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壱億総抜刀  作者: るふな


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第49話 「剥き出しの夜」

首相の緊急会見は、夜の八時から始まった。

 靈は道場の板の間で、スマートフォンの画面で会見を見ていた。

 首相は終始、言葉が固かった。文書の一部については調査中、関係者の処分は適切に行う、政権の継続に全力を尽くす——決まり文句が続いた。記者の質問を途中で遮る場面が複数あった。

 画面の端に、テロップが流れていた。

「財務省前デモ、本日の逮捕者百三十七名」

「与党内部から首相辞任を求める声」

「複数の野党が臨時国会召集を要求」


 会見が始まって四十分が経った頃、若菜からメッセージが来た。

「師匠、川口東部で複数の外国人が暴れています。叢雲のスタッフが手薄です。健一さんから連絡が来ました」

 靈は石丸に電話した。

「把握しています」石丸はすぐに出た。「東部の自警団が動いています。今夜は財務省の件で、怒りが整理されていない。向かいますか」

「向かいます。東部の集会所の近くで」

「十五分で行きます」


 靈が道場を出ようとしたとき、スマートフォンの画面から音が消えた。

 何かが起きた。

 画面を見ると、会見の映像が止まっていた。スタジオに切り替わっている。キャスターの顔が映った。

 テロップが出た。

「速報:首相会見会場で異変——複数名が会場内に侵入」

 続いて、また別のテロップ。

「速報:首相の身柄が確認できず——会場から連れ去られたとの情報」

 靈は画面を見たまま、十秒ほど動かなかった。

 首相が、いなくなった。


 スマートフォンが鳴った。

 雨森からの電話だった。

「見ていますか」

「見ています」

「皇道護民連合の行動とみられています」雨森の声に、珍しく動揺が混じっていた。「会場周辺の警備が、今夜のデモ対応で手薄になっていたようです。内調の西川さんから今、連絡が来ました」

