16
不安になりながらも腰を下ろすと、枝は見た目以上にしっかりしていた。
遅れて、フェルがすぐ隣に軽く腰掛ける。
改めてまわりに目を向けると、すぐ近くには屋敷の二階の窓と、屋根の端が見えた。
その向こうには、屋敷に連なる大神殿の白い壁と、高い屋根の一部が覗いている。
大木のまわりだけは庭が少し開けていて、朝の光が葉の隙間からやわらかく差し込んでいた。
「あなたのお気に入りだけあって……本当に、日当たりがいいのね」
「うん。日差しの感じというか……雰囲気が、なんとなく似ているんだよね。もともと住んでいたところと」
内容のわりに、特に感慨もなさそうな、淡々とした言いかただった。
「……寂しいとか、戻りたいとか、そういうわけではないの?」
ちらりと横のフェルを見る。
「もう何百年も経ってるしさ。僕のいまの居場所は、ここだよ」
「そう……」
フェルがここにいてくれるのは、ラグレイン家にとってはありがたい。
けれど、それが封印のためなのだと思うと、私が勝手に安心していいことなのかは……わからなかった。
彼は気にした様子もなく話を変える。
「ここに連れてきたのは、気分転換になるかと思って。……そりゃ、午後になれば君はまた殺されることになる。のんびり過ごせだなんて無茶な話なのは、わかっているよ。それでも、今回ぐらいは少し頭を休めよう。そのほうが、いい考えも浮かぶかもしれないし」
言葉は軽い調子なのに、声には芯があった。
(本当に、私のことを心配してくれているのね……)
そう思うと、せめて彼の言葉に従おうという気になった。
私は下を向いて目を閉じ、小さく息を吐く。
「……わかったわ。言うとおりにする」
これで少しでも、フェルが安心してくれれば。
そんなふうに考えていた私に、彼は返す。
「えらいね、エステアは」
そのまま――子どもを褒めるみたいに、頭を撫でられた。
「ちょっ……フェル!?」
自分がなにをされたのか気づいた途端、顔が燃えるように熱くなって、反射的にその手を勢いよくどかした。
「もうっ……子どもじゃないんだから!」
「あ、エステア……」
「え……」
勢いがよすぎたのか、身体がぐらりと後ろへ傾いた。
(しまっ……)
落ちる――そう思った私を支えたのは、フェルの腕だった。
「おっと」
一体なにがどうなっているのか、すぐにはわからなかった。
ただ、フェルは枝に座ったまま、私の背をしっかりと抱きとめていた。
そのままぐいっと引き寄せられる。
「ちゃんと落ちないようにしただろう?」
笑うようにそんなことを言っていた気がしたけれど……ローブ越しに彼の胸元へ顔を埋めていた私は、それどころじゃなかった。
(ちっ、近……っ)
動揺している間に、フェルは素早く私の体勢を整え、そっと離してくれた。
「君も含めて、ほとんどの聖女は生まれた時から見ているからさ。……でも確かに、結婚を控えた年頃の女性を、いつまでも子ども扱いするのはよくなかったね」
「結婚、ね……もう、それどころじゃなくなってしまったわ。ラグレイン家そのものが、どうなるかわからないのだし。……とにかく、私の頭は撫でないこと! いいわね!?」
「はいはい。……なんだか、こうして誰かに叱られるのも久しぶりだなぁ。君から見たら……ひいお祖母様、になるのかな。怒りっぽいのに、陰じゃ誰よりも泣き虫で……いま思うと、なんだかエステアに似てるね」
「わっ……私、怒りっぽくもないし、泣き虫でもないから……!」
(……でも、ひいお祖母様の話……どこかで聞いた気がする。どこだったかしら……)
うーん、と少し考えてみたけれど、すぐには思い出せなかった。
それより、別のことが気になってくる。
「ねぇ、ひいお祖母様のことまで覚えているのなら……私のお母様のことも、覚えているの? 小さい頃のこととか……」
私の記憶にある母は、病に伏せていた姿ばかりだ。
病状が悪化する前の話も、父や家の者から少しは聞いたことがあるけれど……フェルなら、他にも覚えているかもしれない。
そう思うと、聞かずにはいられなかった。
