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壱億総抜刀  作者: るふな


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第48話 「真剣の距離」

その朝、靈が型を終えてスマートフォンを確認すると、健一からのメッセージが大量に入っていた。

 時刻は朝の六時を過ぎたところだった。

 最初のメッセージは、夜の八時に送られていた。

「財務省前で大規模なデモが発生しています。皇道護民連合が新しい文書を公開しました。海外支援の実態に関する内部資料です」

 続くメッセージを、靈は順番に読んだ。


「文書の内容をまとめます。日本政府が海外支援と称して複数の国に提供してきた資金の総額が、年間三兆円を超えていたことが明らかになりました。ただし、文書によれば、その相当部分が現地に届かず、日本国内の複数の中間業者と特定の政治家の関連組織に還流していたことが示されています」

「財務省の内部資料とされる文書が含まれており、担当官僚の実名と金額が記載されています。この部分は、既存の決算報告書と照合が可能で、数字の不整合が確認されています」

「午後七時頃、財務省前に自然発生的に人が集まり始めました。午後九時現在、推定五万人以上が集まっています。一部が火炎瓶を投げ込み、機動隊が出動しています。負傷者が出ています」


 最新のメッセージは、一時間前だった。

「朝になって、デモが拡大しています。財務省前だけでなく、首相官邸前、与党本部前にも人が集まり始めました。デモの非難は首相と与党第一党に直接向かっています。全国では、札幌、仙台、名古屋、大阪、福岡で同時に集会が発生しています。川口でも、今朝から動きが出ています」

 靈はメッセージを読み終えて、スマートフォンを置いた。

 三兆円。

 海外支援と称して、毎年約三兆円が出ていた。その一部が、国内外の利権に還流していた。

 靈には、その金額の実感がなかった。ただ、それが何十年も続いていたとすれば、積み重なった総額は、川口の街の価値とは比較にならない規模だ。


 雨森に電話した。

「把握しています」雨森は言った。「昨夜から追っています。今朝、西川さんからも連絡が来ました」

「内調は、どう見ていますか」

「政府内部が、現在混乱しています。文書の一部が本物と確認された時点で、担当大臣が緊急会見を開きましたが、説明が支離滅裂でした。それがさらに火に油を注いでいます」

「川口の状況は」

「今朝から、南部と東部で人が動いています。松永議員の事務所前に、またすでに人が集まっています」

「叢雲は動けますか」

「動きます。ただ、今日は全国規模の問題です。川口だけで手が足りるかどうか」


 健一に折り返した。

「今朝のSNSの状況を教えてください」

「急速に変化しています」健一は言った。「財務省の文書だけでなく、与党第一党と外国政府の非公式接触を示す記録も、今朝追加で公開されました。首相の名前が、直接文書に出てきています」

「首相本人が」

「はい。これは、これまでの文書と次元が違います。閣僚や帰化議員だけでなく、首相本人の関与が示されています」靈には健一の声が、いつもより緊張していることがわかった。「父に、神社の鍵を閉めるよう伝えました。今日は境内に人が集まる可能性があります」

「榊原さんに確認します」靈は答えた。「ただ、鍵を閉めることが正しいかどうかは、榊原さんが決めることです」


 榊原に電話すると、健一からすでに連絡を受けていた。

「鍵は閉めません」榊原はすぐに言った。「神社は、こういうときに開いているべき場所です」

「人が集まってきたときの対応は」

「雨森さんと健一に来てもらいます。私もいます」榊原は続けた。「ただ、拝郷さんには、別の場所にいてほしい」

「どういう意味ですか」

「今日の川口では、神社より先に対処が必要な場所が出てきます。あなたは、そちらに動いてください。神社は、私たちでやります」


 靈は石丸に連絡した。

「今日の状況は把握していますか」

「把握しています」石丸の声に、いつもと違う何かがあった。「私の知っている南部の人間が、今朝から動いています。怒りの方向が、きゃるんさんの件と重なっています。川口の移民への怒りと、政府への怒りが、今日混ざっています」

