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壱億総抜刀  作者: るふな


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第47話 「石丸の礼」

石丸が道場に来たのは、約束の翌週の火曜日だった。

 靈が朝の型を終えてすぐに、チャイムが鳴った。引き戸を開けると、石丸が立っていた。コートを着て、手ぶらだ。

 引き戸の前で、石丸は礼をした。

 靈は少し止まった。

 以前、石丸が道場に来たときは、引き戸の前で礼をしていなかった。今日、自然にやった。

「先週、電話で話した通りに来ました」石丸は顔を上げて言った。

「どうぞ」


 板の間に通すと、石丸は靴を脱ぐ前に少し止まった。

「揃えます」石丸は靴を脱いで、向きを整えた。「きゃるんさんの話を聞いて以来、やるようにしています」

「神社でもそうしていましたね」

「神社の石畳に靴を置くとき、自然にそうしたくなりました」石丸は板の間に上がった。「道場では、ちゃんとやれていなかった」


 向かい合って座った。

 靈が茶を淹れると、石丸は両手で受け取った。この受け取り方は、以前と変わっていない。石丸は最初から、両手で受け取る人間だった。

「稽古を始める前に、少し聞いてもいいですか」石丸は言った。

「どうぞ」

「礼から始めると言いました。礼の意味を、教えてもらえますか。やり方ではなく、意味から先に」

 靈は少し考えた。

「きゃるんにも、若菜にも、最初に同じことを話しました」靈は言った。「礼をするとき、頭を下げます。頭を下げることは、首の後ろをさらすことです。首は、人間の急所です」

「急所をさらす」

「その危険な場所を自分からさらすことで、あなたを傷つける気はないという意思を示す。信頼の表明が、礼です」靈は続けた。「礼は服従ではない。対等な相手への信頼の示し方です」


 石丸はしばらく、その言葉を受けていた。

「私は」石丸は続けた。「ずっと首の後ろを守ってきた気がします。誰にも見せないように、硬くしてきた」

「そうかもしれません」靈は答えた。「息子が傷ついた夜から、守ることと戦うことの間にいた。どちらも、首の後ろをさらさない態勢です」

「礼をすることは、それをやめることですか」

「礼をする瞬間だけ、やめることです」靈は続けた。「ずっとさらし続けることを求めているのではない。礼をするその瞬間だけ、首の後ろをさらす。それが、礼の形です」

「その瞬間に、何が起きますか」

「守ろうとしていた力が、一瞬緩みます」靈は答えた。「その緩んだ瞬間に、場の空気が変わることがあります。神社で石丸さんが礼をして入ったとき、榊原さんの顔が変わったことを、覚えていますか」

「覚えています」石丸は言った。「あのとき、何かが動いた感じがしました」

「礼が、場を動かしました」


 靈は立ち上がった。

「では、やってみましょう」

 石丸も立った。

 二人で板の間の中央に立った。

「今日は、礼だけです」靈は言った。「木刀は持ちません。礼の動作を、今日は体に入れることだけを目標にします」

「わかりました」

「足を揃えて立ちます」靈は見本を見せた。「それから上体を傾けます。目線は、斜め前の床に落とします。首の後ろが、自然にさらされる角度になります」

 石丸がやった。

 靈は石丸の首の後ろを見た。


 首の後ろに、緊張が残っていた。

 上体は傾いている。形としての礼はできている。ただ、首の後ろの筋肉が、硬いままだった。さらしていながら、守ろうとしている。

「首の後ろに力が入っています」靈は言った。

「入っていますか」石丸は礼から戻した。

「入っています。形は正しい。ただ、首の後ろを守ろうとする力が、礼の中に残っています」

「どうすれば取れますか」

「取ろうとすると、かえって入ります」靈は続けた。「一度、思い切り肩を上げて、一気に落としてみてください」

 石丸が肩を耳まで上げた。それから、どんと落とした。

「その状態で、もう一度礼をしてください」


 石丸がもう一度礼をした。

 靈は首の後ろを見た。

 先ほどより、緊張が薄れていた。完全には取れていない。ただ、さらされた首の後ろに、少し別のものが見えた。

 長年、守ってきた場所だ。息子が傷ついた夜から、ずっと硬くしてきた場所だ。それが今、礼の中で少しだけ開いている。

「今はどうですか」靈は聞いた。

「さっきと違います」石丸は礼から戻した。「首の後ろに、空気が当たっている気がします」

「そうです」靈は答えた。「さらされている感覚です」

「怖い感じがします」

「怖いですか」

「怖いです」石丸は少し間を置いた。「ただ、きゃるんさんも若菜さんも、怖いんだけどさらしたい、と言ったと聞きました。私は、今まだ、怖い、の手前にいます」


「それでいいです」靈は言った。「怖いことと、さらすことは、別のことです。怖くても、さらすことができる。ただ、そこに至るまでに、怖さを知る段階があります。今日は、怖さを知りました」

