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そうして迎えた、私にとって五回目の午前中。

フェルと一緒に、打ち合わせを終えたマルクの様子を、広間へ続く回廊の近くから慎重に探る。

けれど、マルクは下位神官や神殿兵に指示を出し、祭具や配置の確認を済ませ、淡々と定例の儀の準備を進めていくだけだった。


「……普通に準備しているだけにしか、見えないわね」


「そうだねぇ……気配を消して近づいても、この場ですぐにどうにかできる感じじゃないし」


「気配……そういえば、その『気配を消す』のって、誰にも気づかれないようにする魔術なの?」


「魔術じゃないよ。魔力で無理やり、僕に意識が向かないようにしているだけさ」


「ふぅん……? なんか、フェルって魔術師なのに……魔術より、魔力をそのまま使ってばかりなのね」


フェルは曖昧に笑う。


「複雑なのは苦手なんだ。困ったことに、マルクの鍵束にかけられている守護の魔術も、ずいぶん複雑でね……僕の魔力じゃ、剥がせそうにない」


「……やっぱり、交渉の材料を探すしかないのかしら」


とはいえ、そんなものがいったいどこにあるというのか。

そもそも私たちの言うことなんて、最初から聞く気もないだろうし。

隣に立つフェルも、少し考え込むように目を細めた。


「交渉は難しくても……取引なら、まだ可能性はあるかも。彼の弱みとか、やましいところを見つけられれば、あるいは――」


「やましいところって……それ、結局は脅迫じゃない……?」


「そうならないよう、向こうにも得はさせるよ。そうすれば、一方的な脅迫じゃなくて、ちゃんと取引になるだろう?」


(そういうものかしら……)


いまいち納得できなかったけれど、もともと駆け引きの類には疎い。

それ以上、なにも言えなかった。


やがてマルクはひと通りの準備を終えたらしく、広間脇の控え室へ入っていった。

あとは定例の儀が始まるまで待つだけ――そんな雰囲気だった。


「今回は……もうダメそうね」


「……となると、次は朝かな。打ち合わせに入る前のマルクを見てみようか」


朝、と聞いてふと気づく。


「それって……私の身支度を待っていたら、遅くなるわよね。フェルがひとりで行くの?」


不安を押し隠せないまま、尋ねる。

ふたりでなるべく離れないように、と決めたばかりだったし、どうしても前回のことが頭をよぎってしまう。

フェルは片手をひらりと上げた。


「今度こそ、様子を見るだけ。勝手な真似はしないって、約束する」


「……本当に?」


いまいち信用しきれない。


(だって、フェルは……私のために、無茶をするんだもの)


自分が傷つくことも厭わず、気の遠くなるほどの時を繰り返してきた人だ。

どうしてそこまで――とも思うのに、なんとなく聞くことができなかった。

いたずらっぽく、彼が笑う。


「紙にでも書いて、残しておく?」


「……巻き戻ったら、残らないじゃない」


「それもそうだ。……で、あと少ししたら、また定例の儀が始まるけれど――本気でやるのかい?」


フェルが私の懐のあたりに目をやる。

先ほど受け取った劇物の小瓶を、そこにしまっていた。


「……やるわよ。また探し出される前に、自分の部屋に戻るわ」


冷静に言ったつもりだったけれど、最後のほうはわずかに震えていた気がする。

決意が揺らがないうちにと、足早に自室へ向かう。

フェルは黙って、私のあとをついてきた。


ひとりで部屋に入ると告げ、彼を廊下に残して扉を開ける。

どんな姿で命を落とすことになるかもわからないまま、その様子を見られるのは嫌だった。

もし死にきれなかったとしても、その時はその時だ。


懐から小瓶を取り出し、栓を抜く。

途端に、つんと鼻を刺すような臭いを感じて、一瞬だけ手が止まりそうになった。


(本当にこれを、飲むのね……)


躊躇している余裕はない。

目を閉じて、一気に飲み干す。


焼けつくような喉の痛みに咳き込み、口元を押さえる。

胃の底が強く掴まれたみたいに痛んで、足元が揺れた。

膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。

耳鳴りがして、顔じゅうがぐしゃぐしゃに濡れていく。


苦しい。熱い。怖い。

それでも、これでまた戻れるという事実が、逃げ出したくなる自分を支えていた。

やがて視界が白くにじみ、なにもかもが遠のいていって――そのまま意識は途切れた。



 ◇ ◇ ◇



六回目。

巻き戻った朝、すぐに廊下へ飛び出したけれど……フェルの姿はなかった。

彼が言っていたとおり、先にマルクのもとへ向かったのだろう。

私も急いで身支度を整える。


部屋を出て、北棟の廊下を進み、大神殿へ抜ける。

そのまま上位神官区画へ行こうとして――足が止まった。


(フェルは、ひとりで勝手な真似はしないって、約束してくれたし……私まで同じところへ行くより、マルクのことを少し調べてみたほうがいいかしら)


