第54話 「重さを知る」
稽古の日の朝、靈は夜明け前から動いていた。
道場の外、路地に面した壁の内側に、稲藁を束ねて巻いたものを一本立てかけた。久しく使っていなかった巻藁だ。親父の時代から道場の倉庫に仕舞われていたもので、藁の端が乾いて茶色くなっている。それでも、中心部の密度は変わっていない。
なぜ今日これを出す気になったのか、靈自身もまだわかっていなかった。ただ、若菜が来る前に、ここに置いておくべきだという感覚があった。
若菜が来たのは、午前十時ちょうどだった。
引き戸の前で一礼をしてから入り、靴を揃え、きゃるんの木刀を脇に抱えたまま板の間に上がった。いつもと変わらない動作の連なりだったが、今日は靈が真剣を板の間の中央に置いていることに、すぐに気づいた。
視線が、床の真剣に落ちた。鞘のまま、横に置かれている。
「今日は抜きません」靈は向かいに座りながら言った。「ただ、持ってみてください」
若菜は真剣から視線を上げ、靈の目を見た。何かを確認するように、一秒ほど。それから、ゆっくりと両手を伸ばした。
鞘を持ち上げた瞬間、若菜の肩がわずかに沈んだ。
「重い」
木刀のときとは違う声だった。驚きというより、何かに直面したときの声だ。
「木刀と何が違いますか」靈は聞いた。
若菜は鞘を両手で水平に保ちながら考えた。道場に壁を背に立てかけた巻藁が、窓の外から見えている。若菜はまだそれに気づいていない。
「重さだけじゃない」若菜は言った。「木刀は、振れそうな気がします。これは……振れる気がしない」
「なぜ振れる気がしないと思いますか」
「わかりません。重さは同じくらいかもしれない。でも、持ったとき、何かが違う」
若菜が鞘の感触を確かめるように、指先を動かした。その動作を靈は黙って見ていた。
「居合と抜刀術は、別のものです」靈は言った。
若菜が顔を上げた。
「同じだと思っていました」
「よく混同されます。厳密には違う」靈は続けた。「抜刀術は、刀を抜く技術そのものです。どう抜くか、どう切るか、どう収めるかの技術体系です。流派によって名称が違いますが、刃を使うことを前提に組み立てられている」
「居合は」
「居合は、座った状態や油断している状態から、相手の攻撃に対して刀を抜きつつ対処する武術です」靈は続けた。「語源は『居』、つまり座った構えから来ています。ただし、現代の制定居合は、戦闘よりも精神的な修練の側面が強い。刃を使わないことを前提に、使う準備を整え続ける修行です」
「使わないことを前提に、使う準備をする」若菜は繰り返した。視線が、また手の中の鞘に落ちた。「矛盾していませんか」
「矛盾に見えます。ただ、使わないことを選ぶためには、使えなければいけない」
「今日、この重さを知ってほしかった理由があります。三田先生が、電話でこう言いました。弟子に渡すのは、抜き方ではなく抜く理由だ、と」
若菜の指が、鞘の上で止まった。
「先生は体調が悪い中で、それだけを伝えるために電話口に出てくれた。その言葉を、あなたに渡したかったのです。刃を持つ理由を、今日から考えてください。来週また聞きます」
「理由…ですか」
「自分の言葉で、なぜ刃を持つかを言えるようになること。きゃるんが向かっていった理由。私が昨夜路地で體が動いた理由。それとあなたが刃を持つ理由が、同じかまたは自分自身の別の理由があるかを確認する」
若菜はしばらく黙って、鞘を持ったままでいた。板の間の光が、鞘の木目に当たっている。
「一つ聞いていいですか」若菜は言った。
「どうぞ」
「師匠は、なぜ刃を持つのですか」
「守るためです」靈は答えた。「ただし、私が守るのは特定の人だけではありません。形を守る、という意味もあります」
「形…」