「混ざると、何が起きますか」

「どちらかに焦点が定まらない怒りは、近くにあるものに向かいます」石丸は続けた。「今日の川口では、移民のアパートが一番近くにある。そこに向かう可能性があります」

「止められますか」

「一人では止められません」石丸は言った。「拝郷さんが来れば、話が変わるかもしれない」

「今から向かいます」


 道場を出る前に、靈は板の間に立った。

 木刀を帯に差した。

 板の間の隅の真剣を見た。

 今日、木刀で足りるか。

 足りないかもしれない。ただ、今日の状況で真剣を持って外に出ることが正しいかどうかは、まだわからない。

 靈は真剣に近づいた。鞘を持ち上げた。

 それを、左の腰に差した。

 木刀と真剣を、両方持って出ることにした。

 真剣を抜く理由が、今日あるかどうかはまだわからない。ただ、理由が来たときに、そこにないことが問題になる。

 持っていて使わないことと、持っていなくて使えないことは、別のことだ。


 南部のアパートに着いたのは、一時間後だった。

 路地に、すでに三十名ほどが集まっていた。

 構成が、先週の対話の場とは違った。先週の顔ぶれも一部いるが、見知らぬ顔が多い。怒りの質が、対話の場に来ていた人間とは違う。整理されていない怒りだ。

 石丸が路地の端に立っていた。靈を見て、近づいてきた。

「来てくれましたか」

「状況は」

「今のところ、動きは止まっています。ただ、誰かが何かを言えば、アパートに向かいます」石丸は続けた。「一つ報告があります。財務省の文書に、川口の移民受け入れ事業が含まれていました。外国政府からの資金が、川口の移民斡旋業者を通して、叢雲の関連会社に流れていた記録です」

「叢雲の関連会社が」

「今朝、公開されました。SNSで川口と叢雲の名前が出回っています。それが、今日の群衆の怒りに、川口の移民への怒りが加わった理由です」


 靈は路地の人群れを見た。

 今日の怒りは、先週までとは違う。移民への怒り、政府への怒り、利権への怒り、すべてが今日川口に重なっている。

 靈は前に出た。

 群衆の何人かが靈を見た。木刀に目が行った。真剣にも気づいた。

「一つだけ、聞かせてください」靈は言った。声を上げなかった。ただ、届くように言った。

 場が少し静かになった。

「今日、財務省の文書が出ました。三兆円の話が出ました。それは、怒るべき話です」靈は続けた。「ただ、今この路地で、このアパートに向かうことで、三兆円の問題が変わりますか」

「関係ないとは言えない」誰かが言った。「移民を受け入れた利権の話が出た。移民がここにいることと、金が動いていたことは繋がっている」

「繋がっているかもしれません」靈は答えた。「ただ、このアパートにいる移民が、その利権を作りましたか。利権を作った人間と、利権に乗せられた人間は、同じではない」


「そんな区別ができるか」別の声が来た。「移民が来なければ、利権も生まれなかった」

「その論理は、川口で工場を作った人間が、外国人労働者を呼び込んだ時代から始まっています」靈は続けた。「呼んだのは、日本側です。利権を作ったのも、日本側です。今ここにいる移民は、呼ばれた側です」

「そんな話は関係ない」

「関係あります」靈は言った。「石丸さんのお父さんが、鋳物工場で外国人と一緒に働いていた。毎朝神社で頭を下げながら、外国人の健康を祈っていた。その時代から、川口はずっとそういう街でした」

 群衆の中で、動きが止まった。

 石丸の名前が出たことで、石丸を知っている人間が少し変化した。


 石丸が前に出た。

「私の父の話を、使ってくれました」石丸は群衆に向かって言った。「今日ここにいる人間の中に、私の顔を知っている人間がいます。私が長い間、怒りで動いてきた人間だということも、知っている人間がいます」

 場が石丸を見た。

「今日の怒りは、正当です。三兆円ばら撒きの話は、本当に怒るべきことです」石丸は続けた。「ただ、私はきゃるんさんが死んでから、怒りの向け方を考え直しています。怒りを、近くにあるものに向けることが、正しいかどうかを」

「きゃるんさんとは」誰かが聞いた。

「知っています」別の声が言った。「移民にやられた子だ」

「移民に殺された子です」石丸は続けた。「私も、その怒りを持っています。ただ、きゃるんさんが動いたのは、怒りからではなかった。目の前で誰かが傷ついていたから、動いた。怒りと、動く理由は、別のことです」


 場が、少し変わった。

 全員が散ったわけではない。ただ、アパートに向かう動きが止まった。

 靈は石丸の隣に並んだ。

 二人が並んで、路地の人群れの前に立っている。

 その光景が、場の空気を変えた。

 一人が動き始めた。帰る方向に歩き始めた。それに続いて、二人、三人と動いた。

 全員ではなかった。十名ほどが残った。ただ、アパートに向かう動きは、止まった。


 雨森から連絡が来た。

「南部の状況を確認しています。今日の動きで、一つ報告があります。松永議員が、今朝午前中に記者会見を開きました」

「会見の内容は」

「叢雲との関係と、移民斡旋業者との関係について、認める方向で発言しています。全部ではありません。ただ、一部を認めた。これは、昨日まではなかった変化です」

「何が変わったんですか」

「今朝の文書公開です。首相の名前が出たことで、与党内部の動きが変わりました。首相を守るために、周辺の人間が先に出ることが始まっています」雨森は続けた。「政治の話は、私の専門ではありません。ただ、川口の利権の一端を、松永議員が認めたことで、今日の群衆の怒りが少し別の方向に向かい始めています」


