第57話「罪科」
普段、巻藁では切らない低い位置で、靈の刀が反作用を受ける。
指先に肉を割く生々しい感触がへばり付き、途端に脛骨に達した刃が肘から肩にかけて重みを伝える。
力ではなく脱力と重心、體の捻りで素早く刀を振り切ると、靈の中の大切な何かが一緒に断ち切られた気がした。
ダグラスの生首がゴトりと音を立てて壇上を転がり、アスファルトを食道に流し込まれた様な、重苦しい空気が靈の腹の底に沈澱していく。
群衆からは所々悲鳴が上がり、ダグラスの血飛沫を浴びた前列からは嗚咽が聞こえる。
転柄血振るいの甲高い金属音が、コクーン広場に一瞬響く。
油分の多い血液は、靈の刀にべっとりとこびり付き、刀身を怨めしく赤黒く染めている。
靈は血の付いた刃をそのまま鞘に納めた。
ふと天を仰ぐと、どんよりとした曇天が空を覆い、今にも雨が降りそうだった。
ダグラスを抑えていた2人が、力を抜いてダグラスの身体を台の上に寝かせた時、漸く靈は壇上の人々を再認識した。
皆一様に靈を見ている。
靈は左手で鞘を腰から引き抜いて、そのままゆっくりと振り向き階段を降りる。
一歩一歩階段を降りる度に膝から崩れ落ちそうになるのを、必死に全身の筋肉で姿勢を保つ。
高台のすぐ横の道路に控えている、機動隊とは別枠の警察車両に向かい、近くで交通誘導灯を振る警察官に向かって、靈は言葉を絞り出す。
「じゃあ…行きましょうか…」
靈が刀を両手で差し出すと、警察官は一瞬キョトンとしていたが、刀を受け取りすぐに状況を察して後ろのドアを開けた。
手錠はかけられなかった。靈は後部座席に腰掛け、震える息を吐き出した。
手にはまだ、ダグラスの息の根を止めた感触が残っている。
手をブルブル振るい感触を無くそうとしても、手を止めた瞬間にジンワリと手のひらの感覚が脳に記憶を訴えかけてくる。
「ど…どうしてあんな事を…」
口を開いたのは警察官だった。
靈は答えられなかった。あの場を支配していた漠然とした使命感に、理由を見いだすことが出来ないまま、夢遊病の様に警察車両に乗り込んだのだ。
パトカーが赤灯を焚いて走行を開始したのに、サイレンの音がやけに遠く感じた。
警察署に着くと、日当たりの悪い部屋に連れ込まれ、取り調べを受けた。
犯行の動機や、共犯の機動隊との関係、計画性の有無、普段の交友関係や職業、ありとあらゆる事を聞かれたが、何一つまともには答えられなかった。
動機はない。ただ漠然とした使命感に體を動かされ、気が付いたら刀を抜いていた。
計画性もなければ、皇道護民連合と見られる機動隊や実行部隊とも関係がない。
むしろ、あの場で振るわれるであろう暴力を、止めに来たのだ。止めに来たはずだった。
靈はその夜、警察署内の留置所で一晩を過ごすことになった。
道場で型を通さない夜はいつぶりだろうか。
若菜や雨森に迷惑をかけてしまった。三田先生や倉敷から受けた言葉を紡いでいく事が、今後できなくなるかも知れない。
何よりあれだけ暴力で解決しない様に諭してきた石丸に対して、合わせる顔を持ち合わせていない。
一際静かで暗い夜、靈は自問自答し心の在りどころを探った。
何故あの時、體が動いたのか。何故不毛とも思える暴力の連鎖に身を投じたのか。何かを守る為だったのか。
一つ確かなことは、靈が刀を抜いたのは怒りからでは無かったという事だ。
翌日の朝、靈は面会を受けることになった。映画で見た穴の開いたアクリルボードの部屋に通されると、同じ空間に面会簿の記録係と、透明な壁の向こう側に雨森と若菜が待っていた。
アクリルボードに反射した靈の姿は、背後霊さながらの血色の悪い顔色をしていた。
靈が椅子に腰掛けると、早速雨森が口を開いた。
「拝郷さん、一体なんて事を…」
靈は何も言わずに視線を落とした。
「師匠…」
