第16話 『失いたくない』
異変は、その夜に牙を剥いた。
最初の悲鳴は村外れから聞こえた。
「魔物だ!!」
夜の静寂が破られる。
悠は反射的に顔を上げた。
ドルフの家。
食事の後だった。
外から慌ただしい足音。
叫び。
家畜の鳴き声。
「……!」
ドルフが即座に立ち上がる。
壁に立てかけてあった斧を掴んだ。
「リア、中にいろ」
「でも――」
「いいからだ!」
低い声だった。
いつもの穏やかな村の空気じゃない。
戦う人の声。
悠の胸が強く脈打つ。
嫌な予感。
いや。
もう予感じゃない。
視界には警告が浮かんでいた。
汚染個体接近
群体反応確認
深層汚染進行中
ノクスが唸る。
「……ぐるる」
外。
遠くで。
何かが吠えた。
その声は獣に似ていた。
でも。
どこか歪んでいた。
リアが不安そうに窓を見る。
「……来てる」
悠も外へ出た。
夜の村。
松明の光。
人々が慌ただしく動いている。
そして。
森の入り口。
そこにいた。
「……っ」
狼型の魔物。
だが。
普通じゃない。
身体が黒ずみ。
皮膚の一部が崩れたように歪んでいる。
目は赤い。
異様だった。
しかも。
一体じゃない。
森の暗闇に。
赤い目が次々と浮かんでいた。
「数が多い……!」
村人の顔が青ざめる。
ドルフが斧を構える。
「柵まで下がれ!」
狼たちは低く唸っていた。
その動きには妙な統一感があった。
まるで。
何かに押されているように。
視界が反応する。
深層汚染個体
記録侵食率:増大
(……侵食)
悠の喉が乾く。
魔物。
危険。
分かる。
助けるべきかもしれない。
でも。
身体が動かなかった。
怖い。
魔物じゃない。
その後が。
(……目立つ)
力を使えば。
隠せない。
森の魔獣の時とは違う。
皆が見る。
知られる。
何者なのか聞かれる。
怖がられるかもしれない。
拒絶されるかもしれない。
胸が重くなる。
昔の感覚。
浮いた時。
変だと思われた時。
距離ができた時。
頭の奥が冷えていく。
(……どうする)
狼たちが柵へ迫る。
村人たちが武器を取る。
ドルフが前へ出る。
「来るぞ!」
次の瞬間。
魔物群が一斉に走った。
悲鳴。
衝突音。
柵が揺れる。
「押さえろ!」
「くそっ!」
村は一気に混乱へ沈んだ。
悠は立ち尽くしていた。
動けない。
頭では分かっている。
でも。
足が出ない。
その時。
リアの声が聞こえた。
「危ない!」
視線が動く。
一頭。
黒い狼が柵を飛び越えていた。
子供へ向かっている。
リアが飛び出した。
「っ!」
子供を突き飛ばす。
間に合った。
だが。
狼の爪が。
リアの腕を切り裂いた。
「――っ!」
赤。
血。
時間が止まる。
「リア!?」
誰かが叫ぶ。
リアが地面に倒れる。
狼が再び牙を向けた。
その瞬間。
悠の中で。
何かが切れた。
「……」
頭が真っ白になる。
怖かった。
目立つのが。
知られるのが。
拒絶されるのが。
でも。
それ以上に。
胸の奥から湧き上がった感情があった。
リアが倒れている。
血が見える。
呼吸が浅い。
頭に浮かぶ。
薬草採り。
笑う顔。
苦臭草で騒いだ日。
ありがとう、と言われた夕暮れ。
ここ。
悪くない。
そう思った場所。
失う?
また?
胸が熱くなる。
「……嫌だ」
小さな声だった。
でも。
確かだった。
「……失いたくない」
その言葉と同時に。
視界が真白に染まった。
感情同期確認
管理権限制限解除
緊急補正開始
世界が止まる。
風。
音。
時間。
全部が遠くなる。
悠の周囲に光が浮かんだ。
「……え?」
村人たちが息を呑む。
ノクスが翼を広げる。
空気が震えた。
悠自身も止まれなかった。
管理権限が。
感情へ反応している。
膨大な情報が流れ込む。
理解できない。
でも。
願いだけは明確だった。
――消えてほしい。
村を傷つけるもの。
この汚染。
全部。
悠の口が動く。
詠唱はなかった。
必要なかった。
空が、光った。
「――」
瞬間。
夜空に巨大な魔法陣が現れた。
村全体を覆うほどの規模。
誰も見たことのない紋様。
風が逆巻く。
「な……」
ドルフが絶句する。
空気が変わった。
森の上空。
雲が割れる。
白銀の光が降り注いだ。
それは炎でも雷でもない。
もっと根源的なものだった。
記録そのものを書き換える光。
森へ落ちる。
音はない。
なのに。
世界が震えた。
黒い狼たちが止まる。
赤い目が揺れる。
そして。
光に触れた瞬間。
黒い汚染が剥がれ落ちた。
煙のように。
霧のように。
苦しげな声。
歪みが消えていく。
森の奥。
黒い靄が燃えるように浄化される。
空まで変わった。
夜雲が割れ。
星が現れる。
風が吹く。
冷たく澄んだ空気。
汚染は。
消えていた。
圧倒的だった。
誰も動けない。
悠だけが立っている。
視界のログが最後に流れた。
深層汚染:一時浄化
管理権限過負荷警告
そこで。
光が消えた。
「……ぁ」
力が抜ける。
膝が揺れる。
悠は息を切らしながら立ち尽くした。
静かだった。
さっきまでの混乱が嘘みたいに。
虫の声すらない。
魔物は倒れていた。
森は浄化されていた。
村は――残っている。
リアの無事を確認する。
生きていた。
治癒の光まで巻き込まれていたのか、傷も浅くなっている。
安堵が遅れて押し寄せた。
その時。
悠は気づいた。
「……」
視線。
村人たちだった。
皆。
こちらを見ている。
ドルフ。
リア。
ミナ。
子供たち。
誰も言葉を発しない。
ただ。
沈黙だけがあった。
悠の胸が冷える。
(……あ)
やってしまった。
隠せなかった。
もう。
普通ではいられない。
夜風が吹く。
その中心で。
悠はただ、立ち尽くしていた。




