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壱億総抜刀  作者: るふな


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第51話 「鞘を離れた刃」

神社に向かう路地で、靈は立ち止まった。

 角を曲がったところで、声が聞こえた。複数の声が、ひとつの方向に集まっている。

 靈は歩みを速めた。


 路地の奥に、人の塊が見えた。

 七、八名の男たちが、壁際に向かって詰めていた。

 壁際に、雨森がいた。

 膝をついている。その後頭部に、男の手が伸びていた。

 男が持っているものを、靈は一瞬で認識した。

 猟銃だった。


 靈が自分の體が動いていると知覚したのは、走り出した後だった。

 思考は置き去りにされていた。

 滑り出す様に足が自然と前進する。路地を、音を立てずに。摺り足ではない。ただ、重心を低く保って、走った。

 零の型の最初の動作。相手の世界の外側に出る。

 男がまだ靈に気づいていなかった。

 靈が男の背後二歩のところに音もなく現れる。

 左手が鞘を捉え、右手が柄の上を走る。

 抜いた。


 刃が、男の右手首の内側を薄く掠めた。

 猟銃が地面に落ちる間の刹那、漸く状況の理解が追いつく。

 金属がアスファルトに衝突する音が、殺伐とした空気を破る。

 手を押さえながら男が振り返ると、靈が立ちはだかっている。

 刃が、月明かりを受け妖光を反射していた。

 男が金切声を上げた。日本語ではない言葉だった。

 別の男が、ポケットからナイフを出した。

 靈は振り返らなかった。

 刃を正面に向けたまま、ゆらりと上体を直す。

 靈の鋭い眼光が男を突き刺し、時が止まったかの様な沈黙の中、ゆっくりと流れる様に、刃は上段へと運ばれる。


 ナイフを持った男が、靈を見た。

 靈は動かなかった。

 一秒。

 二秒。

 男の目が游ぐ。靈の刃、刃の長さ、靈の立ち方、構えていること、隙がないこと、視線が映されるたびに表情に焦りの色が浮かび上がってくる。

 三秒。

 男がナイフを持ったまま仲間に話しかける。

 声色には緊張が滲んでいる。

 ゴニョゴニョと意味のわからない言語で会話が繋がれた後、グループが路地の奥に向かって歩き始めた。

 微動だにしない靈を見ながら集まっていた集団が散ってゆく。全員が、一分もしないうちに見えなくなった。


 靈は刃を収めた。

 手の汗がじっとりと柄に絡む。

 雨森は立ち上がれない。膝から全身が震えていた。壁に手をついて、体を支えている。

「大丈夫ですか」靈は雨森に近づいた。

「いえ…あ…はい、大丈夫です」雨森の声が、かすれていた。「後ろから…」

「大事に至る前で本当に良かった」靈が漏らした言葉は本心であるが、雨森を安心させるために発せられた言葉だった。

意味の理解は後から追いついた。

 雨森がゆっくりと息を吐いた。

「猟銃は」

「そこにあります」靈は言葉で指を刺した。「自警団から奪われたものだと思います。今夜、武装強化の話が出ていました」

「武装した自警団が猟銃を持っていた、ということは」雨森は壁から手を離した。「もう制御できない段階に入っています」


 猟銃は靈が持った。

 神社に向かった。二人で路地を歩いた。雨森はまだ時折ふらつく。靈は隣に並んで歩いた。

「少しは落ち着きましたか」靈はかける言葉を見失っていた。大丈夫なはずがない。それだけは靈の感覚が告げていた。

「わかりません」雨森はしばらく間を置いた。「頭の後ろに銃口が当たっていた冷たい感覚が、まだあります。それ以外は、まだ整理できていません」

「とても恐ろしかったでしょう。私も同じ状況ならまともに動ける自信がありません」

「怖かった、という言葉が出てきません」雨森は弱々しく続けた。「怖い、というより、現実だと思えなかった。叢雲で治安維持に奔走し、神職としても、礼をして、大祓詞を唱えてきた。それが今夜、猟銃を後頭部に突きつけられる場所に繋がっていた」

