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壱億総抜刀  作者: るふな


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第55話 「理由を持つ」

一週間後の朝、靈は型を終えてから巻藁を確認した。

 先週若菜が打った跡が、藁の表面に薄く残っている。芯まで届いた打撃の跡だ。今週また使うかどうかはわからないが、そのままにしておいた。


 若菜が来たのは、午前十時だった。

 引き戸の前で一礼をしてから入り、靴を揃え、きゃるんの木刀を壁に立てかけた。それから板の間の中央に向かいに座った。

「持ってきました」若菜は言った。挨拶より先にその言葉が出た。自分でも気づいたのか、少し苦笑した。「理由を、です」

「聞きましょう」靈は茶を淹れながら言った。

「一週間、考えました」若菜は膝の上で手を組んだ。「最初は、きゃるんさんの形を守りたい、で止まっていました。師匠に他の誰かの理由を借りることは怒りと根っこが似ていると言われて、そこで詰まっていた」

「どうやって抜けましたか」

「川口に来た理由を、最初から考え直しました」


「川口に来たのは出向です。会社の都合で来た。ただ、きゃるんさんの件があって、他人事と思えなかった。それで師匠のところに来ました」若菜は続けた。「なぜ他人事と思えなかったのか、もう一度確認しました。川口に来て一年半、この街で一人で生きてきた。その間に感じてきたことを、全部思い出した」

「何を感じてきましたか」

「怖かったです」若菜は窓の外を見た。「いつ自分がきゃるんさんのような状況になるかわからない、という怖さではなく、もっと日常的な怖さです。夜道を歩くとき、知らない言語で話しかけられたとき、コンビニでトラブルを目撃したとき、小さな怖さが積み重なってきた」

「その怖さと、刃を持つ理由が繋がりましたか」

「繋がりませんでした」若菜は靈を見た。「そこで止まったとき、師匠が言っていた言葉を思い出しました。礼は、怖くてもさらすことができる、と」


「怖さは、さらすことの障害ではない、ということですか」靈は聞いた。

「そうです。怖いから縮む、ではなく、怖いからこそさらす。その感覚を、礼の稽古でやってきた」若菜は手を膝の上から外して、板の間に置いた。「私が刃を持つ理由は、怖さがある場所に立ち続けることです。逃げるためでも、戦うためでもなく、怖い場所に立っていられる状態を作るために、刃を持つ」

 靈は茶碗を持ったまま、少し考えた。

「その理由は、居合の精神に近い」靈は言った。「使わないことを前提に、使う準備を整え続ける。あなたの言い方に置き換えると、逃げないことを前提に、逃げられる状態を整え続ける」

「逃げられる状態を持ちながら、逃げない選択をする」若菜は繰り返した。「それが、刃を持つ理由になりますか」

「なります」


 若菜の表情が、わずかに晴れた。緩んだというより、何かが定まった顔だ。

「もう一つ、言っていいですか」若菜は続けた。

「どうぞ」

「川口に来た理由が、会社の都合だったとしても、ここで一年半生きてきた事実は変わらない。この街で積み重ねてきたものが、私の中にある。それを守りたいというのも、理由の一つです。きゃるんさんの形を守りたいという気持ちと違うのは、これは私自身が積み重ねてきたものだから」

「それがあなた自身の理由です」靈は言った。


 稽古が始まった。

 今日は先週と違い、真剣を板の間に置かなかった。鞘払いの所作を、木刀で練習する。

「今日から、抜く前の動作を教えます」靈は板の間の中央に立ちながら言った。「ただし、真剣は今日使いません。木刀で同じ動作をやります」

「鞘払いですか」若菜は木刀を両手で持って立った。

「そうです。知っていましたか」

「名前だけ、調べました」若菜は少し照れた顔をした。「理由を考えながら、次に何を教えてもらえるか気になって」


「鞘払いは、刀を抜く直前の動作です」靈は木刀を左手で持ち、刃の向きを想定しながら説明を始めた。「鞘から刃が出やすいよう、右手で鍔を押しながら鞘を後ろに送り出す。文字で説明するより、見た方が早い」

 靈が動作を見せた。

 ゆっくりと、鍔を押す動きと、鞘を送り出す動きを分けて示した。実際には一瞬で行われる動作だが、今日は分解して見せる。

「どこに力が入っていますか」若菜は動作を目で追いながら聞いた。

「入っていません」

「入っていない、というのは」

「力を抜くことで、自然に刃が出るように設計されています」靈は続けた。「鞘払いに力を入れると、動作が遅くなる。鍔を押す力と、鞘を送り出す力のバランスが合ったとき、刃は力なく出てくる」


