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壱億総抜刀  作者: るふな


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第52話 「刃の後」

 夜明け前、靈は道場に戻った。

 板の間に入って、真剣を腰から外した。

 鞘のまま、板の間の中央に置いた。

 明かりをつけずに、暗い板の間に座った。

 猟銃は神社に置いてきた。警察への届け出は、今朝雨森が行う。

 刃を抜いた。

 その事実が、板の間の暗がりの中に、靈と並んで座っている気がした。


 靈は目を閉じた。

 今夜起きたことを、ゆっくりと思い返す。

 路地で声を聞いた。雨森が囲まれていた。猟銃が後頭部に当たっていた。體が動いた。刃を抜いた。男の手首を掠めた。猟銃が落ちた。集団が引いた。

 考えていなかった。

 走りながら、鞘から抜いていた。どこかで決断した記憶がない。體が知っていることが、出てきた。

 それが今夜の事実だ。


 目を開けた。

 板の間の中央に、真剣が横に置かれている。

 靈はその鞘を手に取った。

 引き抜いた。

 刃が出た。

 月の光が格子窓から入って、刃文を照らした。

 今夜初めて、明かりの中でこの刃を見た。今夜、この刃が雨森の命を繋いだ可能性がある。

 刃を見ながら、靈は確認した。

 怒りはなかった。興奮もなかった。ただ、重さがあった。

 抜いたことの重さだ。


 刃を収めた。

 親父の本棚から一冊を引き出した。武道と礼の本義、という昭和期の本だ。

 以前、「使えない人間が使わないことと、使える人間が使わないことは別のことだ」という考えが書かれていた章を読んだ。

 今夜は別の章を開いた。

 「刃を一度抜いた者は、二度目の判断が早くなる。それは技術として正しく、精神として危うい。刃を抜くたびに、その判断の重さが軽くなっていかないよう、抜いた後こそ礼を深くせよ」

 靈は一度、本を閉じた。

 刃を抜くたびに、判断の重さが軽くなっていく。

 その警告は、今夜の靈にとって必要な言葉だった。


 板の間の中央に正座した。

 真剣を膝の前に置いた。

 今夜抜いたことを、もう一度確認した。

 守る理由があった。雨森が死ぬかもしれなかった。間に合った。刃を使った。集団が引いた。

 ここまでは、確認できる。

 次の問いがある。

 今夜の判断が正しかったかどうかを、誰が確認するか。

 靈一人では、確認できない。石丸が言っていた。雨森が言っていた。ただ、二人とも今夜の当事者だ。

 外から見ていた人間が必要だ。


 倉敷に連絡した。

 返事は翌日でいいと送ったら、数刻もしないうちに、靈の携帯が板の間の床を揺らす。

 夜明け前だったが、倉敷は起きていたのだ。

「三田先生の体調は」靈は聞いた。

「少し落ち着いています。今朝は眠れていると思います」倉敷は答えた。「ただ、靈さんから連絡が来たということは、今夜何かがありましたか」

「ありました」靈は続けた。「刃を抜きました」

 電話口が静寂に包まれる。

「雨森さんが囲まれていました。猟銃を後頭部に当てられていた。體が動いて、抜いていました」

「雨森さんは無事ですか」

「外傷はありません」

 また沈黙があった。

「刃を抜いた後、どうですか」倉敷は聞いた。

「判断の重さが、今夜と同じ重さのまま残っているかどうかを、確認したいと思っています」靈は正直に言った。「一人では確認できない」


「三田先生に話してみます」倉敷は続けた。「先生が話せる状態になったら、電話させます。先生は、今夜川口に来られなかったことを、悔やんでいると思います」

「今夜起きたことを、先生に伝えてほしい」靈の語気に力がこもる「刃を抜いたことだけでなく、武装を諦めた男が来たことも。雨森さんの言葉も。石丸さんの言葉も。全部」

「伝えます」

「倉敷さんに、一つ聞いてもいいですか」

「なんですか」

「あなたは今夜の話を聞いて、刃を抜いたことをどう思いますか。当事者ではない立場として」

 倉敷は少し間を置いた。

「私には、判断する立場にありません」倉敷は言った。「ただ、一つだけ言えます。あなたが今夜、抜いたことへの確認を求めて電話してきた。それは、抜いた後でも、問いを抱え続けているということです。それは、正しい方向だと思います」


