私は尋ねていませんでした
アベルは闇の中で目を覚ます。
部屋の闇ではない。夜の闇でもない。
そこにあるのは“無”だった。
床も、壁も、空も存在しない。ただ果てのない空虚だけが、四方から静かに押し寄せている。
音はない。
呼吸の反響すらない。
時間の感覚さえ曖昧だった。
アベルは――ただそこに存在している。
彼は歩き出す。
足元には何もない。それでも彼は進む。
ゆっくりと。
意図的に。
一歩踏み出すたびに、その身体が果てのない虚無へ沈み込んでいくように感じられる。
その時――
一つの存在が現れる。
純白のマントを纏った人物だった。
その白は周囲の闇を喰らうかのように輝いている。顔は見えない。しかし、二つの金色の瞳だけが遠い太陽のように輝いていた。
白いブーツ。
白いズボン。
白いシャツ。
その全てが静かな神聖さを纏い、周囲の空間そのものを歪ませている。
アベルは胸元へ手を伸ばす。
「……お前は誰だ」
彼の声は虚無に飲み込まれる。
その存在は答えない。
ただ静かに指を持ち上げ、アベルの額へ軽く触れる。
その瞬間――
アベルの身体が後方へ吹き飛ぶ。
彼は落ちる。
ただひたすらに。
落ち続ける。
下には終わりのない虚無が広がっていた。
かつて見たどの空よりも深く、暗い。
白い存在の光も、次第に遠ざかっていく。
薄れ――
やがて完全に消える。
アベルの落下速度はさらに増していく。
速く。
さらに速く。
そして――
突然、彼は着地する。
アベルの目が開く。
彼はアストラの膝の上にいる。
「……どのくらい気を失っていた?」
アベルが尋ねる。
「二十分ほどです」
アストラが静かに答える。
「そうか……」
アベルは天井を見上げる。
――あれは、一体何だったんだ。
その瞬間。
[通知]
大きな鐘の音が頭の中へ響く。
[クラス:神聖仲裁者]
[説明:魂と反神性の力を操る支配者。束縛した魂を己の意志で戦わせる。]
[スキル:魂の変容が進化しました]
[魂の変容 → 魂の支配]
[説明:以下の能力を獲得しました]
[魂を強制的に支配し、自身の兵として扱う]
[複数の魂を融合し、一つの存在へ変換する]
「……悪くない」
アベルが小さく呟く。
彼はアストラの膝から頭を上げ、ゆっくりと身体を起こす。
「申し訳ありません、アベル様」
アストラが静かに言う。
アベルは彼女へ視線を向ける。
「耳が……少し変化しています。エルフのようです」
「……エルフは好きか?」
アベルは自分の耳へ触れる。
確かに先端がわずかに尖っていた。しかし、本物のエルフほど長くはない。
――オーバーライドの副作用か。
「オープンスキル:オーバーライド」
[スキル:オーバーライドモード Lv.1]
[説明:全ての制限を超越する禁断状態。発動中、全ての身体能力および魔力性能が300%上昇する。圧倒的な破壊力によって戦場を支配可能。]
[発動中、使用者の精神性に変化が発生し、より冷酷かつ破壊的になる。]
[ペナルティ:急速かつ継続的なMP消費。初回使用後、一時的な身体変異が発生する可能性があります。]
アベルは青い画面を見つめる。
そして頭を掻く。
「……まあ、一時的らしいな」
彼は小さくため息を吐く。
周囲を見回す。
かつて美しかった部屋は、今や瓦礫の山へと変わっていた。
中央にはドラゴンの死体が横たわっている。
鱗は砕け、牙は折れ、翼は切断されていた。全身に無数の傷跡が刻まれている。
アベルもアストラも、その獣へ一切の慈悲を与えなかった。
アベルは膝を支えに立ち上がる。
アストラも続いて立ち上がる。
「アストラ」
アベルが口を開く。
「前のモンスターから回収できる素材を、可能な限り集めろ」
「承知しました」
アストラは頭を下げ、そのまま視界から消える。
アベルはドラゴンの死体へ歩み寄る。
[ソウル・ドミニオン 発動]
一瞬――
何も起こらない。
しかし次の瞬間。
ひび割れた鱗の下で淡い光が瞬く。
一度。
二度。
そして広がる。
光はドラゴンの全身の亀裂から漏れ出し始める。
まるで内部に閉じ込められていた何かが、外へ出ようとしているかのようだった。
死体が震える。
巨大な身体から砂埃が滑り落ちる。
低い唸り声のような音が部屋を満たす。
マナだ。