「どこかで他人事だと思っていた」

 靈が独り言のように漏らした時、雨森は少し立ち止まった。

「そうかもしれません」雨森は静かに溢した。「最悪の事態を、頭では考えていました。ただ、本当に起きるとは、思っていなかった部分がありました」


 神社の鳥居が見えてきた。

 靈は鳥居の前で止まった。

 礼をしようとして、右手に猟銃があることに気づいた。

 猟銃を左手に持ち替えた。

 重心が左に偏る礼をした。

 いつもと違う礼。意識してゆっくりと首をさらす。

 その礼が、今夜どういう意味を持つのか、靈にはまだわからなかった。


 境内に入ると、榊原と健一がいた。

 二人が靈と雨森を見る。猟銃に目が落ちた瞬間に喫驚する。

 榊原が焦りの色を隠せず靈のそばに寄る。

「一体どうしたのですか」

「雨森さんが、移民グループに囲まれていました」靈は答えた。「猟銃を後頭部に突きつけられていた」

「雨森さんは怪我は」

「ありません」

 榊原が雨森を見た。雨森が小さく頭を下げた。

「大丈夫です、外傷は。ただ、今夜は社殿の前で少し、座っていていいですか」

「どうぞ」


 雨森が社殿の前に座った。

 靈は社殿の横に猟銃を置いた。警察に届ける必要がある。ただし、今夜はまだ警察が動ける状態かどうかわからない。

 靈は雨森の隣に腰を下ろす。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 境内に、いつもよりざわついた夜の音が入ってきた。どこかでまだサイレンが鳴っている。

「刃を抜いたとき、何を考えていましたか」雨森が聞いた。

「考えていませんでした」靈は正直に言った。「體が動いていました」

「考えなかった」

「気づいたら、抜いていました」靈は遠い過去を振り返る様な感覚で、言葉を探す。「走りながら、鞘から抜いていました。どこかで決断した記憶がない」

「それは…一体…」


 靈は少し考えた。

「石丸さんが今朝、言っていました」靈は続けた。「守る理由が明確になると、守る力を緩めることができる、と。今夜の場面で、私の中で守る理由がはっきりしていた」

「私を守る、という理由ですか」

「それだけではないかもしれません」靈は社殿を見た。「雨森さんが守ってきたものを守る、という感覚があったかもしれない。廃社になった神社の代わりに叢雲に入って、叢雲を出て、ここで神職として大祓詞を唱えてきた。その全部を、今夜一瞬で失う可能性があった」

「私個人だけでなく」

「あなたが続けてきた形が、失われる可能性がありました」靈は続けた。「榊原さんが四十年張り替えてきた縄と、同じ種類のものです。形が失われることへの反応として、体が動いたのかもしれない」


「大和魂とは、物事の道理を知り、その場に応じた判断をする感性、という意味だと伺いました」

「今夜の拝郷さんの判断は、普段の判断とはまた別のものだったかも知れません」雨森も状況を表す適切な言葉を探している様に見えた。「考えなかった。ただ、体が動いた。それは、感性が先に来た、ということですか」

「そうかもしれません」靈は力無く答えた。「ただ、感性が先に来るためには、それまでの積み重ねが必要です。礼を続けてきたこと、型を続けてきたこと、話しかけ続けてきたこと。それが今夜の体の動きの前にあった」

「形の積み重ねが、感性を作る」

「その意味では、大和魂は、持って生まれるものではなく、積み重ねることで、體に入っていくものかも知れません」靈は自らが発した言葉を噛み締めた。


 雨森がしばらく黙っていた。

 社殿の向こうに、見知った地域なのに初めて見る遠い夜空が広がっていた。

「一つ、告白があります」雨森は言った。

「なんですか」

「今夜、路地で囲まれたとき、逃げることを考えませんでした」雨森は続けた。「諦めていた部分があります。猟銃を後頭部に当てられたとき、これで終わりかもしれない、と思いました」

「諦め…」

「廃社になった神社を守れなかった。叢雲を出た。ここで神職として動いてきた。それが今夜終わるなら、仕方ないという感覚があった」雨森の声が、普段より低かった。「ただ、刃が飛んできたとき、終わりませんでした」