 電話を切った。

 夜明けが近づき、格子窓から、空が少し白んでいるのが見える。

 靈は真剣を元の場所に戻した。

 板の間に正座して、道場に一礼をした。

 今夜初めて、礼が完全に緩んだ気がした。


 若菜からメッセージが来た。

 時刻は、夜明けの五時だった。

「師匠、昨夜は大丈夫でしたか。今朝のニュースを見て、状況を確認しようとしていました」

「大丈夫です」靈は返信した。「今朝の稽古は予定通りです。来られますか」

「行きます」しばらくして返信が来た。「師匠、一つ聞いていいですか。昨夜、何かありましたか」

「稽古のときに話します」

「わかりました」


 若菜が来たのは、午前十時だった。

 引き戸の前で一礼をしてから入ってきた。若菜の礼はいつの間にか板についていた様に見える。

 靴を揃えた。きゃるんの木刀を脇に抱えていた。

 靈は奥の間に通し、向かい合って座るように促す。

「昨夜、刃を抜きました」靈は言った。

 若菜が靈を見た。

「雨森さんが囲まれていました。猟銃を後頭部に当てられていた。體が動いていました。考える前に、抜いていました」

 若菜はしばらく、湯呑みを持ったまま動かなかった。

「雨森さんは」

「無事です」

「師匠は」

「こうして話しています」

「刃を抜いたことについて、どう思っていますか」若菜は靈を見た。直接的な問いだった。


「判断の重さが変わっていないかを、確認し続けたいと思っています」靈は答えた。「一度抜くと、次の判断が軽くなる可能性があります。それを防ぐために、抜いた後こそ礼を深くせよ、という言葉を今朝読みました」

「礼を深くする、というのは」

「礼の意味を、形式ではなく體で確認し続けることです」

「抜いたことへの後悔は」

「今のところありません」靈は答えた。「後悔がないからといって、それが正しかったかは分かりません」

「それを確認する方法は」

「時間をかけることです」靈は続けた。「今夜の判断が正しかったかどうかは、今夜だけでは確認できません。その後に何が来るかを見て、判断が正しい方向への一歩だったかどうかが見えてきます」


 若菜は少し考えた。

「師匠が、刃を抜く可能性があると言っていたとき、私は怖かったです」若菜は言った。「ただ、今日師匠と話して、怖さの種類が変わりました」

「どう変わりましたか」

「抜くかもしれないことが怖かった。今は、抜いた後に判断の重さが変わっていくことが怖い」若菜は続けた。「師匠が、その怖さを体感した。それを聞いて、今日の稽古で私も礼をしっかりやりたいと思っています」

「やりましょう」靈は言った。


 二人で板の間の中央に立つ。

 向かい合って、礼をした。

 礼から戻して、ゆっくりと若菜の顔を覗く。

「どうでしたか」

「今日は、少し違いました」若菜は芯の通った声で続けた。「師匠が昨夜抜いたと聞いた後で礼をしたから、首をさらすことの意味が、いつもより具体的でした」

「具体的とは」

「急所をさらすことが、今日は抽象的な意味じゃなかった」若菜は続けた。「昨夜、猟銃を後頭部に当てられた人がいた。それが急所だということを、今日の礼で改めて確認しました」


 稽古を続けた。

 素振りを三種類通した。若菜の動きが、今日は少し変わっていた。終わりの形が安定している。始まりと終わりを決めてから動くことが、体に入ってきていた。

「今日、一つ新しいことを教えます」靈は言った。

「なんですか」

「前回の間合いの話で、決断の間合いを話しました。今日は、その続きです」

「続き、というのは」

「間合いには、もう一つあります」靈は続けた。「収める間合いです」

「収める、というのは」

「刃を抜いた後、収めるまでの間合いです。刃を出したまま、いつまでもいることはできない。収めるべき距離と時間がある。昨夜、私はそれを実際にやりました。グループが引いた後、刃を収めました。そこまでが、一つの間合いです」