若菜は言葉を失い、必死に状況を理解するための言葉を探している様だった。
サラサラと紙をなぞる記録係のペンの音が、やけに大きく聞こえた。
沈黙を破ったのは雨森だった。
「拝郷さん、動機や結果はともあれ、明日には釈放される可能性が高いです」
靈は雨森の言葉に驚愕を禁じ得ない。
「それは…あり得ない異常事態です」
「はい、通常ではあり得ない様な事が起きています」
靈はあらゆる事態を想定してみたが、人を殺めて数日で不問になるなんて、理由が皆目見当がつかなかった。
「到底、許されることではありません」
靈は犯した罪を償う為に、自ら獄中に身を投じたのだ。
人を殺めてお咎め無しなど、靈の心が許容できなかった。
「既に検察には、拘留取り消しの申請が進められています」
雨森は淡々と事実のみを並べているのが、靈には分かった。
「起訴された場合も、驚くでしょうが十分な保釈金が用意されています」
靈は面食らった様子で雨森を見た。
「それは…一体誰が…何故」
「ある方がクラウドファンディングで保釈金を募り、たった一晩で国家予算並みの資金が集まりました。俄には信じ難いでしょうが、拝郷さんの行いを是とする方々が日本中にいらっしゃいます」
靈は到底信じる事ができなかった。殺人を正当化するなんて、日本全体が異常な空気に包まれているとしか思えなかった。
「私は自分が犯した罪を償うつもりです」
「はい、ですがそれは刑務所である必要はありません」
靈が納得できない面持ちで座していると、雨森が口を開いた。
「拝郷さん、一体どうしてダグラス石橋氏を公衆の面前で処刑したのか、教えて頂けますか?」
「事件内容の会話は禁止されている様なので、詳しくは話せません」
靈は自分自身でもまだ、整理ができていなかった。
「私はそこで起きるであろう暴力を止めに行きました。止めるはずだった」
雨森も靈自身と同様に疑念を露わにした。
「拝郷さんがどれほど理性的で、決して怒りに任せて人を傷つける様な方ではないことは承知しています。それなのに何故…」
靈は一呼吸おいて、理性ではなく感性で答えた。
「当事者意識…でしょうか」
靈は発した言葉の意味を肉付けする表現を探した。
「私は争いは嫌いですし、ましてや人を傷つけることなどもってのほかで、今まで沢山の人に暴力に対する非生産性を訴えてきました」
靈は言葉を探しながら続ける。
「口で言うのは簡単でした。勿論、自分自身が憎しみに苛まれることもあれど、必死に最善の在り方を、多くの人が大切にしてきた形を守れる方法を模索してきました」
雨森と若菜は黙って靈の話に耳を傾ける。
「しかし私は何処かで他人事の様に思っていた気がするんです。だから石丸さんにも軽々しく暴力に訴えてはいけないと言えたのかも知れない。私に不足していたのは当事者意識なのではないかと」
「当事者意識…」
若菜がぼそりと言葉を咀嚼した。
「あの時私を突き動かしたのは、確かに怒りではありません。あの時私はダグラス氏を、国民の不満の象徴を消し去ることに…」
靈は言葉を発する前に思い止まった。その言葉を発すれば殺人が正当化されてしまう様な、そんな恐ろしい意味合いを含む気がしたからだ。
「大義名分…」
若菜が靈の言葉を補完してしまった。しかし靈は驚かなかった。
そこに義を見出してしまうと、暴力による解決の正当性を助長してしまうのではないかと、靈は恐れていた。
「少なからず、拝郷さんが大義を基に行動を起こしたと考える人が、多数存在します。気持ちの折り合いはつかないでしょうが、諸々の対処は外に出た後に一緒に考えましょう」
雨森と若菜が面会室を退出する時、若菜が振り返った。
「どんな…」
若菜は言葉を飲んで部屋を出た。
どんな感じですか、人を殺すって、そう聞きたかったのかも知れない。
靈は気持ちの整理がつかないまま、面会室を後にした。