「怖さを知ることが、最初の段階ですか」

「そうです。きゃるんは最初、首の後ろをさらすことが怖い、と言いました。若菜も同じでした。その後、怖いんだけどさらしたい、に変わっていきました。石丸さんも、今日そこに向かう一歩を踏みました」

「どのくらいかかりますか」

「人によります」靈は答えた。「ただ、体の硬さから見て、石丸さんには時間がかかるかもしれない」

「なぜですか」

「長年、その場所を守ってきたからです」靈は続けた。「守ってきた年数が長いほど、緩むのに時間がかかります。ただ、今日、緩み始めました。それは確かです」


 礼を十回ほど繰り返した。

 毎回、少しずつ石丸の首の後ろの緊張が変わっていった。

 完全に取れることはなかった。ただ、最初と最後では、明らかに違っていた。

「今日はここまでにします」靈は言った。「来週また来てください」

「来週も、礼だけですか」

「礼だけです」靈は答えた。「礼が体に入るまで、礼だけを続けます。きゃるんも若菜も、そうしました」

「木刀を持つのは、いつですか」

「礼が体に入ってから、です」


 稽古が終わって、二人で板の間に座った。

 靈が茶を淹れた。石丸は両手で受け取って、一口飲んだ。

「一つ話していいですか」石丸は言った。

「どうぞ」

「今日、礼をしながら、父のことを考えていました」石丸は続けた。「父が毎朝神社で頭を下げていた。その姿を、子供の頃に見ていた。今日、同じことをやってみて、少しわかりました」

「何がわかりましたか」

「父が頭を下げていたのは、習慣だと思っていました。朝起きて神社に行くことが、毎日の一部になっていた。ただ、今日礼をしながら、違うかもしれないと思いました」

「どう違いますか」


「父は工場で働いていました」石丸は続けた。「毎日、力仕事をしていた。体を使う仕事は、体の緊張が蓄積します。首の後ろが、特に緊張します」石丸は自分の首の後ろに手を当てた。「父が毎朝神社で頭を下げていたのは、その緊張を緩めていたのかもしれない」

「首の後ろをさらすことで、一日分の緊張を開放していた」

「そうかもしれません」石丸は手を下ろした。「外国人の健康を祈っていた、という話と、今日感じたことが繋がりました」

「繋がり方を、教えてください」

「緊張を緩めた状態で、祈ることができる」石丸は続けた。「硬いままでは、怒りや恐れが先に来ます。毎朝、礼で緊張を緩めてから、工場に行った。その状態なら、外国人の同僚を、怒りなく見ることができた」


 靈はしばらく、石丸の言葉を受けた。

「その見方は、私には思いつかなかったものです」靈は言った。

「拝郷さんが礼の意味を教えてくれなければ、私も思いつかなかった」石丸は答えた。「体でやってみて、初めて父の習慣の意味が見えました」

「それが、稽古の意味です」靈は続けた。「知識として知ることと、体でやってみることは、別のことです。体でやると、知識が別の形で現れてくることがある」

「父が何も説明しなかったのも、そのためかもしれない」石丸は茶碗を持ちながら言った。「説明するより、毎朝やることで、息子に形を見せていた」

「形を見ることが、伝わることの一つです」靈は答えた。「榊原さんが縄を張り替えてきた。子供の健一さんが見ていた。今、健一さんが手伝っています。説明なく、形が伝わった例です」


