人で判断を抱えているとしたら、それは判断が師匠の体の状態に依存しているということです。師匠が倒れれば、判断できなくなる」

「そうです」

「では、真剣を誰かに渡す可能性は、考えていますか」

 靈はしばらく若菜を見た。

 二十四歳の女性が、この問いを持ってきた。きゃるんの木刀を受け取って、神社での礼の話を聞いて、先週の場に来ていた。その経緯の中で、この問いが生まれた。

「考えていませんでした」靈は正直に言った。

「考えてみてほしいです」若菜は続けた。「師匠が真剣を持つ理由は、守ることです。守るためなら、誰が持つかは問題ではないはずです。師匠一人が判断を抱えることに、意味がありますか」


「一つ確認させてください」靈は言った。「その問いは、あなたが真剣を持ちたいということですか」

「違います」若菜は首を振った。「私が持てるとは思っていません。ただ、師匠が一人で抱えているとしたら、それは形として弱いと思っています。一人が抱えるものは、その一人が失われたとき、消えます」

「形として弱い」靈は繰り返した。

「榊原さんが縄を張り替えてきた話をよく聞きます」若菜は続けた。「榊原さん一人が続けてきた。ただ、今は健一さんも手伝っています。形が一人から二人に広がることで、形が強くなった。師匠の判断も、一人だけが抱えるより、誰かと共有した方が強くなると思います」


 靈はしばらく、板の間を見た。

 若菜の問いは、靈が考えてきたこととは、確かに違う方向から来ていた。

 靈は真剣を抜くかどうかを、自分の問いとして抱えてきた。いつ抜くか、なぜ抜くか、抜かない理由は何か。全部が、靈個人の問いだった。

 若菜が持ってきたのは、その判断を誰が持つか、という問いだ。

「あなたは、稽古を始めて何週間ですか」靈は若菜に聞いた。

「三週間です」

「三週間で、その問いが来ましたか」

「きゃるんさんの件から来た問いです」若菜は答えた。「きゃるんさんが一人で動いた。隣に誰かがいれば、という話を師匠が言っていました。一人が判断を抱えることの弱さを、あの話で感じました」


 靈は立ち上がった。

「稽古を始めましょう」靈は言った。「今日は、間合いの話をします。ただし、これまでと違う間合いの話です」

「どういう間合いですか」

「決断の間合いです」


 二人で板の間の中央に立った。

「これまで、戦う間合いと、対話の間合いを話しました」靈は言った。「今日は三つ目の間合いです。決断の間合い、という言葉は、武道には正式にはありません。ただ、私が今日使う言葉として、使います」

「どういう意味ですか」

「決断ができる距離のことです」靈は続けた。「遠すぎれば、状況が見えない。近すぎれば、状況に飲み込まれる。その間に、見えていて、かつ飲み込まれていない場所がある」

「それが、決断の間合いですか」

「そうです」靈は若菜から四歩ほど離れた。「今、私はここにいます。あなたから見て、私が状況を判断できる距離はどこだと思いますか」


 若菜は靈を見た。

「今の距離は、遠すぎます」若菜は言った。「師匠が何を考えているか、表情が読みにくい」

「では」靈は一歩近づいた。

「少し近くなりました」

「もう一歩」

「今の距離は、表情が読めます。ただ、少し圧迫感があります」

「圧迫感があるということは、距離が近すぎて、あなたが状況に飲み込まれ始めているということです」靈は一歩引いた。「この距離が、今日の対話の間合いです。ただ、決断の間合いは、これより少し遠い」

「なぜ遠くなるんですか」

「決断するためには、全体が見えなければいけない」靈は続けた。「対話は、相手の表情を読める距離が必要です。ただ、決断は、相手だけでなく、周囲も見える距離が必要です。表情が少し見えにくくなるくらい引いた位置に、決断の間合いがあります」


「師匠が壁際に立っているのは、その理由ですか」若菜は聞いた。

「そうです」靈は答えた。「対話の場で、私は壁際に立っています。全体が見える位置です。表情は細かく読めないが、場の空気は見えます。それが、今の私の決断の間合いです」

