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神社紀行  作者: flat face
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吉田神社

 吉田神社は平安京の守護神として創建された神社とされます。

 境内には斎場所大元宮など様々な社があります。

 私は大元宮に参拝するのが目的でそこが公開される節分祭に吉田神社へ詣でました。


 京阪電車の出町柳駅で降り、京都大学の傍を通って神社に向かいました。

 京大の自由奔放な校風を反映してか、歩道には昼寝用の畳が置かれ、凍死しないよう最近の気温が書き込まれてもいました。

 ただし、立て看板は撤去されたのか見当たらず、行き交う学生にも取り立てて奇異な印象はありませんでした。


 節分後日祭であったからか吉田神社は二日酔いの素面状態といった風情で、露店は畳まれて辺りにごみが散乱し、それを鴉の群れが突いていました。

 広場のようなところではうずたかく積まれた何かが燃やされ、曇天に灰が舞い上がっていました。

 残り物であろう唐揚げの匂いなどを嗅ぎながら、私は大元宮を目指しました。


 大元宮は吉田兼倶が造営し、吉田神道の根元殿堂とされました。

 兼倶は室町時代の乱世が生んだ怪物で、吉田神道と呼ばれる新宗教としての神道を実質的に創唱し、奇想天外な策謀によって吉田家が神道界を数百年も支配する道を開いたと言われます。

 彼は王法や仏法に対して神道の自立をあからさまに宣言し、江戸時代には吉田家が神職界の宗家として宗源宣旨ならびに裁許状を発行することで全国の神職を支配しました。


 現在でも節分祭では大元宮を中心に特殊な神事が行われているそうです。

 吉田神道の教義において宇宙軸を現す大元宮は、始まりの神である虚無太元尊神を中心に祀り、そこから生まれ来る天神地祇八百萬神を祀ることで全国の神々を祀る社で、様々な神徳が授けられるとされます。

 兼倶が卜部兼直に仮託して制作した偽書である『神道大意』にて太元尊神は国之常立神とされますが、中世の神道説で国之常立とは天之御中主神と、御中主は天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊とされてもいます。狭霧尊の名は聖徳太子の作と伝えられる偽書の『先代旧事本紀』に見られます。


 そのような神を祀る大元宮は、平素は中門からしか参拝できないのですが、三箇日と節分祭ならびに毎月の朔日に限り、特別に詣でることが出来ます。

 本殿は茅葺きの八角造りという日本の建築史上において特異な構造を持ち、この形式は密教・儒教・陰陽道・道教など諸宗教や諸思想を統合しようとした吉田神道の理念が形に表されたものであると言われます。

 塀のように本殿を囲む東西諸神社には延喜式内社の三一三二座が奉祀され、社内後方には天照御大神の東神明社と豊受大神の西神明社があり、明治維新まで神祇官の儀式を代行した八神殿の跡もありました。


 そのような神道のパンテオンを訪れ、私は奇異の感に打たれました。

 日本の伝統的な建築は自然の有様に即した構築が特質とされていますが、大元宮はそれにしては余りにも人工的でした。

 その幾何学的な構成は新興宗教の本部を連想させるほどで、形而上学的な理論体系を神道史上で初めて本格的に構築した兼倶の性格が反映されているのでしょうか。


 兼倶はその理論に応じた様々な新しい儀礼も創出しており、それを行う施設として大元宮は設けられ、日野富子も出資しています。

 大元宮の本殿には方相氏の木彫りが添えられており、方相氏が鬼を追い払う追儺式などの節分祭は室町時代から執行され、信仰と伝統を誇る京洛の一代行事であるそうです。

 また、兼倶は自身の葬儀で初めて神式の葬儀を執行させ、その社である神龍社も見てきました。


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