「もちろん。ラグレイン家では珍しく、生まれつき病弱な子だったけれど……それでも、聖女の務めをしっかりこなそうと、いつも懸命だったよ。エステアに似て、頑張り屋さんだったね」
「もう……お世辞はいいから」
「お世辞じゃないってば」
そこで、フェルの声が少し落ちた。
「……一応、聖女になにか危機があればわかるよう、簡単なまじないをかけてはいたんだ。エステア、君にもね。ただ、病のことまではどうにもできなくて……君には、辛い思いをさせてしまったと思う」
「そんな……フェルのせいじゃないんだから、気にしないで。母の病は、仕方のないことだったのでしょう。それより……母の話。この巻き戻りを抜け出せたら、もっと聞かせてちょうだいね」
「うん? いまじゃなくていいのかい?」
「いま聞いたら……あっという間に、定例の儀の時間になっちゃいそうだもの」
ふふっ、と微笑むと、フェルがわずかに目を見開く。
「君がそんなふうに笑うの、初めて見た気がする」
「初めては……言い過ぎじゃないの、さすがに」
「そうかなぁ。昔はもっと子どもらしいというか、屈託なく笑っていたし。……でも、やっぱりエステアは、笑っているほうが可愛いね」
照れる様子もなく、さらりととんでもないことを言ってきた。
「せ……聖女が可愛かったら、ダメでしょう……!?」
「どうして?」
「その……体裁というか、世間体というか……神聖な存在として、いつだって毅然としているべきというか……」
「それ、だいぶ神殿の都合が入っている気がするけれど……まあ、エステアが嫌ならもう言わないよ」
「嫌ってほどじゃ……この話はやめましょう! 頭が休まらないわ!」
フェルから顔を背ける。
なんだかいまは、彼の視線を受け止められなかった。
「というか……やっぱり私のこと、まだ子ども扱いしているでしょう。そうでなくとも、女性に向かってそんな簡単に『可愛い』と言えるだなんて……まさか、普段から言い慣れているんじゃないでしょうね」
目を引く容姿から、フェルは屋敷で働く女性たちに人気があった。
でも、もし彼が自分から甘い言葉をかけていたりしたら……想像するだけで、胸のあたりがむかむかとした。
そんな私の予想に反して、返ってきたのは真面目な調子の声だった。
「いや……こうして直接、誰かに言ったのは初めてかも。小さな子どもを可愛いとは思うけれど、エステアのはそういうのじゃなくて……なんだろうね。自分でも、うまく説明できないや」
珍しく、悩んでいるような様子だった。
「わかったわよ……変なこと言って、悪かったわね。冗談よ、冗談」
そう言って手を振ると、フェルはどこか楽しそうに笑う。
「それより、僕にとってエステアは……可愛いより、面白いのほうが勝っているからさ。僕、好きだよ。君が王子様に、自分から婚約破棄を叩きつけたの」
「しっ、仕方ないでしょう……! 私だってまだ、わけもわからず必死で――」
反論しながら、あの時のことを思い出す。
流れを変えようと、自分から婚約破棄を切り出してみたら……セオドリクどころか、メルディアまでもが呆気に取られていた。
結局、私を処刑する流れには戻ってしまったけれど。
離れでの不意打ちよりも、もっと大きく意表を突ければ、今度こそ――あと一歩、届くのでは。
そう思った途端、私はフェルのほうを振り向いていた。
「――婚約破棄。それよ、それ! やっぱり、メルディアを油断させるには……定例の儀しかないのよ!」
「そう……かなぁ。いくら鏡の力もあるとはいえ、そのまま同じことをやっても……上手くいく気はしないのだけれど。結局、王子様は君を殺そうとしてくるし、メルディアはなりふり構わず災いの病を振り撒くし」
「そのまま……じゃなければ、試す価値はあるのよね。それなら……」
腕を組んで、考え込む。
婚約破棄に重ねて、さらに相手の意表を突くような案を、いくつか頭の中に並べてみる。
「……あ」
ひとつ……突拍子もないことを思いついた。
「どうしたの?」
不思議そうな声のフェルに、これを言ったらどんな反応をするのか。
考えるだけで恥ずかしかったけれど、私だってそう思うのだから……きっと定例の儀の場も騒然とするだろう。
「……あのね、フェル。お願いが――」