純粋で未精製のマナが、死体から立ち昇っていく。
最初は細い糸のようだった。
だが次第に増えていく。
さらに。
さらに。
そして――収束する。
ドラゴンの胸部上空。
無数の糸が捻じれ、一点へ凝縮されていく。
球体が形成される。
最初は小さい。
しかし瞬く間に膨張し、巨大な光の球へ変化する。
まるで生きた心臓のように脈動していた。
その瞬間――
球体が激しく震える。
そして後方へ飛ぶ。
逃げようとしている。
空気が歪むほどの速度で、崩壊した部屋から離脱しようとする。
アベルの目が細まる。
彼は静かに手を上げる。
そして――
握り潰す。
球体周囲の空間が崩壊する。
四方から圧力が押し寄せ、その動きを完全に止める。
球体は激しく震えていた。
その光は恐怖に揺れている。
深紫色のオーラがアベルの周囲で燃え上がる。
紫色のマナが鎖のように空中へ伸び、球体へ巻き付いていく。
光は暴れる。
激しく。
だが逃げられない。
「……許可は求めていない」
アベルの声は冷たい。
絶対的だった。
彼の金色の瞳が輝く。
ドラゴンの魂は理解する。
アベルの“支配”を。
抵抗すればするほど――
拘束はさらに強く締め付けられていく。
[通知]
鐘の音が再び響く。
[名称を設定可能:_____]
縛られてなお。
圧倒されてなお。
その魂はまだ牙を剥いている。
アベルの口元がわずかに歪む。
「……ファング」
[名称を設定しました:Fang]
その瞬間。
球体の動きが止まる。
そして――
崩壊する。
光が内側へ折り畳まれていく。
まるで空間そのものが圧縮されているかのようだった。
周囲の紫色のマナが激しく流れ込み、中心核へ注がれていく。
部屋が震える。
球体は再び膨張を始める。
しかし今度は――
形を持っていた。
最初に形成されたのは四肢。
巨大な爪を持つ脚。
だが完全な実体ではない。
濃密なマナによって構成された流動体。
意志だけで形を保っている。
次に胴体。
翼。
頭部。
最後に尾。
全てが純粋なエネルギーから圧縮され、ドラゴンの姿を形成していく。
光は徐々に暗くなり――
深紫色へ変化する。
完成した巨大なドラゴンは、迷うことなくアベルの前へ跪く。
アベルはしばらくそれを見つめる。
そして一度だけ頷く。
「……悪くない」
彼は背を向け、そのまま歩き出す。
「……新しいな」
その時。
風のような速度でアストラが現れる。
彼女は深紅の狼の死体を抱えていた。
首は切断され、身体には無数の斬撃痕が刻まれている。
彼女はそれらをアベルの前へ放る。
「回収できたのはこれだけです」
アベルはわずかに首を傾げる。
「オークはどうした?」
アストラは頭を下げる。
「申し訳ありません。到着した時には、死体が消えていました。血痕すらなく……最初から存在していなかったかのように」
「……そうか」
アベルは短く答える。
「まあ、今はどうしようもないな」
彼は狼の死体へ近づき――
突然止まる。
振り返り、アストラを見る。
彼は軽く手で合図する。
アストラは迷うことなく膝をついた。
アベルは彼女の頭へ手を置き、軽く撫で始める。
数秒後、手を離す。
「よくやった。動きに一切の迷いがなかった。報酬として、新しい短剣を作ってやる」
「……ありがとうございます」
アストラが静かに答える。
アベルは再び狼の死体へ視線を戻す。
しゃがみ込み、一体へ触れる。
「……やるか」
淡い光が狼たちの身体から浮かび上がる。
十体全ての上空へ、小さな球体が形成される。
アベルは少量のマナを流し込み、それらを安定化させる。
球体が鮮やかな紫色へ染まる。
そして膨張する。
四肢。
尾。
頭部。
マナの身体へ毛並みが形成されていく。
やがて十匹全てが完全な形を得る。
マナが安定し、その姿が固定される。
[通知]
[主権の鍵を獲得しました]
[説明:SSランクモンスターが満ちたダンジョンへの扉を開く鍵。どの扉にも使用可能。]
アベルの手の中へ、黒曜石の鍵が現れる。
王冠のような形状をした柄には、紫色の血管のような光が走っていた。
彼はしばらくそれを見つめる。
そしてインベントリへ収納する。
その後、ずっと彼を見つめていたファングへ視線を向ける。
「よう、ファング」
ドラゴンはゆっくりと頭を上げる。