「首相は」

「生存は確認されているという情報がありますが、確度が低い。場所も不明です」靈の手が止まった。「もう一つ、別の報告があります」

「川口のことですか?」

「はい、川口です」雨森は続けた。「南部で、クルド人系の移民グループが複数、街に出ています。日本人への暴行、放火、器物破損が起きています。」


 靈は一瞬、目を閉じた。

 首相が会見中に連れ去られた。クルド人グループが川口で暴れている。

 二つが同時に起きている。

「川口の警察は」

「今夜の首相の件で、警察の本部機能が一時的に麻痺しています。川口への対応は遅れます」雨森は続けた。「拝郷さん、今夜は状況が、これまでとは違います」

「どう違いますか」

「これまでは、話しかけることで止まるものがありました」雨森の声が低くなった。「今夜の暴徒化したグループは、話を聞く状態にないかもしれません」

「わかっています」靈は言った。「石丸さんに連絡しています。一緒に動きます」

「一つだけ」雨森は続けた。「今夜は、木刀だけで行くつもりですか」


 靈は少し間を置いた。

「両方持って行きます」

「わかりました」雨森は言った。「私も神社から出ます。榊原さんに神社を任せて」

「神社は」

「今夜は閉めません。榊原さんが、傷ついた人間が逃げ込める場所として開けておくと言っています」


 靈は板の間に戻った。

 真剣を腰に差した。木刀を帯に差した。

 鏡の前に立つ必要はなかった。ただ、出る前に、板の間の中央で一度だけ止まった。

 今夜、真剣を抜く理由が来るかもしれない。

 抜く理由は、守ること。怒りではない。

 石丸が隣にいる。若菜は今夜、来ないよう連絡する。

 靈はスマートフォンで若菜にメッセージを送った。

「今夜は外に出ないでください。鍵を閉めて、家の中にいてください」

 返信がすぐに来た。

「わかりました。師匠、気をつけてください」


 石丸と合流したのは、南部の路地だった。

 路地の向こうから、火の匂いがした。

 何かが燃えている。

 石丸が靈の隣に来た。靈の腰を見た。真剣と木刀、両方を確認した。

「今夜は違いますね」石丸は言った。

「違います」靈は答えた。「ただ、まず話しかけます。それが先です」

「わかりました」

「石丸さんの首の後ろは」

「硬くなっています」石丸は正直に言った。「今夜は、緩めようとしていません。硬いまま、横にいます」

「それでいいです」靈は言った。「今夜は、緩める場面ではないかもしれない」


 路地を曲がると、火が見えた。

 コンビニの入り口付近から煙が出ていた。ガラスが割れている。

 十名ほどのグループが、路地を移動していた。叫び声が混じっている。はっきりと聞こえないが、日本語ではない響きだ。

 路地の端に、日本人の男性が蹲っていた。頭を抱えている。怪我をしているようだった。

 靈は男性のそばに行った。

「大丈夫ですか」

「やられた」男性は言った。「何もしていないのに」

「今すぐ動けますか」

「足が」

「石丸さん」靈は石丸を見た。

 石丸がすぐに男性の隣にしゃがんだ。

「私が連れていきます。どこに」

「一先ず神社へ。先に応急手当てをして、病院に運びます」靈は答えた。「榊原さんが開けています」


 石丸が男性を支えて立たせた。

「では神社に連れていきます」石丸は靈を見た。「一人になりますが」

「大丈夫です」靈は答えた。「行ってください」

 石丸が男性を支えながら、路地を戻り始めた。

 靈は一人で、平穏が崩れる音が聞こえる方向に向かった。


 先程のグループと合流したであろう、荒れた外国人のグループが公園の駐車場に集まっていた。

 集団は叫び声をあげながら、歩道を歩く数人の日本人とみられる人たちに向かっていた。

 数人が長い棒のようなものを持っているように見える。

 靈はグループの前に出た。

 グループが靈を見た。

 目算二十名ほど。全員が二十代から三十代の男性だ。興奮状態にある。目が、話を聞く状態ではない。

 靈は木刀に手をかけた。抜かない。ただ、手をかけた。

「止まってください」靈は言った。

 グループが止まらなかった。先頭の男が靈の方に来た。

 靈は動かなかった。


 先頭の男が靈の前で止まった。靈の腰を見た。真剣と木刀を見た。

 日本語ではない言葉が出た。仲間に向けて言っているようだった。

 グループが少し止まった。

 靈は木刀から手を離した。構えない。ただ、そこにいる。

「あなたたちが怒っている理由は、何ですか」靈は言った。声を上げなかった。「いかなる理由であれ、ここには、あなたたちに怒りをぶつけられる理由のない人間が住んでいます」

 先頭の男が靈を見た。

 日本語がわかるかどうか、確認できない。

 靈は続けた。

「今夜、首相が連れ去られました。日本の政治が、混乱しています。あなたたちもその混乱の中にいます。ただ、ここには、混乱を作った人間はいないはずです」


 先頭の男が靈に何か言った。

 靈にはわからない言葉だった。

 ただ、その言葉の後、男が靈の腰の真剣を指差した。

 抜け、ということか。それとも、なぜ抜かないのか、という意味か。

 靈は左手を真剣の鞘に添えた。

 抜かない。ただ、添えた。

 持っていることを、示した。

 男が靈を見た。

 一秒。二秒。三秒。

 男が仲間に向かって何か言った。

 グループが、路地を引き返し始めた。

 全員ではなかった。三名が残った。ただ、先頭の男が戻った。それに続いて、残りの三名も、ゆっくりと動き始めた。


 グループが見えなくなってから、靈は手を真剣の鞘から離した。

 手のひらに、汗があった。

 今夜、鞘に手を添えた。抜かなかった。ただ、添えた。

 それが今夜の、靈の判断だった。

 雨森から連絡が来た。

「南部の状況を確認しています。今夜、複数の日本人が軽傷を負っています。一名が重傷で病院に搬送されました。放火が二件、器物破損が複数件。警察が動き始めましたが、まだ全体の把握ができていません」

「今いる路地は、止まりました」靈は返信した。

「神社に、傷ついた人間が来ています。榊原さんが対応しています。石丸さんが一名を連れてきました」

「今から合流します」


 八雲神社に着いたのは、夜の十時を過ぎていた。

 境内に、七名が座っていた。

 日本人が五名、外国人が二名。

 外国人の二名も、怪我をしていた。今夜の暴徒とは別の、逃げてきた人間だ。

 榊原が全員に、水を配っていた。雨森が隣でそれを手伝っていた。

 靈が境内に入ると、榊原が靈を見た。

「来てくれましたか」

「遅くなりました」

「全員、今夜ここに逃げ込んできた人間です」榊原は小声で言った。「日本人も、外国人も、同じ場所に座っています」


 靈は境内を見た。

 日本人と外国人が、同じ場所に座っている。今夜の暴力の中で、それぞれが神社に逃げ込んできた。

「大祓詞を唱えますか」靈は雨森に聞いた。

「唱えます」雨森は答えた。「今夜唱えないと、荒れたものが場に残ります」

 雨森が社殿の前に立った。

 白衣を着ていなかった。今夜は普段着で出てきた。ただ、大祓詞を唱えた。

 境内には、雨森のやり場のない感情に乗せて、祝詞が広がっていった。

 座っていた全員が、しばらく動かなかった。

 日本人も、外国人も、雨森の言葉を聞いていた。言葉の意味がわかる人間も、わからない人間も、その場にいた。


 大祓詞が終わった。

 境内に静けさが戻った。

 靈は社殿の前に立った。

 三礼をした。

 天への礼。地への礼。人への礼。

 礼をしながら、首の後ろをさらした。

 今夜、鞘に手を添えた。抜かなかった。

 それが今夜の判断だった。暴力に暴力で返さないことが正しい判断だと、どこか決めつけているような気もする。

 その度に、靈の心にどうしようもない不安がまとわりつくのを感じていた。

 ただ、今夜の川口で、神社に全員が来た。日本人も外国人も、傷ついた人間が同じ場所に逃げ込んだ。

 礼から戻した。


 石丸が靈の隣に来た。

「今夜、横にいられましたか」石丸は言った。

「横にいてくれました」靈は答えた。「男性を神社に連れてきてくれた」

「私が路地で一人になったとき、少し気が緩みました」石丸は続けた。「怪我した人間を支えながら歩いているとき、首の後ろを守る必要がなかった」

「誰かを支えるとき、守る力が別の方向に向かうということですか」

「そう思いました」石丸は少し間を置いた。「父が毎朝神社で頭を下げていたのは、一日の仕事を前に、守る力を一度緩めていたのかもしれない。今夜、それが少しわかりました」


