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壱億総抜刀  作者: るふな


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第50話 「均衡の崩れた朝」

夜明けの四時過ぎ、神社の境内で靈は眠らなかった。

 逃げ込んできた七名は、社務所と境内に分かれて横になっていた。雨森と榊原が交互に見回っていた。健一はスマートフォンで情報を追い続けていた。石丸は境内の端に座って、目を開けたままでいた。

 靈は鳥居の前に立ち続けた。

 サイレンの音が、夜が深まるにつれて増えていた。川口の別の場所で、今夜まだ何かが起きていた。

 夜明けが来る前に、健一が靈のそばに来た。

「最新の情報です」健一は声を落として言った。「首相の所在は、まだ確認されていません。政府は臨時で選出された与党第一党総裁が職務代行を開始しています。自衛隊が独自の判断で、主要な政府施設の警備を始めたという情報があります」

「自衛隊が独自に動いている」

「内閣の指示を待たずに、という意味です」健一は続けた。「皇道護民連合の要求の一つが自衛隊の中立化でした。それが逆効果になったのか、自衛隊内部の判断で動き始めています」

「川口は」

「昨夜の暴力で、負傷者の総数が確認できています。日本人側が十七名。外国人側が九名。いずれも軽傷から中程度です」健一は少し間を置いた。「ただ、今朝から新しい動きがあります」

「なんですか」

「自警団の一部が、武装を強化しているという報告です。昨夜の暴力を受けて、木刀や金属バットだけでなく、別のものを用意し始めているという情報が、複数のアカウントから出ています」


 朝が来た。

 境内に光が差してきた。逃げ込んでいた七名が、少しずつ目を覚ました。

 榊原が社殿に向かって礼をした。一人で、静かに、三礼をした。

 靈はその様子を見ていた。四十年以上、この場所で続けてきた礼だ。今朝も、変わらない。

 境内にいる全員が、少しずつ動き始めた。日本人と外国人が、昨夜と同じ場所で朝を迎えた。


 七名が神社を離れ始めた頃、石丸が靈のそばに来た。

「今朝、道場に行っていいですか」石丸は言った。「稽古をしたい」

 靈は少し止まった。

「今日は稽古の日ではありません」

「わかっています」石丸は続けた。「ただ、今日稽古をしたい。理由があります」

「理由を聞かせてください」

「昨夜、首が硬いまま動きました」石丸は言った。「硬いままでも動けることは確認しました。ただ、動いた後は、硬さが増しています。今朝の私は、昨夜より首の後ろ側が固まっています。稽古で礼をすることで、少し緩めたい」

