第2話 『暴れイノシシの迷惑な祝福をハックせよ』
パーティを結成して三日目。
ケンタたち三人は、リューゲの街の冒険者ギルドの前に立っていた。
朝の陽射しが石畳を暖め、露店の獣人たちが威勢よく声を張り上げている。異世界の朝は地球のそれよりもわずかに赤みがかっていて、双月が地平線にうっすら残る時間帯だ。
「さて、ギルド初登録だ。異世界の冒険者デビューだぜ」
「その割には手ぶらよね」
ライラが呆れたように言った。紺色のローブは洗濯してあるが、杖の先端はまだ欠けたままだ。
「ケンタさん、武器は本当に持たないんですか……?」
ドランがおずおずと聞く。革エプロンの下から、自作したらしいファスナー付きのポーチを覗かせている。昨夜から寝ずに試作していたらしい。職人の業は深い。
「武器より大事なものがある」
ケンタはバックパックのサイドポケットを叩いた。
「情報と、塩と、ミントタブレット」
「最後のは武器じゃないわよ」
「ドランはいつもいろいろ持ち歩いてるな」
「そ、そうかな……。備えあれば憂いなし、だから」
ギルドの受付は、意外にもあっさりしていた。ギルドカードなるものに名前を書き、ランク最低の「銅」からスタート。受付嬢のラミア(蛇の下半身を持つ亜人)は、ケンタのことを「魔力ゼロ? まあいいけど、死んでも知らないわよ」と一蹴した。
掲示板を眺める。銅ランクで受けられる依頼は限られていた。
「薬草採取、排水溝の清掃、家畜の世話……うーん、『暴れイノシシの討伐(報酬:肉は持ち帰り可)』。肉か、これどう?」
「あ、それ! 暴れイノシシの肉、すっごく美味しいのよ! この街の名物料理の素材なの! 分厚く切ってステーキにすると、もう……!」
ライラの紫色の瞳が、学術的な輝きとは明らかに違うきらめきを放った。食い意地の光である。
「報酬はそこまで高くないけど、肉持ち帰りは嬉しいな。ドランはどう?」
「ぼ、僕は戦闘はちょっと……でも、ケンタさんたちの役に立てるなら……」
「よし、決まり。行こう」
◇ ◇ ◇
リューゲの街から東へ一刻(約二時間)ほど歩いたところに、「ゴブの丘」と呼ばれる緩やかな丘陵地帯がある。
青紫色の草が膝丈まで伸び、ところどころに赤い実をつけた低木が点在している。風が吹くたびに草がさらさらと鳴り、遠くに世界樹の白銀の幹が霞んで見えた。
「気持ちいいなー。ピクニックみたいだ」
「ピクニックに来たわけじゃないわよ。暴れイノシシ、けっこう凶暴だから気をつけて」
「どのくらい大きいの?」
「普通の個体で、馬くらいかしら」
「馬!?」
「暴れイノシシはこの世界の定番モンスターよ。厚い毛皮と筋肉に覆われていて、突進力がすごいの。でも動きは直線的だから、横に避ければ——」
ライラの解説を遮るように、地面が揺れた。
どどどどどど、と。
丘の向こうから、地鳴りのような振動が伝わってくる。
「来た! あれよ!」
ライラが指差す先に、それはいた。
馬くらい、とライラは言った。
嘘だ。
丘の上に姿を現した暴れイノシシは、控えめに見ても小型のバンくらいあった。赤黒い剛毛に覆われた巨体。額から生えた二本の牙は、象牙のように太く反り返っている。小さな目は血走り、鼻息は蒸気のように白い。
「……ライラさん、あれ馬?」
「え……ちょっと大きいわね。普通はあの半分くらいなんだけど……」
「ぼ、ぼくたちもう帰りませんかっ!?」
ドランが即座に撤退を提案した。気持ちは痛いほどわかる。
しかし、ケンタの目は冷静だった。ゲームでも漫画でもなく、実際にアフリカで野生のイノシシ(ウォートホッグ)と遭遇した経験がある。あの時は爺さんと一緒だった。
『イノシシは前しか見えん。正面に立つ馬鹿はいないだろう? 横に逃げて、木に登れ。あとは疲れるまで待て』
爺さんの教えが蘇る。
「落ち着いて。あいつ、こっちに気づいてないぞ。風下だからな」
「さすが、そういうのには詳しいのね……」
「旅人の基本だよ。さて、どうやって仕留める——」
言いかけた瞬間、暴れイノシシがこちらを向いた。
鼻をひくひくさせ、ケンタたちの匂いを嗅ぎ取ったらしい。
ぶもおおおおおっ!!
