第56話 「断罪」
健一からメッセージが来たのは、夜明け前だった。
靈が朝の型を終えて外を眺めていると、スマートフォンが続けて振動した。
「ダグラス石橋について、新しい情報が出ています。読んでください」
添付されたリンクを開くと、内部告発文書の要約があった。健一が徹夜で整理したものだと、文体でわかった。
文書の内容を、靈は順番に読んだ。
GHQ占領期以降、日本の政治・行政・教育・メディアに対して組織的な影響工作を続けてきた外国機関の存在が、内部告発者の証言と資料によって示されていた。参拝の三礼を二礼に変えた経緯、灯籠流しが禁じられた理由、武道禁止令、使用禁止にされた漢字、利権により麻が違法になった経緯、ケムトレイルの実態、ソーラーパネル利権、閣僚対象外の民衆を監視するスパイ防止法の制定…靈がこの一年で経験してきた断絶の数々が、一本の線として繋がっていた。
腐敗した政治体制を告発しようとした官僚や政治家が、過去に不慮の事故として処理された事例の記録も名前と日付が並んでいた。
「信憑性は」靈は健一に返信した。
「複数の文書と照合済みの部分があります。全部が本物かは不明ですが、核心部分は真実と判断しています」健一の返信は早かった。「今朝九時から、コクーンシティで大規模演説が予定されています。ダグラス首相が直接出てきます。機動隊が配備される予定です」
「なぜ今になって…」
「演説の中心的な内容として、事前に与党から情報が出ています。荒川沿いの文化財指定区域を移民自治区として開発するという計画です」
靈はスマートフォンを置いて、奥の間の隅の真剣を見た。
今朝の問いは、シンプルだった。
行くか、行かないか。
行く理由がある。日本の文化財が失われる可能性がある。石丸の父が頭を下げていた神社と同じ種類の場所が、消える可能性がある。それどころか自治区の開発により、騒動の火元が定着する可能性がある。
ただ、靈一人が行って何ができるかは、まだわからない。
石丸に電話した。
「知っています」石丸はすでに起きていた。「私も行くつもりです」
「一緒に行きましょう。ただ、今日は人が大勢集まります。無理はせず、充分に注意して行きましょう」
「わかりました」石丸は少し間を置いた。「今日、真剣を持って行きますか」
「持って行きます」
「それが答えですか」
「それが、今日の準備です」靈は深く呼吸を整えた。「使うかどうかは、現場で決めます」
雨森に連絡した。
「コクーンシティに行きます」靈は短く、それでも要点をまとめて伝えた。「神社は任せます」
「わかりました」雨森ははっきりした声で返した。
コクーンシティに着いたのは、朝の九時を過ぎていた。
会場周辺は、すでに人で溢れ、人混みが一つの生命体のように蠢いている
演説を支持するために来た人間と、反対のために来た人間が、同じ場所に集まっている。機動隊が列をなして、演説台周辺を囲んでいた。盾を持ち、ヘルメットをかぶっている。その数は、靈がこれまで見た中で最も多かった。
デモの参加者は数千人規模だった。プラカードを持っている。怒号が飛びかっている。ただ、今の段階では、機動隊の壁の前で止まっていた。
石丸が靈の隣に来た。
「人が多い」石丸は前を見たまま言った。
「多いです」靈は答えた。「今日の場所は、これまでの路地とは違います。話しかけて止まるものと、止まらないものが、今日は特に見えにくい」
演説台が遠くに見えた。
まだダグラスは出てきていない。スタッフが準備をしている。
靈は群衆の中を歩いた。石丸がついてくる。
歩きながら、靈は今日の場を見た。
怒りがある。正当な怒りだ。文化財が失われる。増税が強行される。国会を通さない決定が続く。倉敷が逮捕された。
その怒りを持った人間が、今日ここにいる。
靈には、その怒りを否定する言葉がない。否定する理由もない。
ただ、怒りが暴力になる瞬間を、阻止できるかも知れない。
演説台に近づいた。
機動隊の列の前まで来ると、靈の歩みが自然に緩んだ。
列の一番端の機動隊員が、靈を見た。
靈の腰に控える真剣を視界にとらえる。
機動隊員はゆっくりと靈の顔に視線を移す。靈も機動隊員を瞳の先を見つめる。
一秒ほど、その視線が交わった。
機動隊員が、わずかに横に動いた。
その動きが伝わるように、列が少し開いた。
声はなかった。命令もなかった。ただ、列が開いた。理由はわからない。関係者と思われたのだろうか。
靈は機動隊の列の中を、ゆっくりと歩いた。
石丸が後ろからついてくる気配があった。
演説台が近づくにつれ、緊張感が増す。
先程、靈と目が合った機動隊員の瞳の奥には、見覚えのある色が窺えた。救いを求める者の目だった。
ダグラス石橋が台に上がってきたのは、九時を少し過ぎた頃だった。
五十代とみられる男だった。威圧的な空気を纏った、寸胴の男がスーツに包まれている。日本語が流暢だったが、声の出し方が、靈がこれまで聞いてきた日本語とは明らかに違った。
演説が始まった。
増税の正当性、森林開発と再生エネルギー、移民との共生、荒川沿いの開発計画、文化財の「合理的な活用」。