 若菜が木刀で同じ動作を試みた。

 最初は、力が入りすぎていた。木刀を持つ右手に力が余っていて、動作が固い。

「力を抜いてください」靈は言った。「卵を握るように、という言葉を最初に言いました。今日もそれです。ただ、今日は卵二つ分、さらに軽く」

「卵一つより軽い握り方」若菜は力を緩めながら言った。「感覚がつかめません」

「一度、全部の力を抜いてみてください。木刀が落ちそうなくらい」

 若菜が力を抜いた。木刀が手の中でぐらりとした。

「その状態から、落とさない最低限の力だけを戻してください」

 若菜が少しだけ力を戻した。

「今の状態で、もう一度やってみてください」


 動作が変わった。

 硬さが消えて、鞘を送り出す動きが滑らかになった。完全ではないが、最初とは別の動作になっていた。

「今の感覚が、鞘払いの入口です」靈は言った。

「入口、ということはまだ先があるということですね」

「先があります。ただ、今日の目的はこの感覚を一度体に通すことです。来週また確認します」

 若菜が木刀を下ろして、手のひらを見た。

「鞘払いを覚えることと、刃を持つ理由を持つことが、どう繋がりますか」若菜は聞いた。

「鞘払いは、刃を抜く準備の動作です」靈は答えた。「準備は、理由があって初めて意味を持ちます。理由がなければ、鞘払いは単なる動作の練習です。今日あなたが理由を持ってきたから、今日から鞘払いを教えられます」


 稽古が終わって、二人で向かいに座った。

 靈が茶を淹れようとしたとき、スマートフォンが鳴った。

 石丸からの電話だった。靈は若菜に目で待つよう伝えてから、板の間の端で出た。

「倉敷さんが逮捕されました」

 靈の手が止まった。

「いつですか」

「今朝です。皇道護民連合の関係者として、公安に連行されました。倉敷さんとの通話中にいきなり同行を求める声が後ろからして、後を頼みますとだけ言われて切れてしまいました」


 靈は板の間を一歩歩いてから、立ち止まった。

 倉敷が逮捕された。三田先生への連絡窓口が、突然塞がれた。

「三田先生には伝わっていますか」

「わかりません。突然の事だったのでおそらくは…」

「わかりました」

 靈は電話を切った。


 若菜が靈の顔を見て、何かを察した表情をした。

「後で話します」靈は板の間に戻りながら言った。「今は、状況を確認します」

 健一にメッセージを送った。倉敷逮捕の件と、川口の現状を聞くために。

 返信は数分で来た。

「倉敷さんの件は把握しています。ただ、今朝からもっと大きな動きが出ています。首相代行だった与党第一党総裁の小西氏が辞任を表明して、ダグラス石橋という人物が首相に就任しました。今朝、発表されました」


「ダグラス石橋」靈はその名前を記憶の沈殿から掬い上げようとしたが、一向に思い当たらない。

「名前からわかる通り、帰化人とみられています。与党での活動履歴が非常に薄く、選挙活動の記録もほとんど確認できない。それにもかかわらず、閣議決定のみで首相に指名されました。あまりに不自然です」

 若菜が靈の手元のスマートフォンを覗き込んだ。靈は画面を若菜にも見えるように向けた。

「野党は猛反発しています」健一の次のメッセージが続いた。「合法性に疑問があるとして、臨時国会召集を要求していますが、与党側は応じていません。さらに今朝、複数の閣議決定が行われました。デモや集会への規制を強化する法案、防衛費名目での増税措置、報道規制に関連する指針の改訂が、国会を通さずに決定されています」


「国会を通さずに」普段冷静な若菜が、少し声を荒げた。

「閣議決定です」靈は答えた。「内閣が自らの権限で決定する。国会での審議を経ない」

「それは、合法なんですか」

「法的な根拠が問われています。ただ、今の政府がそれを強行しています」

 健一から最後のメッセージが来た。

「川口でも、今朝から動きが出ています。デモが南部と東部で同時に始まっています。規模は先週より大きい。ダグラス首相への反発と、増税措置への怒りが混ざっています。叢雲の権限縮小後、対応できる体制がありません」


 若菜が靈を見た。

「師匠、今日の稽古は続けますか」

「続けます」靈は答えた。「ただし、その前に三田先生に連絡する必要があります。倉敷さんが逮捕された。それを伝えなければいけない」

「倉敷さんが…つまり三田先生のそばにいた人が、いなくなったということですか」

「そうです」

 若菜はしばらく何かを考えてから言った。

「三田先生への電話の掛け方を教えてもらっていいですか。直接話せなくても、メッセージを送れる状態にしておきたい」


 靈は少し止まった。

 若菜がそう言った理由を、靈は確認した。

 倉敷が逮捕されて、三田先生の周囲に誰もいなくなるかもしれない。靈が三田先生に連絡する。ただ、靈にも何かが起きたとき、連絡できる別の人間が必要だ。

 若菜は今日、刃を持つ理由を持ってきた。川口で積み重ねてきたものを守るために、怖い場所に立ち続けるために。

 その延長で、三田先生への繋がりを求めている。

「倉敷さんの連絡先は、今は使えません」靈は答えた。「ただ、三田先生への経路は、別の方法で確認します。今日中に連絡して、状況を伝えます。あなたへの繋ぎ方は、その後で考えます」


