第8話 『森の無口な賢者』
村が見えてから、悠の足取りは少しぎこちなくなっていた。
木々の向こうに見える小さな集落。
煙の上がる屋根。
畑。
人の暮らし。
つまり。
会話。
(……どうしよう)
まだ村に着いてもいないのに、脳内では既に対人戦が始まっていた。
リアはそんな悠の内心など知らず、明るく言う。
「もうすぐだよ! あそこがルーン村!」
「……」
悠は小さく頷く。
その時だった。
風向きが変わった。
森が静かになる。
鳥の声が消えた。
「……?」
リアが足を止める。
表情が少し硬くなった。
「……変」
さっきまでのおしゃべりな空気が消えていた。
森の匂い。
土。
草。
その中に。
獣の臭いが混じっている。
重い。
生臭い。
嫌な気配。
ガサ――ッ!
森の奥で枝が折れた。
大きい音。
悠も反射的にそちらを見る。
次の瞬間。
木々を押し退けるようにして、それは現れた。
「――っ」
巨大だった。
熊。
そう見えた。
だが普通の熊じゃない。
肩までの高さだけで人間以上。
黒い毛皮。
異様に発達した前脚。
赤く濁った目。
牙の間から白い息が漏れている。
地面を踏むだけで、土が震えた。
「……グルル……」
低い唸り。
リアの顔から血の気が引く。
「……嘘……」
声が震えていた。
「なんで……村の近くに……」
悠は固まる。
(でかい)
第一感想がそれだった。
でかい。
いや。
待って。
これは。
本当に危ないやつでは?
リアは一歩前に出た。
籠を抱えていた腕が強張る。
「ユウ、下がって」
「……」
「早く!」
強い声だった。
悠は目を瞬かせる。
リアは震えていた。
怖いはずだ。
なのに。
庇っている。
自分を。
(……え)
混乱する。
だって。
まだ会ったばかりだ。
まともに話してもいない。
それなのに。
熊型魔物――その巨大な魔獣は低く身を沈めた。
前脚が地面を掴む。
突進姿勢。
リアの顔が強張る。
「……っ!」
逃げなきゃ。
そう思う。
でも。
足が動かない。
その瞬間だった。
視界の端に。
見覚えのある光が走った。
危険対象確認
存在保護優先
管理権限自動補助開始
(……え?)
ログ。
アーカイブの時の。
目の前に半透明の文字列が浮かぶ。
思考より先に、何かが反応していた。
脅威判定:高
処理提案
記録修正:承認待機
待機?
何を。
理解する前に。
魔獣が飛び出した。
「ユウ!!」
リアの叫び。
世界が一瞬、遅くなる。
悠は反射的に思った。
(危ない)
自分か。
リアか。
分からない。
ただ。
危険だ、と。
その瞬間。
権限が動いた。
音はなかった。
閃光も。
爆発も。
魔法陣もない。
ただ。
巨大な魔獣の姿が。
ふっと薄れた。
「……え?」
リアが息を呑む。
黒い毛並み。
牙。
赤い目。
その全部が。
砂でも崩れるみたいに、静かに消えていく。
輪郭がほどける。
存在そのものが、書き換えられるように。
そして。
次の瞬間。
何もなかった。
森だけが残っていた。
「…………」
沈黙。
風が吹く。
葉が揺れる。
鳥の声が、遠くで戻り始める。
リアは固まっていた。
籠を抱えたまま。
目を見開いて。
理解できないものを見る顔。
悠も固まっていた。
(……やった!?)
いや。
やった。
たぶん。
でも。
何を?
自分で?
勝った?
というか。
消えた。
本当に。
魔獣が。
ログが視界に浮かぶ。
処理完了
記録消去:成功
(記録……消去……?)
怖い単語が見えた。
悠は少し青ざめる。
リアはゆっくり振り返った。
視線が合う。
「……ユウ」
「……」
終わった。
そう思った。
怖がられる。
当然だ。
さっきまでいた魔獣が、いきなり消えた。
どう見ても普通じゃない。
悠は言い訳を探す。
無理。
何も思いつかない。
「…………」
沈黙。
しかし。
リアが見ていたのは。
消えた魔獣ではなかった。
悠だった。
彼の顔。
硬直した肩。
青い顔。
怯えたみたいな目。
(……あれ?)
リアは少し混乱する。
怖い。
確かに怖い。
今のは意味が分からない。
魔法でもない。
見たことがない。
でも。
ユウ本人が、一番びっくりしているように見えた。
そのズレが。
リアの警戒心を少し鈍らせる。
「……えっと……」
リアは困った顔になった。
「助けて……くれた?」
「……」
悠は数秒止まる。
そして。
小さく。
「……たぶん」
と答えた。
たぶんだった。
本当に。
その後。
二人は少し早足で森を抜けた。
会話は少ない。
いや。
ほぼなかった。
悠は内心それどころではない。
(消した……)
魔獣を。
音もなく。
何か。
とんでもないことをした気がする。
そして。
村の入り口が見えた頃。
異変はもう始まっていた。
「あっ、リア!」
畑仕事をしていた村人が手を振る。
だが。
視線はリアではなく。
その隣に向いていた。
「誰だ、その兄ちゃん?」
「……!」
悠が硬直する。
リアは少し迷って。
それから。
森を振り返った。
「えっと……」
説明が難しい。
空から来て。
喋らなくて。
熊魔獣を消した。
情報量が多い。
結局。
リアが口にしたのは。
「……森で助けてくれた人!」
だった。
その言葉だけが先に広がる。
森で。
リアを助けた。
無口な旅人。
大きな魔獣が消えたらしい。
何か凄い人らしい。
小さな村の噂は早い。
悠が状況を理解する頃には。
既に。
新しい呼び名の芽が生まれ始めていた。
――森の賢者?
本人の意思とは無関係に。