言葉は整理されていた。ただ、その整理され方が、現場を見ていない人間の言葉だった。
群衆からの怒号が増した。
前列に詰めていた人間の何人かが、機動隊の盾に向かって押し始めた。
機動隊が盾を前に出した。
一触即発の空気が、広場全体を覆い始めた。
靈は演説台の前に立っていた。
群衆と演説台の間に、一人で立っていた。
演説の言葉が、一瞬止まった。
群衆を見下ろすダグラスは、死肉に沸いたウジを見る様な目で、人々を睥睨していた。
目は口ほどに物を言うというが、まるで高潔な自分が愚民どものためにわざわざ来てやったとでも言いたげな、そんな世界を映していた。
ダグラスが演説を続けようとした。
ただ、その言葉が出てくる前に、群衆からの怒気がビリビリと全身を突き刺す。
靈は振り返った。
群衆が前に動いていた。機動隊の盾が揺れている。
一歩、群衆の方に向く。
群衆の前列にいた男と、目が合った。先週の対話の場で見た顔だった。
その男が、靈を見て止まった。
後ろが詰まった。
前列が止まると、後ろの動きも緩んだ。
完全には止まらなかった。ただ、一瞬の静止が生まれた。
その静止の間に、別の動きが起きた。
演説台の後方から、複数の人間が出てきた。
スーツに身を包み、かなり訓練された人間の身のこなしと見受けられる。
群衆の喧騒に紛れて、音もなくダグラスに近づいた。
ダグラスが振り返ったとき、すでに両腕を取られていた。
台の下ではよく見えなかったが、抵抗して声を上げているのが、群衆の怒号の隙間を縫って聞こえた。
「離せ、これは違法だ、私には権限がある——」
日本語と、別の言語が混じった叫び声が、拡声器を通して広場に響いた。
男たちがダグラスを取り押さえた。
それを見ていた機動隊が、一斉に動いた。
ただ、ダグラスを守る方向ではなかった。
機動隊の一部が、ダグラスを取り押さえている男たちの周囲を囲んだ。
その動きが、何を意味するかを、靈はすぐに悟った。
明らかに機動隊は、ダグラスを包囲している。
広場が、高台の先頭から順に静寂に襲われ音を失っていく。
怒号が完全に止んだわけではない。ただ、前線の動きが止まったことで、後ろの人間も状況を確認ようと首を伸ばし始めた。
靈は石丸にこの場に残る様に合図をする。
何も言わずに頷く石丸の表情は、困惑と、これから起こることを何処となく予期している様だった。
「わかっています」石丸は霊の背中に言葉を残した。
靈は漸く、道を開けた機動隊員と、今まさに壇上でダグラスを見せしめの公開処刑に処そうとしているのが、皇道護民連合の手のものだと気がついた。
靈は、一歩一歩壇上に近づく度に、周りの音が消えてゆくのを感じた。
大正義の暴走から始まった汚職議員の処刑は、皇道護民連合へと変貌を遂げ、数分の猶予もなく大衆の面前で執行される。
止めるべき…何を止めるべきか…靈の胸の中に今まで積み重ねてきたものが、一気にのしかかってきた。
無意識に左手が鞘に伸びる。
コクーンを背に、広場の中心に設置された高台の階段を上がる度に、道場でのこと、神社でのこと、今まで出会った人々のことが走馬灯の様に靈の意識を通過する。
最後の階段から壇上に足がかかった時、きゃるんの笑顔が頭をよぎり、ふっと消えた。
壇上でダグラスを抑えるスーツの男達は、靈の存在に気づき、警戒が全身の緊張に見られたが、すぐに靈に敵意がないことを察知してダグラスの拘束に集中した。
「離せと言っている!私が誰だか知らんのか!お前達全員ただでは済まさんぞ!」
ダグラスはまだ喚き散らしているが、周りの人間は一切の聞く耳を持たず、目の前の売国奴を見下ろしている。
止めるべきは何なのか、靈は再び刀を握る様になってからずっと考えていた。
ダグラスを処刑したところで、また首がすげ替えられるだけで、根本的な問題の解決にはならない。
またあからさまな不正選挙に始まり、民意など意に介さず、独裁の如く、日本への静かな破壊工作が続くに違いない。
人々の不安が消えるわけではないし、ましてや人を殺めて、今後の展望が明るくなるなんて事は断じてないだろう。
靈の胸の内を占めているのは、ただ、使命感だった。
いよいよダグラスを貫くナイフが、拘束されたダグラスの後ろに控えるスーツの男のポケットから取り出された時、靈と男の目が合った。
靈は何も言わずに右手を柄に添える。
ゆっくりと霊が近づくと、男はナイフを握る手を下ろした。
驚きはしない。目を見ればわかる。何故本来部外者である靈が、機動隊の間を通り抜け、誰にも邪魔されず、壇上に上がり刀に手を添えているのか。
「何だっ!誰だっ!誰であろうと私を侮辱するのは許さんぞ!」
両脇を抑えるスーツの男達が、ダグラスの頭を下げさせる。
靈は大きく息を吸い、呼吸を整えると、スラリと刃を天に抜いた。
陽光の反射が民衆の視線を貫いた。
「ダグラスさん…」
靈は卵を割らない程度の優しい力で、柄の頭を左手で包む。
「どうやらこれが、日本の答えの様です」
靈の刃がダグラスの首筋に勢いよく振り下ろされた。