「君は君で、自分にできることを」と、フェルは言っていた。

彼のことが心配な気持ちに変わりはない。

けれど、何度もやり直しを重ねてきたフェルの判断に従ったほうがいいことも、わかってはいた。


ひとり小さく頷き、私はひとまず広間を目指した。

回廊では、朝の祈りを終えたらしい神官たちが、慌ただしく行き交っていた。

祭具を運ぶ者、神殿兵と言葉を交わす者――定例の儀を前に、大神殿の空気は張りつめている。


「ねえ、少しいいかしら?」


通りかかった神官に声をかける。

朝のこの時間、しかも広間の近くにいる私がよほど珍しかったのだろう。神官は目を丸くした。

そのひとりを皮切りに、私はまわりの神官たちにも、普段のマルクの様子について、それとなく尋ねて回った。


「特に変わりなく、務めに励んでおられる」

「祭具や消耗品の取りまとめもしておられますし、お忙しそうではありますね」


似たような答えばかりが返ってくる。

そんななか、ひとりの神官が小さく漏らす。


「……そういえば、以前一度だけ――」


そこで神官は、はっとしたように口をつぐむ。


「一度だけ……なに?」


「い、いえ……なんでもありません。失礼いたしました」


露骨に視線を逸らした神官は、逃げるように去ってしまった。


「……」


フェルの言葉が頭をよぎる。


――『マルクの弱みとか、やましいところを見つけられれば、あるいは……』


本当に……マルクにはなにか、後ろ暗いことがあるのかもしれない。

わずかに俯いた私は、その場に立ち尽くした。


(以前一度だけ、ね……彼がなにをしていたのか、誰にどうやって聞き出せばいいかしら)


そんなふうに考え込んでいると。


「どうしたの? 難しい顔しちゃって」


「えっ?」


声をかけられ、視線を上げると――いつの間にか、すぐ目の前にフェルの顔があった。


「きゃあっ!?」


小さく叫んで後ずさる。

まわりが一瞬、静かになった。


「フェ、フェル……びっくりさせないでよ!」


「驚かせるつもりはなかったんだけどなぁ……別に気配も消してないし」


この場に留まるのが気まずくて、慌ててフェルを回廊の曲がり角まで引っ張っていく。


「……で、どうだったの?」


そう聞くと、彼は腕を組んで壁にもたれた。


「マルクが打ち合わせに向かうまで、彼の執務室で様子を見てきたよ。軽く食事を取りながら、下の者に指示を出して……ごく普通に仕事をしていたね」


「そう……あのね、私も神官たちに尋ねてみたのよ。普段のマルクの様子を。でも同じように、特に変わったところはなし。ただ……ひとり、気になることを言いかけた神官がいたの。『以前一度だけ――』って」


「一度だけ?」


「続きは聞けなかったけれど……なにか、ある気はするの」


「……少し、つついてみようか」


フェルはその神官を探しに戻り、私もあとを追った。

少し離れたところから彼の様子をうかがっていると、しばらくして戻ってくる。

どうやら神官からうまく話を聞き出せたようで、すぐに口を開いた。


「一度だけ――書庫の近くにある小部屋で、マルクがなにかを隠したように見えたらしい。あとでそこを確かめても、なにもなかったから、見間違いだと思ったって」


「なにか……よくわからないけれど、まだ時間もあることだし……その部屋に行ってみましょうか」


私たちはすぐに、書庫のほうへ向かった。



 ◇ ◇ ◇



小部屋の扉を開けると、なかにひと気はなかった。

古びた書棚と書き物机があるだけの、狭い部屋だ。

棚はもちろん、机の上や脇の小棚、さらに机の下まで、分厚い本のようなものや箱が押し込まれている。


私たちは手分けして、部屋のなかを探すことにした。

フェルは書棚、私は机まわりへ。

まずは、机の上や小棚から物をどけていく。

机の下に押し込まれたものも、片っ端から引っ張り出した。


箱のふたを順に開け、本と本のあいだまで丹念に調べる。

怪しいものはなにも出てこない。

今度は積まれた本を一冊ずつ開いてみる。

どれも古い記録を綴じた帳簿らしかった。


フェルも黙って手を動かし続けている。

時間だけが過ぎていく。

このまま手がかりがなかったらどうしよう――そう思った時だった。

一冊だけ、古びた表紙に反して、妙に新しい綴じ紐の帳簿が目に留まった。

なんとなく気になって手に取り、そっと開いてみる。


最初の数頁に並んでいたのは、やはり古い記録ばかりだった。

けれど、途中で指先が止まる。

破れを補修したように見える頁があって、そこだけ妙に厚い。


端に爪を差し入れると、貼り合わされた紙がわずかに浮いた。

そのあいだから現れたのは、さらに薄い、小さな冊子だった。


なんだろう、と開いてみる。

そこには、品名とも数ともつかない短い書き込みが、走るような字で並んでいた。

意味はよくわからない。

ただ、こんなふうに隠しておくようなものが、まともなはずもなかった。


「フェル、これ……」


「うん?」


書棚のそばで座り込んでいたフェルが振り返る。

私は、帳簿のなかに薄い冊子が隠されていたことと、その中身を簡単に伝えた。


「うーん……怪しいといえば怪しいけれど、これだけじゃ、そこまでして隠すものだったのかはわからないね」


フェルが肩をすくめる。


「でも、書棚のほうはなにもなかったんでしょう? だったらもう、これしかないわよね……時間もないし、直接マルクに見せてみましょうか」


「見せるって……しらを切られるだけならまだしも、もし騒がれたりしたらどうするの?」


「その時は先に……ねぇフェル。()()()()は、持ってきてる?」


「……まあ、そうなるよね」


彼は懐から、前回私が自分で死ぬのに使った劇物の小瓶を取り出した。

受け取ろうと手を伸ばす。


「そういえばさ、どうだった? これ」


ふいにフェルが聞いてきた。

飲んだ時のことを思い出して、つい顔が険しくなる。


「楽ではなかったわね……痛みや苦しみが、処刑よりマシかと言われたら――微妙。でも、処刑を待つ時間なんて……無駄なだけだものね」


小さくため息をついてから、小瓶を手に取った。


「……広間へ行きましょう。マルクはもう、定例の儀の準備に入っているはずよ」

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