「四十年、注連縄を張り替えてきた榊原さんの形。きゃるんが礼を続けてきた形。雨森さんが廃社になった後も神職の資格を持ち続けた形。それらが、暴力によって一瞬で失われる可能性があるとき、刃がその可能性を遠ざける道具になる」
若菜は、鞘を両手で持ちながらゆっくりと靈を見た。
「きゃるんさんが向かっていったのも、同じですか」
「同じかもしれません」靈は視線を窓の外の巻藁に向けてから答えた。「目の前で誰かが傷ついている。きゃるんの中で積み重ねてきた何らかの形が失われようとしている。それを止めるために体が動いた。きゃるんの礼が、体の中でその動きを支えていた」
「礼が、刃を持つことに繋がっている」
「繋がっています。礼は、信頼を示すために首をさらす行為です。さらすことへの慣れが、守ることへの動きを作る。矛盾に見えますが、さらすことと守ることは、同じ体の中から来ています」
若菜が、そっと真剣を靈の前に戻した。
「一つ、試してもいいですか」
「なんですか」
若菜が窓の外の巻藁に目をやった。今日初めて気づいたのか、それとも最初から見えていて今まで黙っていたのか、靈には判断できなかった。
「あれを、きゃるんさんの木刀で切ってみたい」
靈は少し考えた。
当初、今日の稽古に巻藁を使うつもりはなかった。真剣の重さを知らせること、刃を持つ理由を渡すこと——その二つが今日の目的だった。
ただ、若菜の目に浮かんでいるものを見た。恐怖ではなく、確認したいという意志だ。
「なぜ切りたいと思いましたか」靈は聞いた。
「師匠が刃を持つ理由が、形を守ることだと言いました」若菜は巻藁を見ながら言った。「私は今まで、礼と立ち方と素振りをやってきました。何かに当たったことが一度もない。刃を持つ理由を考える前に、木刀で何かに当たる感覚を知っておきたい。それが理由です」
「切ることと、守ることを繋げようとしているんですか」
「繋がるかどうか、わからないから試したい」
靈は立ち上がって、外に出た。若菜が三歩後ろからついてきた。
巻藁の前に二人で立つ。靈が高さを確認して、若菜の腰の高さに合わせて位置を調整する間、若菜はじっと巻藁の先を見つめている。
「素振りで教えた横払いで打ちます」靈は言った。「ただし、一点だけ今日追加します。当たる寸前に、止める意識を捨ててください」
「止める意識、というのは」
「素振りのとき、木刀の終わりの形を意識していました。それが今日まで必要だった。ただ、巻藁に当たる瞬間は、その意識が邪魔になります。抜けるつもりで振る。終わりは、その後から来ます」
「抜けるつもりで振る」若菜はきゃるんの木刀を両手で持って、巻藁の前に立った。「姉弟子のことを思って振っても、いいですか」
靈は一瞬、返事を止めた。
「どういう意味ですか」
「きゃるんさんのことです」若菜は巻藁を見たまま言った。「この木刀は、きゃるんさんのものです。形を守る、という言葉を聞いて、きゃるんさんが守ろうとした形のことを思いました」
靈は何も言わなかった。
若菜が息を整えた。
握られた木刀が風を切る。
きゃるんの木刀が巻藁の中心を捉えた。鈍い音が路地に響き、藁が揺れた。切り口ではなく、打撃の跡だ。ただ、芯まで届いていた。
若菜が木刀を引いて、巻藁を見た。
「音が、思っていたのと違いました」
「どう違いましたか」
「もっと軽い音かと思っていた。実際は、中から鳴っている感じがした」若菜は木刀を持ったまま振り返った。「手に、残っています。当たった感覚が」
「もう一度やってみますか」靈は聞いた。
「やります」
今度は少し違った。振り始める前に、若菜が一度だけ呼吸を落とした。それだけで、肩の位置が下がった。
振った音が、最初より低かった。木刀が同じ場所を打ったが、今度は藁が揺れ方が違った。衝撃が分散せず、一点に集まっていた。