「抜くことと、収めることが、両方できて初めて完結するということですか」若菜は言った。

「そうです」靈は答えた。「抜くことだけを考えていると、収めることが遅れます。収めることが遅れると、場の空気が変わります。怖さが長く続く。怖さが長く続くと、怒りに変わります」

「抜いたまま怒りに変わることを、防ぐために収める」

「早く収めることが、刃を抜いた後の礼です」靈は続けた。「昨夜、刃を収めた後に神社に行きました。そこで礼をしました。その順番が、今後の判断の重さを保つことに繋がっていたかもしれない」

「礼が、刃を使った後の形になる」若菜は少し考えた。「きゃるんさんが礼を続けていたから、向かっていくことができた。師匠が刃を抜いた後も礼をした。礼が、動くことの前にも後にもある」

「そういうことかもしれません」靈は答えた。


 稽古が終わって、二人で奥の間に座った。

 靈が茶を淹れた。

「一つ確認していいですか」若菜は言った。

「なんですか」

「私がいつか、きゃるんの木刀を使わなくなる日が来ますか」

 靈は少し止まった。

「どういう意味ですか」

「師匠の木刀を使う日が来ますか、という意味です」若菜は続けた。「きゃるんの木刀は、きゃるんの体格に合わせた短いものです。私には少し短い。稽古を続けていくと、いつか自分に合った木刀が必要になる日が来ると思います。ただ、きゃるんの木刀を手放すことが、正しいかどうかわからない」

「手放すことと、別の木刀を持つことは、別のことです」靈は答えた。「きゃるんの木刀は、道場に残ります。別の木刀を持ちながら、きゃるんの木刀もここにある。それでいいと思います」

「いつですか」

「あなたが決めることです」靈は続けた。「ただ、目安があります。きゃるんの木刀を使いながら、自分の動きに合わないと感じる場面が増えてきたとき。それが、別の木刀を考える時期です」


 若菜が帰り際、きゃるんの木刀を壁に戻した。

「今日も、師匠の刃の話を聞きました」若菜は引き戸の前で振り返った。「来週も来ます」

「待っています」

「師匠」若菜は少し考えてから言った。「刃を抜いたことへの後悔がない、と言いました。後悔がないことが、正しかったことの証拠にはならないとも言いました。ただ、一つだけ言えることがあります」

「なんですか」

「今日、師匠と話せてよかったです。昨夜のことを、話してくれてよかった」若菜は一礼をした。「それが、判断の重さを保つ方法の一つだと思います。話すことで、一人で抱えなくなる」

 引き戸が閉まった。


 靈は一人、板の間に立った。

 今日、若菜に話した。倉敷に電話した。

 石丸が昨夜、隣にいた。雨森が今朝、警察への届け出に行った。

 判断を、一人で抱えていない。

 真剣に目を落とすと、元の場所に戻っている。

 今後、この刃をまた持って出るかどうかは、今夜決める。

 ただ、今日わかったことがある。

 刃を抜いた後の礼が、今朝一番緩んでいた。それは、抜いた後でも礼ができるということだ。

 礼ができる状態が、靈の基準だ。礼ができなくなるほど判断が歪んでいないかを、礼で確認する。


 型を始めた。

 今日は長くやった。朝の型の後に、若菜の稽古があって、また型をやる。

 體が疲れている。ただ、疲れた状態で型をやることにも意味がある。疲れているとき、體の癖が出やすい。今日どういう癖が出るかを確認しながら動いた。

 型を終えた。

 木刀を壁に戻し、板の間に正座する。

 深い一礼をした。

 昨夜より、今朝より、今の礼が一番緩んでいた。

 一日かけて、少しずつ緩んでいた。

 靈の胸の内には、安堵にも似た感情と、一種の喪失感の様なものが混在していた。

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