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壱億総抜刀  作者: るふな


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第58話「感染」

靈は翌日の朝、不起訴処分とされ釈放された。

 留置所を出ると、曇天の空の下、雨森が待ち構えていた。どうにも重苦しい面持ちで、顔を合わせた瞬間に気まずい空気が流れた。

 「一体どういうことですか?私は罪を犯したというのに、何のお咎めもなしだなんて、信じられません」

 靈は混乱して白昼夢でも見ているような気分だった。

 「順を追って説明いたします。まずはどこか静かにお話しできる場所に移動しましょう」

 

 雨森の案内で、人気のない裏道の古い喫茶店に足を運んだ。昭和初期から営業している純喫茶は、古びた外観のままで内装もアンティーク調、今ではめったにお目にかかれないデルビル磁石式壁掛け電話がカウンター横に佇んでいる。


 雨森は注文を待たぬまま重い口を開いた。

 「納得がいかないかもしれませんが、拘留取り消し申請が受理されました。拝郷さんは、極めて珍しい事例ですが、犯行当時心神喪失状態とされ不起訴処分となります。正確には拝郷さんの弁護を受け持った方が、起訴猶予を通しました」

 「それは…」

 靈は頭の中を目まぐるしく巡る言葉を必死にかき集めた。

 「検察が機能していないということですか?」

 「そうとも言えるかもしれません」

 雨森は注文したコーヒーが到着すると、マグカップを手元に引き寄せた。

 「ご存じの通り、元々司法自体がまともに機能していない状況でした。それに加えて、事件直後の世間の動きも関連していると思われます」

 靈は留置所に囚われていたので、外の状況は知らなかった。靈が雨森に聞くまでもなく、雨森はコーヒーを一口すすり、会話を続けた。


 「拝郷さんがコクーンから護送された後すぐに、国会議事堂と財務省で同時多発的に、皇道護民連合が汚職の疑いがあった議員や官僚達を次々に手にかけました。警察組織は依然として混乱状態で、さらには皇道護民連合は一連の事件に関わった人物たちに不当な判決が下された場合、その裁判官を直ちに処刑する声明を出していました」

 

 靈は體が動くまま行動した。その結果が予想以上に大きな流れに巻き込まれてしまったと、焦燥が今になって胸の内をかき乱した。

 「拝郷さんの弁護を申し出た方は、自らを省みず日本を救った英雄に手を差し伸べないわけにはいかないと、熱弁されていたそうです」

 「英雄…」

 靈は自分自身に対する評価と周囲の評価との乖離に、思わず頭を抱えた。

 「英雄だなんて…とんでもない…」

  「はい。ですが、今日本では圧倒的多数の人が、拝郷さんや皇道護民連合の行動を支持しています。自治体も強硬姿勢に移り、移民局に全不法移民の即時強制送還を直接訴える動きがでています」

 「なんてことだ…」


 靈はいくら頭を整理しようと言葉を探しても、コーヒーから立ち上る湯気のように、現れかけては雲散霧消した。壁に掛けられたゼンマイ式の時計の秒針が、残酷に時を刻む音が店内に響いた。


 しばらくの沈黙が続いて、雨森はコーヒーを少しだけ残してあるマグカップをテーブルの端に避けた。

 「拝郷さん、これを」

 雨森は充電器を差し出してきた。靈のスマートフォンは警察署に着いた際に押収されていたが、留置所を出た時に茶封筒に入れて返却されていた。電源は切れていたので何も確認することはできないでいた。

 「ありがとうございます」

 「拝郷さんの道場前には、入門を求める方々が押し寄せています。落ち着くまでしばらくどこかで時間をつぶした方が良いかもしれません」

 「私は…」

 靈には人を殺めた者に教えを乞う人々の心理が理解できなかった。

 「私には人にものを教える資格はありません。道場の看板を下ろすつもりです」

 「拝郷さんが決めたことであれば、私が口出しできる問題ではありません。彼らの入門の理由も、恐らく若菜さんとは異なるものでしょう」

 「若菜は何と言っていましたか」

 「特に、何も。思いつめた様子でしたけれど」

 「謝らなければなりませんね。石丸さんにも…そういえば石丸さんはどうしましたか?」

 「石丸さんはあの後、神社で榊原さんと合流した後に、大正義の方々に遭いに行くと言って、それきり連絡がありません」

 靈は以前、石丸が暴力で問題解決を試みた際に、引き留めている。石丸は暴力に頼らない方法を模索して、靈の元で礼を学んだ。その最終的な答えがダグラスの殺害であっていいはずがなかった。

 

 靈のスマートフォンが復旧すると同時に、数件のメッセージが画面に浮上した。

 靈のチャンネルを経由した入門希望のメッセージ通知だった。それ以外に知人からの連絡はなかった。

 靈は石丸にメールしようとしたが、何と言っていいのか思いつかず、結局テーブルの上に置いて天井を見上げた。


 「私は何のために礼節を修めてきたのでしょう」

 雨森は黙って靈を見つめる。

 「私は幼い頃から武道を通して礼を学んで来ました。人生の指針ですらありました。私の先祖が代々大切にしてきたその軸、その形を、暴力という手段に用いました。とても礼を修めた者の振る舞いではありません」


 雨森はしばらく沈黙したのち、重々しく口を開いた。

 「ですが…これは私の個人的な見解ですが、過去に日本で起きた争いに身を投じた人たちは、みな同じ気持ちだったのかも知れません」

 靈は雨森を見つめて、次に放たれる言葉に身構えた。

 「戦に赴いた武士は一様にして武道や茶道などを通じて礼を修めていました。恐らく現代以上に礼に対して重きを置いていたと思います。その人たちが身勝手な理由で人に危害を加えたでしょうか。戦争に出兵したご先祖様たちが、好き好んで戦いに行ったのでしょうか。少なくとも私は、大切な何かを守るために、断腸の思いで戦地に行かれたのだと思います」


 靈は口をつけずに置いていたマグカップを握りしめた。

 「私は拝郷さんが、大切なものを守るために動かれたのだと信じていますし、事実多くの日本人が賛同しています」

 

 靈が何も言えずに押し黙っていると、雨森の携帯が鳴った。

 「失礼」

 雨森が携帯に目を落とすと、すぐに財布を開いた。

 「拝郷さん、すぐにここを出ましょう」

 「どうしたのですか?」

 「石丸さんから連絡が来ました。曰く、日本を取り戻しに行きますと」


 靈はマグカップから手を離したが、席を立てずにいた。

 「今更私にどうこうできるとは思えません。雨森さんはどうされるおつもりですか?」

 雨森の顔には焦りの色が見えたが、明確な解決策は持ち合わせていない事は、靈にはすぐに分かった。

 「いえ…その…私は…」

 「石丸さんには長い間、思うところがあったのでしょう。私が抑制していた憤懣が、抑えきれないところまで来たのかも知れません。私にはそれを止める資格はありません」

 

 雨森は力無く椅子に崩れ落ちた。

 「…一体、日本はこれからどうなってしまうのでしょうか」

 雨森の質問の答えを、靈は留置所の中で何千回も自問自答していた。今の状況で答えは明白だった。

 「長年抑圧されていた日本人の怒りが、制御できない段階になりました。皇道護民連合がその怒りの矛先を明確にした事で、自浄作用の様に全国で排除の動きが活発化している。そのきっかけになったのは…悪意の象徴を滅ぼし、人々を焚き付けてしまったのは、私です」

 店の奥で皿が割れる音が響いた。

 「私は…」

 靈は膝の上で拳を握りしめた。

 「大罪人です…」

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