 夕方、南部の状況が落ち着いてから、靈は道場に戻った。

 帰り道に、健一からメッセージが来た。

「財務省前のデモは、機動隊の鎮圧で夜までに解散しました。ただし、百名以上が逮捕されています。首相は今夜、緊急記者会見を開く予定です。SNS上では、首相の辞任を求める声が急拡大しています」

「川口の神社は」

「問題ありませんでした。境内に人が集まりましたが、榊原さんと雨森さんが対応しました。大祓詞を唱えたそうです。それで、場が落ち着いたと榊原さんが言っていました」


 道場に入って、木刀を壁に戻した。

 真剣を、元の場所に戻そうとして、止まった。

 今日、真剣を持って外に出た。使わなかった。ただ、持っていた。

 今日の状況で、真剣を使う必要があったか。

 必要はなかった。石丸と二人で前に出て、話したことで、動きが止まった。

 ただ、石丸が言っていた通りだった。首の後ろが硬くなっているとき、判断が固くなる。

 今日、靈の首の後ろはどうだったか。

 硬かった。三兆円の話を聞いて、川口の状況を見て、群衆の前に立って。緊張が入っていた。

 それでも、止まった。


 靈は真剣を鞘ごと、板の間の中央に持ってきた。

 正座した。

 真剣を膝の前に横に置いた。

 向かい合った。

 今日、外に持ち出した。使わなかった。

 今夜、確認をする。刃の状態を確認する。それだけだ。

 鞘から、ゆっくりと刃を出した。

 刃文が見えた。

 今夜の光の中で、刃文がいつもと少し違って見えた。今日、外に出た後だからかもしれない。

 靈は刃を見ながら、今日のことを整理した。

 三兆円ばら撒き。利権。傀儡政権という言葉が、SNSで出回り始めていた。首相の名前が文書に出た。与党の中から認める動きが始まった。

 川口では、移民への怒りと政府への怒りが混ざった。石丸と靈が並んで前に出た。動きが止まった。


 刃を収めた。

 真剣を両手で持ち上げた。

 元の場所に戻した。

 板の間の隅に、また真剣が戻った。

 靈は板の間の中央に立った。

 今夜初めて、真剣を刃の状態で外の光に当てた。使うためではなく、確認のためだ。

 刃の状態を知ることは、持つ者の責任だ。いつでも使える状態にあるかどうかを、持つ者が知っておく必要がある。

 今夜の確認で、刃は使える状態にあることがわかった。

 使う理由がなかったことも、今日確認できた。


 木刀を手に取った。

 型を始める前に、一礼、ゆっくり礼から戻し、型を始めた。


 型をやりながら、靈は今日一日を整理した。

 三兆円の文書。財務省前の火炎瓶。機動隊の鎮圧。川口への波及。石丸と並んで前に立ったこと。松永議員の会見。首相の緊急記者会見が今夜行われる。

 日本が、大きく動いている。

 川口はその中の、一つの場所だ。

 靈にできることは、川口でやることだ。全国を変えることはできない。ただ、川口の路地で、今日動きが止まったことは確かだ。

 型を終えた。

 木刀を壁に戻した。


 板の間に正座した。

 スマートフォンに、西川からメッセージが来ていた。

「今日の川口の動き、把握しています。拝郷さんと石丸さんが南部で止めたことを、報告として受けています。今夜の首相会見を受けて、明日以降の状況はさらに変化します。引き続き、川口の動向を注視してください」

 靈は既読をつけた。

 返信しなかった。

 西川が言った通り、明日以降の状況は変化する。ただ、今夜できることは、今夜やった。


 石丸からメッセージが来た。

「今日、隣に立てました。首の後ろが、さっきより緩んでいます」

 靈は少し止まった。

「緩みましたか」靈は返信した。

「南部の路地で、拝郷さんの隣に立ったとき、首の後ろを意識しました。硬くなっていた。意識したら、少し緩みました。稽古の効果が、今日出た気がします」

「それが、稽古の意味です」靈は返信した。「使う場面で、体が知っていることが出てくる」

「来週の稽古、行きます」

「待っています」


 靈は板の間に横になった。

 天井を見た。

 今夜、真剣を抜いた。使うためではなく、確認のために。

 刃は使える状態にあった。

 使う日が来るかどうかは、まだわからない。

 ただ、今日の路地で、使わずに止まった。

 石丸が隣にいた。

 若菜が問いを渡してきた。判断を一人で抱えることの弱さを。

 今日、一人ではなかった。

 首の後ろをさらすことで、信頼が生まれる。信頼が、隣に立つ人間を呼ぶ。

 石丸が隣に立った理由は、礼の稽古だけではないかもしれない。

 石丸の父が毎朝神社で頭を下げていた。石丸がその形を見ていた。靈がその話を聞いた。石丸が礼の意味を体で知った。

 形が、人と人を繋いだ。

 目を閉じた。

 きゃるんの顔が出てきた。

 出てきたまま、そこにいた。

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