「それが、今夜の事実です」

「終わらなかったことで、続きがあります」雨森は不意に遠くを見つめる。「続きがあるということは、まだやることがある、ということです。今夜、それを知りました」


 石丸が境内に入ってきた。

 靈と雨森を見た。猟銃が目に飛び込む。

 石丸が靈のそばに駆け寄る。

「何があったんですか」

 靈は簡潔に説明した。路地での状況。猟銃。刃を抜いたこと。グループが去ったこと。

 石丸はしばらく黙っていた。

「刃を抜いたんですか」石丸は靈を見た。

「抜きました」

「やむを得なかったんですね」

「思考が追いつかなかった。やるべき事は體が覚えていた、という感覚です」靈は答えた。「考える前に、体が知っていることが出てきた」

 石丸は少し間を置いた。

「今朝の稽古で、答えを持つことで礼が緩むと言いました」石丸は続けた。「今夜の拝郷さんは、答えを持って動いた。だから、考えなくても体が動いた」

「そうかもしれません」

「私も、今夜それに近いことがありました」石丸は言った。「路地で男性を支えていたとき、考えなかった。ただ、支えていた」


 倉敷から連絡が来た。

「今夜、川口に来られません」倉敷の声に、珍しく焦りがあった。「三田先生が、今夜は来られない状況になりました」

「何かありましたか」

「先生の体調が、急に悪化しました。今夜は安静にしています」倉敷は矢継ぎ早に言葉を重ねる。「申し訳ありません。先生は、川口に来たかったと言っていました。ただ、医師に止められました」

「三田先生によろしく伝えてください」靈は言った。「今夜ここで起きたことを、後で伝えます」

「わかりました。先生は、境内を掃いている人間がいる限り、その場所は閉じていないと言っていました。その言葉を、今夜の場に届けてください」


 靈は電話を切って、榊原を見た。

「三田先生が、榊原さんに言葉を送ってくれました」

「なんと言っていましたか」

「境内を掃いている人間がいる限り、その場所は閉じていない、と」

 榊原はしばらく、社殿を見ていた。

「わしは、毎朝掃いているだけです」榊原はゆっくりと呟く。「特別なことをしているつもりはなかった」

「続けることが、特別なことになります」靈は自分自身に確認する様に、その言葉を選んだ。「四十年、縄を張り替えてきたことが、今日の神社を作っています。毎朝掃くことが、今夜逃げ込んでくる人間が来る場所を作っています」

「三田先生は、それを見ていてくれたんですね」榊原の目が、少し赤くなった。「会ったこともない人間が」

「形は、見えない場所にも届きます」靈は答えた。「あなたが続けてきた形が、さいたまにいる三田先生に届いていた」


 場が始まった。

 今夜の参加者は、前回より少なかった。昨夜の暴力の後で、来られなかった人間がいた。

 ただ、武装を強化しようとしていた自警団の男が一人、来ていた。石丸が連絡していたらしかった。

 石丸が父の話をした。

 工場で喧嘩をした外国人の仲間の話。次の日、並んで働いていた話。喧嘩するほど近くにいたということだ、という父の言葉。

 武装を強化しようとしていた男が、その話を聞いていた。

 靈は壁際から見ていた。

 男の顔が、話を聞きながら変わっていった。固かった表情が、少しずつ別のものに変わった。


 場が終わった後、男が石丸のそばに来た。

「石丸さんの父親の話は、本当ですか」男は言った。

「本当です」石丸は答えた。

「今夜、持ってこようとしていた武器を、持ってきませんでした」男は続けた。「来る前に、やめました」

「なぜですか」

「昨日の夜、神社に逃げ込んだと聞きました。外国人も日本人も、同じ場所に逃げ込んだ、と。それを聞いて、今夜どうすればいいかわからなくなった」

 石丸は男を見た。

「わからなくなったから、確かめるために来た、ということでしょうか」

「はい」男は視線を落とし、何かを探るように言葉を紡いだ。「来て、あなたの父親の話を聞いた。まだ、わかりません。ただ、今夜は持ってこなかった」

「今夜は、それで十分です」石丸は言った。


 場が終わって、全員が帰った後、靈と雨森と石丸が境内に残った。

 榊原が社殿に向かって三礼をした。

 靈も三礼をした。

 今夜、刃を抜いた。雨森の後頭部から猟銃を弾き飛ばし、移民に真剣を向け追い払い、神社に来た。大祓詞は今夜、誰も唱えなかった。ただ、場が開かれた。武装を諦めた男がその場にいた。

