第46話 『竜の谷』
それは神話ではなく。
現実の損傷だった。
――だからこそ。
次の目的地が決まった。
竜境。
通称。
竜の谷。
◇
旅は数日続いた。
王国領を離れ。
街道は細くなり。
やがて。
舗装された道も消えた。
岩場。
山岳地帯。
風が強い。
空は高く。
雲が近い。
「うわぁ……!」
リアが崖の上から声を上げる。
「すご……!」
眼下。
巨大な谷が広がっていた。
幾重にも連なる断崖。
深い裂け目。
霧の流れる谷底。
岩肌を縫うように細い滝が落ちている。
遠く。
空を巨大な影が横切った。
翼。
飛竜だった。
フィオが息を呑む。
「……本当に……いる……」
セレスティアは周囲を警戒していた。
「竜境は未踏領域も多いと聞きます」
レオンは景色を見て笑う。
「いいな」
「……何が……?」
悠が聞く。
「冒険って感じだろ?」
「……」
分からなくはない。
でも。
悠の感想は少し違った。
(……高い……)
(落ちたら終わる……)
(道……細い……)
恐怖の方が勝っていた。
風が吹く。
冷たい。
山の匂いがした。
土。
岩。
雪解け水。
そして。
どこか。
獣に似た気配。
この場所は。
人の領域ではない。
そう感じさせる空気があった。
◇
竜境への正式な道は少ない。
案内役もほぼいない。
理由は単純。
危険だからだ。
今は谷沿いの古い交易路を進んでいる。
半ば廃道だった。
「親! 高い!」
ノクスだけは上機嫌だった。
悠の肩から飛び立ち。
ぱたぱたと周囲を旋回する。
「……離れすぎ……危ない……」
「大丈夫!」
どこから来るのか。
その自信。
黒い小竜は風に乗るのが上手かった。
リアが笑う。
「ノクス、楽しそうだね」
「空!」
元気である。
非常に。
レオンが見上げる。
「飛べる奴はいいよなぁ」
「レオンは落ちそう」
「失礼だな」
その時だった。
上空。
影。
セレスティアが即座に顔を上げる。
「伏せて!」
風圧。
次の瞬間。
巨大な飛竜が谷上空を横切った。
「っ!?」
悠は思わず身を低くした。
大きい。
普通に。
大きい。
翼を広げれば馬車数台分はある。
青灰色の鱗。
鋭い嘴。
谷風を切り裂きながら飛び去っていく。
リアが呆然と見送る。
「……飛竜……」
セレスティアは警戒を解かなかった。
「こちらへ興味を示さなかったのは幸運です」
「縄張り意識が強いって聞くな」
レオンが言う。
悠はまだ固まっていた。
(……あれと戦うの……?)
嫌だった。
非常に。
管理権限があるとか。
そういう問題ではない。
怖いものは怖い。
その時。
「……?」
悠は違和感に気づいた。
ノクス。
静かだった。
さっきまで騒いでいた小竜が。
空を見上げたまま。
動かない。
「……ノクス?」
「……」
返事がない。
珍しい。
フィオが首を傾げる。
「どうしたの……?」
ノクスは。
谷の奥を見ていた。
霧の向こう。
さらに深い場所。
金色の瞳が。
何かを探すように揺れる。
「……親」
声が。
少し違った。
悠は眉を寄せる。
「……?」
ノクスは小さく呟く。
「……知ってる……?」
全員が見る。
本人――本竜?――も混乱しているようだった。
「……何を……?」
悠が聞く。
ノクスは首を傾げる。
「……分かんない」
でも。
視線は逸れない。
谷の奥。
深い霧。
「……帰る……?」
その言葉に。
空気が少し変わった。
リアが小さく言った。
「帰る……?」
ノクスは困ったように羽を揺らす。
「……匂い……?」
「……匂い……?」
「……懐かしい……?」
悠は胸がざわつくのを感じた。
ログ。
小さな反応。
対象個体:ノクス
高反応領域接近
……やっぱり。
この谷。
ノクスと何か関係がある。
まだ分からない。
でも。
偶然じゃない。
風が強くなった。
霧が流れる。
谷の奥。
断崖の向こう。
何かがある。
◇
その日の夕方。
一行は岩棚で野営準備をしていた。
焚火。
簡易結界。
乾燥肉。
旅慣れたレオンが火を見ながら言う。
「明日には谷の深部だな」
「危険度が上がります」
セレスティアが地図を確認する。
リアは水を汲みに行き。
フィオはノクスの隣で座っていた。
悠は崖際に立つ。
空。
夕焼け。
竜境の山々が赤く染まっていた。
綺麗だった。
静かで。
少しだけ。
怖いくらいに。
その時。
ノクスが急に顔を上げた。
「……親」
「……?」
小竜の瞳が見開かれる。
同時。
谷全体を揺らすような。
低い音が響いた。
――ォォォォォ……
風?
違う。
咆哮。
全員が立ち上がる。
谷の向こう。
霧。
山影。
そこに。
何かいた。
巨大だった。
断崖そのものが動いたように見える。
影。
翼。
そして。
二つの金色の光。
悠は息を呑んだ。
(……でか……)
影が。
こちらを見ていた。