「二回目の方が、重かったです」若菜は木刀を下ろして言った。「なぜですか」
「最初は当たることを意識していた。二回目は当たった後のことを考えていなかった」靈は答えた。「刃を持つ理由がはっきりしているとき、体の力が余計なところに逃げない。二回目のあなたの中に、きゃるんの形を守るという理由がより明確にあった。それが、木刀の通り方を変えたのかも知れません」
若菜はしばらく、木刀と巻藁を交互に見ていた。
「師匠に聞いていいですか」
「なんですか」
「私は今日、きゃるんさんのことを思って振りました。それは、刃を持つ理由になりますか」
靈は巻藁の打撃跡を見てから答えた。
「理由の素地になります。ただ、それだけでは足りない」
「何が足りないですか」
「あなた自身の理由が必要です」靈は若菜を見た。「きゃるんさんの形を守りたいという気持ちは、今日の打ちに出ていました。ただ、刃を持つとき、それはあなた自身が守りたいものになっていなければいけない。他の誰かの理由を借りて刃を持つことは、怒りで刃を持つことと、根っこが似ています」
「自分自身の理由を持つ、ということですか」
「来週、それを聞かせてください」
二人で道場に戻り、板の間に向かい合って座った。
靈が茶を淹れると、若菜は両手で受け取り、一口飲んでから口を開いた。
「一つ確認してもいいですか」
「なんですか」
「居合と抜刀術が違うと言いました。師匠が教えてくれているのは、居合ですか、抜刀術ですか」
「居合です」靈は答えた。「使わないことを前提に、使う準備を整え続ける修行です。ただし」
「ただし」
「今日あなたが巻藁を打ったことは、制定居合の稽古ではありません。抜刀術の入口に近い体験です。その違いを知った上で、今日何をやったかを理解しておいてください」
若菜は少し考えてから言った。
「居合を学びながら、抜刀術の入口を経験した。その二つを持って、来週理由を持ってくれば、刃の重さを知ることに繋がる、ということですか」
「そうです」
若菜が帰り際、きゃるんの木刀を壁に戻した。
いつもより丁寧に、両手で立てかけた。今日この木刀を使って、巻藁を打ったからだろう。木刀への接し方が、少し変わっていた。
「来週、理由を持ってきます」若菜は引き戸の前で振り返った。「ただし、確実には言えません」
「言えなくていいです」靈は言った。「考えてきた過程を聞かせてください。答えより過程の方が、今は重要です」
「過程を聞く、というのは師匠らしい」若菜は少し笑った。「一個の問いで核心を突く、というきゃるんさんの言葉を思い出しました」
一礼をして、引き戸が閉まった。
靈は一人、板の間に立った。
窓の外の路地に、巻藁がまだ立っている。若菜が打った跡が、藁の表面に残っている。
今日は当初の予定にないことが起きた。若菜が巻藁を見て、切りたいと言った。靈はそれを許可した。
許可した理由を、靈は今確認した。
若菜は恐怖から切りたいと言ったのではなかった。刃を持つ理由を考える前に、その切先が断ち切るその先を、信念の障害になり得る何かに当たる感覚を知りたいと言った。その言葉に、理由を理解しようとする意志があった。
師が予定していなかったことを、弟子が引き出したのだ。
真剣を手に取って、元の場所に戻した。
若菜が鞘を持ち上げたときの肩の沈み方を、靈は思い出した。重さに驚いたのではなく、何かに直面したときの沈み方だった。
刃を持つ理由は、来週若菜が持ってくる。
その理由が何であれ、今日の巻藁の感触が体に残っている若菜が持ってくる言葉だ。頭だけで考えた理由ではない。
一礼をした。
今日あなたに巻藁を打たせた判断が正しかったかどうかへの礼、ではない。今日起きたことへの、確認としての礼だ。
礼から戻したとき、いつもより背筋が伸びた気がした。