「もう一つ聞いていいですか」石丸は靈を見た。

「なんですか」

「先週、判断を共有したい、と言いました。私に見ていてほしい、と。今日の稽古で、少し意味がわかってきた気がします」

「どういう意味がわかりましたか」

「首の後ろが硬い状態の人間は、判断が固くなります」石丸は続けた。「視野が狭くなる。首の後ろが緩んでいる人間は、判断が柔らかくなる。同じ状況を見ても、判断が違う」

「そうです」

「拝郷さんが判断できない状況になったとき、という話でした。ただ、今日思ったのは、拝郷さんの首の後ろが硬くなっているとき、というのもあり得る、ということです」


 靈は少し止まった。

「私の首の後ろが硬くなるときがある、ということですか」

「あると思います」石丸は言った。「きゃるんさんが死んだ夜、拝郷さんは一人でいた。そういう夜は、硬くなります。私もなりました」石丸は続けた。「そういう夜に、私が隣にいれば、少し違うかもしれない」

「誰かが隣にいないと硬くなる、という意味ですか」

「違うかもしれません。ただ、今日稽古をして、そう思いました」

 靈は石丸を見た。

「弟子ではなく、隣にいる人間として、ということですか」

「そうです」石丸は答えた。「稽古は続けます。ただ、稽古をしながら、隣にいます」


 石丸が帰り際、靴を揃えてから、引き戸の前で礼をした。

 今日、入るときも、出るときも、礼をした。

 礼の角度が、入るときと少し違った。出るときの方が、首の後ろが少し緩んでいた。

 靈はその礼を、引き戸を閉めながら見た。

 一時間の稽古で、少し変わった。

 長年硬くしてきたものが、一時間で完全に変わることはない。ただ、緩み始めた。


 板の間に一人で立った。

 今日の石丸の言葉を整理した。

 父が毎朝礼をしていたのは、体の緊張を緩めていたのかもしれない。緊張を緩めた状態で、外国人の同僚を怒りなく見ることができた。

 その見方は、靈には思いつかなかったものだ。

 石丸が体でやってみて、初めて見えてきたものだ。

 知識を伝えたつもりが、受け取った側が別の形を見つけた。それが、教えることの意外な側面だ。

 三田が言っていた。師は弟子に技を伝えるにあらず。弟子が師の在り方から学ぶ。

 石丸は技を学んだのではなく、礼をやってみることで、父の在り方を見つけた。それは、三田の言葉と繋がっている。


 若菜が稽古から返してきた問いがあった。

 石丸が稽古から返してきた言葉があった。

 首の後ろが硬くなっている靈に、隣にいると言った。

 弟子が師匠を見ている。

 三田が言っていた。弟子は師匠をよく見ているから、師匠が後悔していることも、続けていることも、見ている。

 石丸は弟子ではない。隣にいる人間だと言った。ただ、礼から稽古を始めた。

 隣にいながら、師弟に近い関係が生まれていくかもしれない。


 木刀を手に取った。

 型を始める前に、三礼をした。

 天への礼。地への礼。人への礼。

 三回、首の後ろをさらした。

 三回目の礼から戻したとき、靈は自分の首の後ろを確認した。

 硬いか、緩んでいるか。

 石丸ほどではない。ただ、完全には緩んでいない部分がある。

 きゃるんが死んだ夜から、少し硬くなった部分が、まだ残っている。

 それが今日、少しわかった。


 型を始めた。

 零の型を一度通した。

 型をやりながら、靈は首の後ろを意識した。

 動いている間、首の後ろが緩んでいるか、硬くなっているか。

 最初の所作では、緩んでいた。

 途中、ある動作で少し硬くなった。靈が力を入れやすい場面だった。力が入るとき、首の後ろも固まる。

 気づいて、緩めた。

 緩めると、動きが変わった。力で動かすのではなく、体の重さで動くようになった。

 型を終えた。


 木刀を壁に戻した。

 石丸が来週また来る。礼を続ける。少しずつ、首の後ろが緩んでいく。

 若菜が来週稽古に来る。素振りを続ける。終わりを決めてから動くことを体に入れていく。

 靈は二人の弟子と、隣にいる一人と、川口でやることを続けていく。

 板の間に正座した。

 道場に三礼をした。

 今日への報告として。石丸が礼から稽古を始めたことへの報告として。

 礼から戻した。

 窓の外に、川口の夜があった。

 父が毎朝神社で頭を下げていた。息子がその姿を見ていた。息子が、今日道場で礼をした。

 形が、時間をかけて伝わった。

 それが今日見えたことだった。

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