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壱億総抜刀  作者: るふな


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第53話 「師の言葉、弟子へ渡る」

倉敷から電話が来たのは、翌日の昼前だった。

 靈が石丸の礼の稽古を終えて、板の間の中央で型を確認していたときだった。

「三田先生が、話せる状態になりました」倉敷の声に、昨日とは違う明るさがあった。ただ、その明るさの下に、何か気がかりなものが混じっていた。「ただし、長くは話せません。先生が、拝郷さんと直接話したいと言っています」

「電話を代わってもらえますか」

 短い間があって、別の声が来た。


 三田の声は、前回会ったときより細かった。

 ただ、言葉は明確だった。

「倉敷から、全部聞きました」三田は言った。「刃を抜いたこと。雨森さんが助かったこと。武装を諦めた男が対話の場に来たこと。榊原さんが夜の境内を掃いていたこと」

「先生のお体は」靈は聞いた。

「昨日より楽です。ただ、そこに行けなかったことが、悔しい」短い咳が来た。「ただ、来られなかったから、外から見ることができました。それが今日、あなたに伝えたいことに繋がっています」


「刃を抜いた後、何を確認しましたか」三田は聞いた。

「判断の重さが変わっていないかを、確認しようとしています」

「礼が緩んでいるかどうかで、確認しています」

「聞いています」三田は続けた。「それは正しい確認の仕方です。ただ、もう一つ確認すべきことがあります。あなたは気づいていますか」

「何ですか」

三田が一呼吸おいた。

「弟子です」


 靈の背筋に、焦燥が走った。

「弟子、というのは」

「若菜さんです」三田は続けた。「あなたが刃を抜いたとき、若菜さんはどこにいましたか」

「家の中にいてもらいました。外に出ないように言っていた」

「次に刃を抜く夜が来たとき、若菜さんはどこにいると思いますか」

 靈は返答できなかった。

「弟子は師匠の背中を見ます」三田は声を低くした。「あなたが刃を抜いた。若菜さんはその事実を知りました。次の夜、同じような場面が来たとき、若菜さんが同じことをしようとするかもしれない。きゃるんさんが向かっていったように」


 路地の端で蹲っていた男が頭に浮かんだ。きゃるんが工場跡地で鉄パイプを拾った夜が重なった。

「師匠が刃を抜く前に、弟子が動く可能性があります」三田は続けた。「きゃるんさんのときと同じ構図が、若菜さんに繰り返されないために、今あなたがやるべきことがあります」

「なんですか」

「若菜さんに、刃を持つことを教えてください」

 靈は立ったまま、視線を板の間の隅の真剣に落とした。

「先に教えることで、勝手に動くことを防ぐということですか」

「違います」三田の声に、教師としての強さが出てきた。「教えることで、持つ理由を渡すのです。理由を持たない人間が刃を持てば、怒りで動きます。理由を渡した人間が刃を持てば、理由で動きます」


「ただし」三田は続けた。「教えるのは抜き方ではありません」

「では、何を教えるんですか」

「抜く理由を教えるのです」三田の声が、少し穏やかになった。「あなたが昨夜抜いたのは、なぜでしたか」

「守るためです。雨森さんを守るために、体が動きました」

「その理由を、若菜さんに渡してください」三田は続けた。「礼を教えてきた。立ち方を教えてきた。素振りを教えてきた。次に教えることは、刃を持つ理由です。理由が体に入った後で、初めて刃を持たせる」

「理由が先で、刃は後から来る」

「そうです」三田は言った。「わしが古事記を生徒に教えたのも、同じことです。知識の前に、なぜ知る必要があるかを渡したかった。刃の前に、なぜ持つのかを渡す。それが師匠の仕事です」


「若菜さんに、きゃるんさんのことを話しましたか」三田は続けた。

「話しました。礼が体に入っていた人間が向かっていった、という話も」

「若菜さんは、どう受け取りましたか」

「礼は、向かっていくことの前にも後にもある、と言いました」

 電話口に、短い沈黙があった。その沈黙の中に、三田の感情のようなものが混じっていた。

「その言葉は、わしが三十年教師をしてきて、生徒から聞いた言葉の中で、一番核心に近いものかもしれません」三田はゆっくりと言った。「礼が、動くことの前にも後にもある。それは、武道だけの話ではない。人間がどう生きるかの話です」


「三田先生」靈は言った。「一つ聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「先生は、倉敷さんが変わっていくのを、長い間見ていました。止めなかった。後で後悔したと言っていました。若菜さんに刃を持たせることと、倉敷さんを止めなかったことは、同じ種類の判断ですか」

 電話口が、しばらく静かになった。

 靈は続きを待った。

「違います」三田は言った。「倉敷を止めなかったのは、倉敷の変化の前に何も渡せなかったからです。怒りを下に置くための別のものを、わしは渡せなかった。だから変わっていった」

「若菜には、渡せるでしょうか」

「あなたはすでに渡し始めています」三田は続けた。「礼を教えた。立ち方を教えた。間合いを教えた。その全部が、刃を持つ理由を渡す準備です。今のあなたには、倉敷のときのわしより、渡せるものがあります」


「一つだけ言わせてください」三田の声が、また細くなってきた。体力が残り少ないことが声に出ていた。

「聞きます」

「刃を一度抜いた師匠から学んだ弟子は、師匠が刃を抜いた理由を体で知っています。頭ではなく、体で知っている。それは、教えることで渡せるものではなく、一緒にいることで伝わるものです」