 健一が境内に入ってきた。

「今夜の状況をまとめています」健一は靈と雨森に向かって言った。「首相の誘拐について、皇道護民連合が声明を出しました」

「内容は」

「首相を拘束した事実を認めています。ただし、殺害はしない、政治的交渉の道具として使う、という内容です」健一は続けた。「要求は三つです。海外支援の全資金の公開、関与した官僚・政治家全員の逮捕、自衛隊の即時中立化」

「自衛隊の中立化」靈は繰り返した。

「皇道護民連合は、政府がこれ以上民間の治安活動を妨害した場合、首相を移送すると言っています」


 境内が静かになった。

 座っていた全員が、健一の言葉を聞いていた。日本語がわかる人間だけだったが、その表情が変わったのを、外国人の二名も感じたようだった。

「今夜の川口のクルド人グループの動きは」雨森が聞いた。

「首相誘拐の速報が出た直後から始まっています」健一は答えた。「こちらに逃げ込んできた目撃者の証言によると、どうやら道端にごみを捨てていた移民の集まりを見かけた一般人が、外国人のマナーが悪いと注意しに行ったようで、そこから口論になり、激化して移民側が仲間を読んで暴れ出したようです」

「連動している可能性はあるのですか」靈は言った。

「関連性は低いと思います」健一は続けた。「ただ、皇道護民連合が首相を誘拐した。それと同時に、自警団だけでなく日ごろから移民たちの素行に対して不満を持っていた一般人たちまでもが、混乱に巻き込まれている。今夜の川口は、二つの力が同時に作用しています」


 靈は境内に座っている七名を見た。

 今夜、この場所に逃げ込んだ人間たちだ。

「今夜、ここに来た人間は、今夜ここにいてください」靈は全員に向かって言った。「外は、まだ状況が確認できていません。朝になってから、それぞれの判断で動いてください」

 誰かがうなずいた。外国人の一人が、隣の日本人に何か確認した。日本人が、うなずいて見せた。

 言葉が通じなくても、今夜同じ場所にいることで、何かが伝わっている。


 靈は社殿の前に一人で立った。

 板の間の隅の真剣が、今夜は腰にある。

 先程、鞘に手を添えた。抜かなかった。

 次に来る波は、今夜より難しいかもしれない。首相が誘拐されたことで、日本全体の均衡が崩れた。その余波が、生活圏に押し寄せる。

 話で止まるものと、話で止まらないものが、今夜より近い距離で来るかもしれない。

 靈は鞘に手を当てた。

 集団の前に立った時と同じように、添えた。抜かなかった。

 ただ、さっきより手に馴染む感覚があった。


 雨森が靈の隣に来た。

「今夜、神社に逃げ込んだ人間の中に、クルド人が一名います」雨森は小声で言った。「今夜暴れたグループとは別の人間です。近所のアパートに住んでいる家族だそうです。子供が怖がって泣いていたので、神社に来たと言っていました」

「日本人と同じ場所にいます」

「ええ」雨森は続けた。「今夜、この神社に来た理由が、日本人も外国人も同じです。怖かったから、来た」

「そうですね、あれだけ多くの人間が怒りを原動力に動いていたら、それは恐ろしいでしょう」靈は一瞬、集団が迫りくる圧を思い出し身震いした。

「礼をすることも、同じかもしれない」雨森は言った。「怖いから、首の後ろをさらす。今夜、ここに来た人間は、それをやっています。形は違いますが」


 夜が深まっていった。

 境内に座っている全員が、少しずつ落ち着いてきた。

 靈は鳥居の前に立った。

 鳥居の外は、川口の夜だ。どこかからまだ、サイレンの音が聞こえる。

 今夜の川口で起きたことを、靈は整理した。

 首相が誘拐された。クルド人グループが川口で暴れた。日本人と外国人が神社に逃げ込んだ。雨森が大祓詞を唱えた。石丸が怪我した男性を連れてきた。

 靈は話しかけた。グループが引き返した。鞘に手を添えた。抜かなかった。

 それが今夜だ。まるで荒波の中に放り出されたかのように、難題が押し寄せる。


 靈は鳥居に向かって一礼をした。

 礼から戻したとき、靈は全身がいつもより硬直しているのに気が付いた。

 硬かった。今夜は、緩まなかった。

 ただ、硬いまま、礼はできた。

 礼は、首の後ろが緩んでいなくてもできる。怖くても、さらすことができる。

 それが礼の意味だ、ときゃるんに言った。

 今夜、靈自身が確認した。

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