「一人でその間合いにいることが、一人で判断を抱えることと繋がっていますか」

 靈は少し止まった。

「繋がっていると、今気づきました」靈は答えた。「壁際に一人でいることで、全体を見ながら判断する。ただ、その判断を、誰とも共有していなかった」

「今日の問いは、そこです」若菜は言った。「判断を共有することは、できますか」


「できるかもしれません」靈は言った。「ただ、共有するためには、共有できる人間が必要です。判断の根拠を、同じように理解している人間が」

「石丸さんや雨森さんは、違いますか」

「石丸さんは、体で動く人間です。私の判断の根拠を、言葉として共有できるかどうかは、まだ確認していません」靈は続けた。「雨森さんは、神職として別の判断の根拠を持っています。重なる部分はあるが、同じではない」

「では、誰と共有しますか」

 靈は若菜を見た。

「あなたは、稽古を始めて三週間です」靈は言った。

「わかっています」若菜は答えた。「私が共有できる立場にないことも、わかっています。ただ、将来、共有できる人間が必要だという問いを、今日持ってきました」

「将来への問いですか」

「そうです」


「その問いは、答えが必要ですか」靈は若菜に聞いた。

「今日は必要ありません」若菜は答えた。「ただ、師匠に持っておいてほしかった。私が今日来た理由は、その問いを渡すためです」

 靈は少し間を置いた。

「渡す、という言葉を使いましたね」

「きゃるんの木刀を受け取った日に、師匠が言いました」若菜は続けた。「使ってもらうことが、一番いいと思っています、と。問いも同じだと思いました。持っている問いを、誰かに渡すことで、問いが動き始めることがある」

 靈はしばらく、若菜を見ていた。

 三週間の弟子が、この問いを持ってきた。

 きゃるんは、礼の意味を受け取って、形で応えた。若菜は、間合いの話を受け取って、問いで応えた。

 受け取り方が違う。ただ、どちらも、受け取ったものを返してきた。


「受け取りました」靈は言った。

「ありがとうございます」若菜は少し頭を下げた。「稽古を始めていいですか」

「始めましょう」

 二人で板の間の中央に立った。

 若菜がきゃるんの木刀を受け取った。

 靈が立ち方を確認した。先週より安定している。重心が中央に来ている。

「今日は、素振りに入ります」靈は言った。「木刀を持って、ただ振る。力ではなく、軌道で切る動作の入口です」

「わかりました」

「振る前に、一つだけ意識してください」靈は続けた。「振り始めと、振り終わりの形を、同じにする。最初と最後が同じ形なら、途中は自然に整います」

「最初と最後が同じ」

「始まりと終わりが決まっていれば、途中は体が知っています。決断も同じです。何のために動くかの始まりと、どうなることを目指すかの終わりが決まっていれば、途中の判断は体が知っています」


 素振りを始めた。

 若菜が木刀を上に上げた。下ろした。

「腕だけで振っています」靈は言った。「肩から動いてください。腕は、肩の動きに従う」

 若菜がもう一度やった。

「少し変わりました。ただ、終わりの形が毎回違います」

「どうすれば揃いますか」

「終わりを先に決めてから、始めてください」靈は続けた。「どこで止めるかを、振り始める前に決める。決めてから振ると、体がそこに向かいます」

 若菜がもう一度やった。

 今度は、終わりの形が前回より揃っていた。

「変わりましたか」

「変わりました。終わりを決めてから始めると、途中が落ち着きます」

「決断も同じです」靈は言った。「何のために動くかが決まっていれば、どう動くかは途中で調整できます」


 稽古を一時間続けた。

 素振りを三種類通した後、靈は若菜の横に立った。

「今日の若菜の動きを見て、一つ気づいたことがあります」靈は言った。

「なんですか」

「始まりと終わりを意識したとき、途中で迷わなくなりました。ただ、始まりと終わりを意識しすぎると、途中で体が固くなる場面がありました」

「気づいていました。どうすれば固くならないですか」

「途中を信頼することです」靈は答えた。「始まりと終わりを決めたら、途中は体に任せる。体が知っていることを、止めない」

「体が知っていることを、止めない」若菜は繰り返した。「それは、きゃるんさんが向かっていったことと、同じですか」

「近いかもしれません」靈は答えた。「礼が体に入っていた人間が、向かっていった。体が知っていることに従った」

「私も、いつかそういう状態になりますか」

「時間がかかります。ただ、始めることはできています」


 稽古が終わって、二人で板の間に座った。

 靈が茶を淹れた。若菜は両手で受け取った。

「今日の問いを持ってきてよかったですか」若菜は聞いた。

「よかったです」靈は答えた。「壁際に立つことと、一人で判断を抱えることが繋がっていることに、気づいていなかった。気づかせてもらいました」

「師匠が気づいていないことがあるんですね」

「あります。自分のことは、自分では見えにくい」靈は続けた。「きゃるんも、あなたも、外から見ているから見えることがある」

「それが、弟子の役割の一つですか」

「そうかもしれません」靈は少し考えた。「師匠が弟子に技を伝えるとともに、弟子が師匠に問いを渡すことがある。三田先生が、倉敷さんに対してやってきたことと、似ているかもしれない」