「それが理由ですか」

「もう一つあります」石丸は靈を見た。「靈さんに、一つ聞きたいことがあります。稽古をしながら、聞きたい」


 道場に戻ったのは、朝の七時を過ぎていた。

 引き戸を開けると、若菜からメッセージが入っていた。

「師匠、今朝の状況を確認しました。昨夜は大丈夫でしたか」

「大丈夫でした」靈は返信した。「今日の稽古は、別の時間に変更します。石丸さんが来ています」

「わかりました。何かあれば連絡します」


 石丸が道場に入った。

 引き戸の前で礼をした。先週より、角度がわずかに深かった。昨夜の後でも、礼をしている。

「入ります」

「どうぞ」

 靴を揃えて板の間に上がった。二人で向かい合って立った。

「まず礼から始めます」靈は言った。「今日は、動作より意識を確認してください。昨夜の後、首の後ろがどこまで緩むかを見ます」

 石丸がうなずいた。

 二人で向かい合って礼をした。

 靈は石丸の背後を見た。

 昨夜より、明らかに硬かった。緊張が積み重なっている。

「どうですか」礼から戻してから、石丸は聞いた。

「昨夜より硬い。ただ、礼をした瞬間だけ、少し変わった気がします」

「変わりましたか」

「空気が変わりました。首をさらした瞬間だけ。今日は、その感覚だけを確認してください。何度も礼をして、毎回その瞬間を確認する」


 十回ほど礼を繰り返した。

 石丸の背後から少しずつ緊張が薄まっていった。完全には緩まない。ただ、礼をするたびに、わずかな変化がある。

「一つ聞いていいですか」石丸は礼から戻してから言った。

「なんですか」

「昨夜、私たちに止められないものが来たとき」石丸は靈を見た。「あなたは真剣を抜きますか」


 靈は少し間を置いた。

 若菜が持ってきた問いと、石丸の問いは似ているようで違う。若菜の問いは将来への問いだった。石丸の問いは、具体的な夜を想定している。

「昨夜は、抜きませんでした」靈は答えた。

「今夜も、抜かないと思いますか」

「わかりません」

「わからないとは」

「今夜何が来るかがわからない」靈は続けた。「昨夜の状況より難しいものが来れば、判断が変わるかもしれない。変わらないかもしれない。今の私には、どちらかを断言できません」

 石丸は少し考えた。

「断言できないということは、可能性があるということですか」

「あります」靈は答えた。「今夜止められないものが来て、誰かが死ぬ寸前になったとき、真剣を抜く可能性はあります」

「それを聞きたかった」石丸は言った。


「なぜですか」

「昨夜、靈さんが鞘に手を添えた場面を見ていました」石丸は続けた。「あの瞬間、集団が止まりました。靈さんが持っていることを示したから止まった」靈は頷いた。「ただ、もし示しても止まらないものが来たとき、私はどうすべきかを考えていました」

「どう考えましたか」

「私は、今日礼の稽古をしています。礼は、首をさらすことです。信頼の表明です」石丸は靈を見た。「靈さんが真剣を抜く瞬間が来たとき、私は礼ができる状態でいたい。硬いままでも、さらすことができる状態で、隣にいたい」

「礼ができる状態で、隣にいる」靈は確認する様に呟いた。

「靈さんが真剣を抜く理由は、守ることです。私が礼をする理由は、信頼を示すことです。どちらも、同じ方向を向いています」石丸は続けた。「今朝稽古をしたかったのは、その状態を確認するためです」


 靈はしばらく、石丸を見た。

 礼が体に入っていた人間が、向かっていった。きゃるんの話をするとき、靈はそう言った。

 石丸は今、礼を体に入れようとしている。入りかけている段階で、昨夜動いた。

 今朝、稽古を求めて来た。

「もう一度、礼をしてください」靈は言った。

 石丸が礼をした。

 靈は背後を見た。

 最初の礼より、緩んでいた。十回繰り返した後より、さらに緩んでいた。

 今の問いと答えを経た後の礼が、一番首の後ろを開いていた。

「今の礼が、今日一番緩んでいました」靈は言った。

「なぜですか」

「答えを持ったから、だと思います」靈は続けた。「守る理由が明確になると、守るための力を緩めることができる。理由がわからないまま守っていたときより、理由がわかってからの方が、力を緩めやすくなる」


 スマートフォンが鳴った。

 西川からだった。

「今朝の状況を報告します」西川の声に、一晩の疲れが混じっていた。「首相は生存が確認されました。場所は非公開ですが、皇道護民連合の管理下にあります。政府は身代金交渉ではなく、要求に応じない方針を固めています」

「要求を受け入れないということは」

「長期化する可能性があります。その間、政治的な空白が続きます」西川は続けた。「川口について、一点お伝えしたいことがあります。自警団の一部が、今朝から武装を強化しているという情報を、拝郷さんにも共有しておきます」

「木刀以上のものを、ということですか」

「確認中ですが、その可能性があります。昨夜の暴力を受けて、次は自分たちが先手を取るという発想が生まれています。今夜以降、川口が昨夜より激化する可能性があります」


 電話を切って、靈は石丸を見た。

「聞いていましたか」

「聞いていました」石丸は言った。「武装の強化、ということは、私が知っている人間の中にも、そういう判断をしている者がいるかもしれません」

「止めることができますか」

「話せる人間には、話します」石丸は続けた。「ただ、昨夜の後では、話を聞かない人間が増えています。きゃるんさんが死んで、昨夜の暴力があって、その後に武装を強化することが間違いだと、今の状態の人間に言葉で届けるのは難しい」