「一緒にいることで…」

「あなたが昨夜刃を抜いたとき、若菜さんは家にいました。現場には来なかった。ただ、翌朝師匠と話した。その時間の中で、刃を持つことの重さが、言葉より先に若菜さんの体に入っています」三田は続けた。「教えることと、伝わることは、別のことです。あなたはすでに伝えています。後は、形として渡すだけです」


「委細承知しました。先生、体を大事にしてください」

「します」三田は短く答えた。「最後に、頼みがあります」

「なんですか」

「若菜さんが初めて刃を持つ日、倉敷に連絡してください。その場に倉敷がいなくても、知らせてほしい。倉敷に、そういう日が来たことを知らせることが、倉敷の次の一歩に繋がります」

「わかりました。必ず連絡します」

「ありがとうございます」三田の声が、少し遠くなった。「川口の神社の話を聞きました。境内を掃いている人間がいる限り、その場所は閉じない。あなたの道場も、そうです。型を続けている人間がいる限り、道場は閉じない」

 電話が切れた。


 靈はスマートフォンを持ったまま、板の間の中央に立っていた。

 三田の言葉が、頭の中で反響した。

 弟子に渡すのは、抜き方ではなく抜く理由だ。理由が体に入った後で、初めて刃を持たせる。

 若菜はすでに礼の意味を体で知っている。間合いを学んでいる。きゃるんの木刀で型をやってきた。刃を持つ理由の素地は、すでにある。

 次に若菜が来る日に、真剣に触れさせる。抜かない。ただ、重さを知らせる。

 それが第一歩だ。


 石丸に連絡した。

「三田先生と電話しました」靈は言った。「若菜さんに、真剣を持つことを教えるつもりです」

「それは」石丸の声が変わった。「正しいと思います。ただ、一つだけ聞いていいですか」

「なんですか」

「私も、いつか真剣に触れますか」

 靈は少し考えた。

「石丸さんは、礼と型の稽古を続けています」靈は答えた。「礼が体に入ったとき、次のことを話します。そのとき、真剣に触れることが何を意味するかを、二人で確認します」

「わかりました」石丸の声が落ち着いた。「稽古を続けます」


 若菜にメッセージを送った。

「来週の稽古のとき、一つ話したいことがあります。稽古の前に、少し時間をもらえますか」

 返信は早かった。

「はい。何ですか」

「来週、話します。今日は言葉より先に、考えておいてほしいことを一つだけ伝えます」

「なんですか」

「師匠が刃を持って動くとき、弟子はどこにいるべきか」

 しばらくして返信が来た。

「それを、来週話してもらえますか」

「分かりました」


 倉敷に折り返しの連絡をした。

「倉敷さん、取り継いでいただきありがとうございました。大事なことを、渡してもらいました」

「先生は、電話の後でしばらく目を閉じていました」倉敷は続けた。「眠ったのではなく、考えていた様子でした。それから私に言いました。倉敷、お前も続けなさい、と」

「続けなさい、とは」

「具体的には言いませんでした。ただ、お前が今やっていることを続けなさい、と」倉敷は少し間を置いた。「私が今やっていることが、何かは、まだ自分でもよくわかっていません。三田先生のそばにいること、川口の状況を把握していること、拝郷さんに連絡を取ること。その全部が、続けることかもしれません」

「続けることが、形になります。倉敷さんが今やっていることは、全部繋がることです」


 電話を切って、靈は本棚の前に立った。

 武道と礼の本義を引き出した。

 今朝読んだ章の隣のページを開いた。

「師匠が弟子に渡せるものは、技術と理由の二つである。技術は形で渡せる。理由は言葉では渡せない。一緒にいる時間の中で、理由は滲み出るように伝わっていく。師匠が知らぬ間に、弟子の体に入っている」

 靈は本を閉じた。

 三田が電話で言ったことと、同じことが書いてある。ただ、三田の言葉の方が、靈の体には深く入ってきた。

 一緒にいる時間の中で、理由は伝わっていく。

 若菜が道場に来て、何週間も経った。礼を続けてきた。きゃるんの木刀を使ってきた。師匠が刃を抜いた翌朝に話を聞いた。

 その全部が、若菜に何かを渡してきた時間だ。


 型を始めた。

 今日は、一つの型を丁寧に通した。

 抜刀型だ。最初の所作から、最後の収め方まで。

 型をやりながら、靈は来週の若菜との稽古を頭の中で作っていった。

 まず、真剣を持ってきて、板の間の中央に置く。抜かない。ただ、そこに置く。

 二人で向かい合って座る。真剣を前に、話す。

 師匠が刃を持つ理由を話す。弟子が刃を持つ理由を、弟子自身に考えさせる。

 その後で、初めて若菜に鞘ごと持たせる。

 重さを知ることが、最初の一歩だ。


 型を終え、木刀を壁に戻した。

 真剣の前に立ち、鞘に手を置く。昨夜とは違う感触だ。昨夜は腰に差していた。今日は、元の場所にある。

 この刃を、来週若菜に持たせる。

 重さを知ること。それが最初の一歩。

 ゆっくりと手を離すと、鞘の感触が薄く手に残るのを感じる。

 板の間に正座して、呼吸を整える。

 一礼にいつにない重みを感じた気がした。


 窓の外に、川口の午後があった。

 首相はまだ見つかっていない。政府の空白が続いている。川口では、昨夜の後の静けさが続いているが、その静けさが本物かどうかはわからない。

 ただ、来週若菜が来る。

 真剣を板の間の中央に置いて、二人で向かい合って座る。

 その場面が、靈の目の前に見えた。

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