 若菜が帰り際、きゃるんの木刀を壁に戻した。

 丁寧に、両手で立てかけた。

「来週また来ます」若菜は言った。

「待っています」

 引き戸の前で、若菜は礼をした。

 今日は三礼にした。

 靈は少し止まった。

「三礼にしましたか」

「神社で聞いた話を思い出しました。天と地と人への礼。この道場に来るときも、三礼がいいと思って」靈を見た。「駄目でしたか」

「駄目ではありません」靈は答えた。「ただ、気づきませんでした。よく覚えていましたね」

「一度聞いたことは、忘れません」若菜は少し笑った。「師匠の話し方は、具体的だから」

 引き戸が閉まった。


 靈は一人、板の間に立った。

 若菜が持ってきた問いを、頭の中で転がした。

 判断を誰かと共有すること。一人で抱えることの弱さ。将来への問い。

 靈は壁の木刀を見た。一本だけ、そこにある。

 きゃるんの木刀は若菜が使っている。若菜が来るたびに、道場に二本の木刀が並ぶ。

 形は、すでに一人から二人に広がっている。

 ただ、真剣の判断は、まだ一人だ。


 石丸に電話した。

「一つ相談したいことがあります」

「なんですか」石丸はすぐに答えた。

「真剣を抜く判断を、共有したいと思っています。あなたと」

 電話口が、少し静かになった。

「私でいいんですか」

「あなたが、私の判断の根拠に近い場所にいると思っています」靈は続けた。「父の話をしたとき、鏡の話を聞いて三礼にしたとき。同じ方向を見ていると感じました」

「判断を共有するとは、具体的にどういうことですか」

「今は、まだわかりません」靈は答えた。「ただ、私が判断できない状況になったとき、あなたに見ていてほしい。それだけです」

「見ていていいですか」石丸は少し間を置いた。「私の判断が、あなたの判断と違ったときは」

「話してください。その話が、判断を整えます」

「わかりました」石丸は言った。「ただし、一つだけ条件があります」

「なんですか」

「私も、稽古を始めさせてください。礼から」


 電話を切って、靈は板の間に立った。

 若菜が問いを渡してきた。石丸が稽古を求めてきた。

 欠けた形に、新しいものが入ってきている。

 靈は木刀を手に取った。

 型を始める前に、今日三礼で礼をした。

 天への礼。この道場が川口の空の下にあることへの礼。

 地への礼。板の間の木が、今日も足を受けてくれていることへの礼。

 人への礼。今日来た若菜への礼。電話で話した石丸への礼。きゃるんへの礼。

 礼から戻した。


 型を始めた。

 零の型を一度通した。

 型をやりながら、靈は今日の問いを体に通した。

 いつ抜くのか。判断は誰がするのか。

 始まりと終わりを決めれば、途中は体が知っている。

 真剣を抜く判断の始まりは、守ることだ。終わりは、守れたかどうかだ。

 その間の判断を、石丸と共有する。

 それが今日、靈に見えた形だった。


 型を終えた。

 木刀を壁に戻した。

 板の間の隅の真剣を見た。

 今夜も、抜かなかった。

 ただ、今夜の「抜かない」は、一人で抱えているものではなくなった。

 若菜が問いを渡してくれた。石丸が見ていると言った。

 真剣は一本のままだ。ただ、その周りにいる人間が、増えた。

 正座した。

 道場に三礼をした。

 天と地と人への礼を、今夜初めて道場に向けた。

 礼から戻して、目を閉じた。

 きゃるんの顔が出てきた。

 出てきたまま、そこにいた。

 弟子は二人いる。三田がそう言った。

 きゃるんが問いを渡してくれたことが、今夜わかった。きゃるんが死んで、若菜が来た。若菜が問いを持ってきた。その問いは、きゃるんがいなければ生まれなかった問いだ。

 間に立つ者という言葉を、石丸が言っていた。

 きゃるんが、靈と若菜の間に立っている。

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