「届かない可能性がありますね」

「はい、あります」石丸の語気は確信を持っていた。


 雨森から連絡が来た。

「今朝の川口の状況を確認しています。武装強化の情報は、私も把握しました。今日の対話の場は、開けるかどうかを判断する必要があります」

「開けると思いますか」

「難しいです」雨森は答えた。「ただ、神社は開けます。対話の場として機能するかどうかは、今日来る人間が決めることです。私たちが閉じる理由はない」

「榊原さんは」

「今朝すでに境内を掃いていました。何も言わずに、掃いていた」

 靈は少し止まった。

「境内を掃く榊原さんの話を、三田先生に伝えたいと思います」靈は雨森に言った。「今日の夜、倉敷さんに連絡を入れていいですか」

「もちろんです。三田先生が来られれば、今夜の場が変わるかもしれません」


 雨森との電話を切って、靈は石丸に向いた。

「今夜、神社で場を開きます。来られますか」

「行きます」石丸は即座に答えた。「今夜、父の話をもう一度しようと思っています。前回と同じ話ではなく、別の部分を話します」

「どういう部分ですか」

「父が、外国人の仲間の一人と喧嘩したことがありました」石丸は続けた。「工場の中で、大きな喧嘩をした。それでも次の日、二人は並んで働いていた。父は、その話を一度だけ私にしました。喧嘩するほど近くにいたということだ、と言っていた」

「それを今夜話すんですか」

「武装を強化しようとしている人間に、その話が届くかどうかはわかりません」石丸は言った。「ただ、今夜話さなければならない気がします」


 石丸が帰った後、靈は板の間に一人で立った。

 壁の木刀を見た。一本だけある。

 腰の真剣を確認した。

 今日、石丸に聞かれた。今夜止められないものが来たとき、真剣を抜くかと。

 答えた。可能性がある、と。

 その答えを出した後、石丸の礼が一番緩んだ。

 答えを持つことで、守る力が緩む。

 靈は真剣の鞘に手を添えた。

 腰にある真剣を、板の間の隅に戻した。

 今日は、持ち歩かない。今夜、また持って出るかどうかは、夜になってから判断する。


 倉敷に電話した。

「今夜、川口に来られますか。三田先生を連れてきてもらえれば」

「先生は今朝から、川口に行くと言っています」倉敷は言った。「私が止めようとしましたが、聞きませんでした。昨夜の速報を見てから、川口に行くと決めたようです」

「理由を言っていましたか」

「一つだけ」倉敷は続けた。「境内を掃いている人間がいる限り、その場所は閉じていない、と言っていました」

 靈は少し止まった。

「三田先生が、榊原さんのことを」

「会ったことはないはずです。ただ、拝郷さんから話を聞いたことがあったのでしょう」倉敷は続けた。「今夜、連れていきます」


 型を始めた。

 今日は長くやった。朝の型と、昼前の型を続けて通した。

 型をやりながら、今日起きたことを整理した。

 首相の生存確認。政府の交渉拒否。自衛隊の独自行動。川口の武装強化。石丸の問いと答え。石丸の礼の変化。三田が川口に来ること。

 全部が、今夜の神社の場に向かっていく。

 型を終えた。

 木刀を壁に戻し、板の間に正座した。

 道場にゆっくりと頭を下げる。


 窓の外には、工場の大型トラックが忙しなく走っていた。

 首相がいない。政治的空白が続いている。自衛隊が動き始めた。川口の自警団が武装を強化している。

 靈には、全部を止める力はない。

 ただ、今夜の神社の場に行くことができる。石丸が隣に立つ。三田が来る。雨森が大祓詞を唱える。榊原が境内を掃いている。

 その場にいることが、今日靈にできることだ。

 靈は立ち上がって、真剣を腰に戻した。

 今夜、持って行く。

 抜くかどうかは、今夜の場が決める。

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