 稽古を再開した。

 鞘払いの続きをやった。今度は、靈が横で動作を確認しながら、若菜が繰り返した。

 ただ、途中で若菜の動きが止まった。

「師匠」若菜は木刀を下ろして言った。「さっき石丸さんから電話が来たとき、師匠の顔が変わりました」

「そうですか」

「倉敷さんが逮捕されたとき、どう思いましたか」

 靈は少し考えてから答えた。

「三田先生が一人になった、と思いました」

「それだけですか」

「倉敷さんが続けてきたことが、途中で止まった、とも思いました」靈は続けた。「倉敷さんは、大正義を始めた人間です。その組織が暴力に向かっていくのを止めようとした。止めきれなかった。それでも、情報を外に渡し続けた。その全部が、今朝の逮捕で区切りを迎えた」

「続けてきたことが途中で止まる、というのは」若菜は木刀を持ったまま言った。「形が失われることですか」


「形が失われることではないかもしれません」靈は答えた。「形は、持っている人間がいなくなっても残ることがある。榊原さんの父が縄の張り方を教えた。父が亡くなっても、縄の張り方は残った。倉敷さんが積み重ねてきたことも、どこかに残っています」

「どこに残りますか」

「三田先生の中に。私の中に。あなたの中にも、少しあるかもしれない」

「私の中に」若菜は自分の手のひらを見た。「倉敷さんとは、会ったこともありません」

「会ったことがなくても、渡ることがあります」靈は言った。「三田先生が倉敷さんに渡した。倉敷さんが私に渡した。私があなたに渡している。形は、手から手へ渡っていきます」


 稽古が終わった後、若菜が帰り支度をしている間に、靈は三田に連絡を試みた。

 倉敷の番号はつながらなかった。別の経路を探した。

 雨森に電話して、三田への連絡方法を確認した。

「三田先生の連絡先は、以前倉敷さん経由で把握していた部分があります」雨森は言った。「直接の番号を持っているかどうか、確認します。少し時間をください」


 若菜が帰り際、引き戸の前で振り返った。

「今日、理由を持ってこられてよかったです」若菜は言った。「ただ、倉敷さんの件を聞いて、持ってきた理由が揺れました」

「どう揺れましたか」

「怖い場所に立ち続けるために刃を持つ、という理由を持ってきました。ただ、倉敷さんが逮捕された、ダグラスという人物が首相になった、その話を聞いて、立ち続ける場所そのものが変わっていると感じました」

「それは、理由が揺れたのではなく」靈は言った。「理由を試されている、ということかもしれません」

「試されている」

「場所が変わっても、怖い場所に立ち続けることが理由なら、場所が変わるほど理由は深くなります」

 若菜は一礼をして、道場を後にした。


 靈は一人になってから、目を閉じて深く呼吸を整える。

 倉敷が逮捕された。ダグラス石橋が首相になった。国会を通さない閣議決定が続いた。デモが拡大している。

 若菜が刃を持つ理由を持ってきた。鞘払いを始めた。三田先生への繋がりを求めた。

 世界が大きく動いている日に、道場の中で刃を持つ理由を渡すことが続いていた。

 それが今日の二つの出来事だ。矛盾しているように見えて、繋がっている。


 型を一度通した。

 板の間を歩きながら、倉敷の声を思い返す。

 問いを抱え続けることが正しい方向だ、と倉敷は言っていた。

 続けることが、倉敷が最後に渡したものだ。


 夜、雨森から連絡が来た。

「三田先生の連絡先を確認しました。直接の番号を取れました。ただし、今日の段階では先生の体調がまだ安定していないため、明日以降に連絡してほしいとのことです」

「わかりました」靈は返信した。「倉敷さんの逮捕は、先生に届いていますか」

「届いています。先生は今日、それを聞いて一日黙っていたそうです」

「黙っていた」

「何も言わずに、ただ窓の外を見ていたとのことです。夜になってから一言だけ言ったそうです」

「何と言いましたか」

「続く、と」


 靈はその一言を、しばらく画面の中に置いておいた。

 日本で何かが加速している。

 続く、という言葉が、道場の中で渦巻き今後の状況を怪しく照らしていた。

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