 礼から戻した。


「一つ、靈さんに聞いてもいいですか」雨森が靈のそばに来た。

「なんですか」

「今夜、刃を抜く前と抜いた後で、何かが変わりましたか。自分の中で」

 靈は少し考えた。

「変わったかどうかは、まだわかりません」靈は答えた。「ただ、一つだけ確認できたことがあります」

「なんですか」

「抜いたことへの後悔が、今のところありません」靈は続けた。「抜かなければよかったとも、抜かなければならなかったとも、まだ思っていない。ただ、その場で體が動いたことが、今夜の事実として残っています」

「後悔がないことが、答えですか」

「それは…多分答えではありません」靈の顔に迷いが浮かぶ。「ただ、今夜の判断が正しかったかどうかは、今夜ではわからない。時間をかけて確認するものだと思っています」


「大和魂は、積み重ねで体に入る、と言いました」雨森は続けた。「今夜の拝郷さんの動きは、積み重ねの結果でしたか」

「そうだとしたら、怖い部分があります」

「怖い、とはどういう意味ですか」

「積み重ねが、考えなくても動ける状態を作る。それは、正しい方向への積み重ねであれば、正しい動きになる。ただ、間違った方向への積み重ねなら、間違った動きが考えなくても出てきます」

「今夜の拝郷さんの積み重ねは、どちらでしたか」

「わかりません」靈は正直に応える。「自分の積み重ねを、自分では判断できない。それが今夜、改めて確認できたことです」


 雨森が少し間を置いた。

「拝郷さんの積み重ねを、隣で見てきました」雨森は言った。「判断できる立場にないかもしれません。ただ、見てきた一人として、言わせてください」

「どうぞ」

「今夜の動きは、正しい方向への積み重ねだったと思います」雨森は続けた。「守ることを、怒りではなく理由として持ってきた積み重ねです。礼を続けてきた。話しかけ続けてきた。石丸さんに判断を共有した。若菜さんから問いを受け取った。きゃるんさんを弔った。その全部が、今夜の体の動きの前にあった」

「あなたがそう言うなら、信じます」靈は言った。「ただ、自分で判断しないことにします。それが、間違えないための一つの方法だと思っています」


 石丸が靈のそばに来た。

「今夜の話を、まとめさせてください。靈さんが刃を抜いた。雨森さんが助かった。武装を強化しようとしていた男が、今夜は持ってこなかった。三田先生は来られなかったが、言葉が届いた」

「そうです」

「全部が繋がっています」石丸は続けた。「靈さんが刃を抜いたことと、武装を強化しようとしていた男が諦めたことが、同じ夜に起きました。刃を持つ人間が守るために動いたことと、刃を諦めた人間が出てきたことが、同じ夜に存在しました」

 靈は石丸を見た。

「あなたは、それをどう見ていますか」

「わかりません」石丸は正直に答える。「ただ、今夜が、すべて悪い方向に向かっていたわけではないと思っています。父が喧嘩した後も、次の日並んで働いていたように、今夜の後にも、次の日が来ます」


 榊原が境内の端で箒を手に取った。

 夜の境内を、掃き始めた。

 暗い中で、境内を掃いている。

 靈はその様子を見た。

 三田が言っていた言葉を、靈は思い出した。境内を掃いている人間がいる限り、その場所は閉じていない。

 今夜、刃を抜いた。

 ただ、境内を掃いている人間がいる。


 靈は社殿の前に立った。

 ゆっくりと一回頭を下げた。

 今夜の情景が走馬灯のように頭をよぎる。

 礼から戻し、思い浮かんでは消えていく情景をただ、感じていた。

 今夜、刃を抜いた後で、礼をすることができた。

 刃を抜いたことと、礼をすることが、同じ夜に一人の人間の中にある。

 夜靈の中には葛藤の段階を過ぎた、言葉にできない納得のような感覚が沸き上がった。


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