大地を揺るがす咆哮と共に、暴れイノシシが突進を開始した。
「散れ!」
ケンタの指示で三人がバラバラに跳ぶ。暴れイノシシは直線的に突っ込んできて、三人がさっきまで立っていた場所を蹂躙した。地面がえぐれ、草と土が宙に舞う。
「ライラ、足を止められる魔法は!?」
「え、ええと……『氷結の鎖』なら……でも、あの大きさだと三秒くらいしか持たないわよ!」
「三秒で十分! ドラン、ロープ持ってる?」
「あ、ありますっ! 工房から持ってきたのが……!」
「よし! ライラ、まず足を止めてくれ!」
ライラが杖を構えた。
ぼろぼろの杖の先端に、淡い青白い光が集まる。彼女の銀髪が風もないのにふわりと浮き上がり、紫色の瞳が魔力の光を帯びた。
「――凍てつく鎖よ、大地を縫え!『氷結の鎖』!」
地面から氷の鎖が噴き出し、暴れイノシシの四本の脚に絡みついた。
ぶもっ!?
巨体が一瞬止まる。
「今だ、ドラン!」
「は、はいっ!」
ケンタとドランは左右から駆け寄り、ロープを暴れイノシシの鼻に巻きつけた。ケンタが近くの太い木の幹にロープを通し、素早くもやい結びで固定する。
バキバキバキ、と氷の鎖が砕けた。三秒。ライラの予告通りだ。
だが、鼻にロープを巻きつけられた暴れイノシシは、突進しようとしても円を描くだけ。ぶもぶも言いながらぐるぐる回り始めた。
「あとは疲れるまで待つ!」
ケンタは木の上に登り、二人にも登るよう指示した。
3時間後(長かった・・・)。暴れイノシシは息を切らし、ぜえぜえと横たわった。疲れさせるために木から降りるふりをするなど、持久戦である。ロープも擦り切れる寸前だった。
ケンタが木から降り、ライラの微弱な眠りの魔法で完全に眠らせてから、ドランの鍛冶用ナイフで――まあ、詳細は省略しよう。
かくして、推定三百キログラムはあろうかという暴れイノシシの肉を、大量に手に入れたのだった。
◇ ◇ ◇
天上界。闇の宮殿。
ダクネスは水晶の映し鏡で地上を眺めながら、つまらなそうに頬杖をついていた。
「ベルゼ」
「はい、ダクネス様」
「あのバグ人間、ロープと木だけで暴れイノシシを倒しやがった。面白いけど、あっさりしすぎて物足りない」
「では、何か仕掛けますか」
ダクネスの唇が、にぃっと歪んだ。
「そうだな……あのイノシシの肉に、ちょいと『祝福』をかけてやるか」
「祝福、でございますか」
「ああ。あの肉の生命力を、極限まで活性化させる。細胞の一つ一つが生を渇望するレベルまでな」
「つまり……」
「どんなに焼いても、切っても、煮ても、ゴムみたいに硬いまま。噛み切れない。飲み込めない。食えない肉の出来上がりだ」
ダクネスは、けたけたと少年らしい笑い声を上げた。
「せっかく大量に手に入れた肉が食えないとか、最高に面白いじゃねえか。カカッ」
「……お言葉ですが、それは些か子供じみているのでは」
「うるさいな。俺は外見通り子供だよ」
闇の神は万年の知性で、子供の悪戯を全力でやるのだった。
◇ ◇ ◇
リューゲの街に戻ったケンタたちは、ドランの工房で祝賀パーティの準備を始めた。
調理場を借り、ケンタが肉を分厚くカットする。赤身のきめ細かい肉だ。地球のイノシシ(猪)よりも臭みが少なく、断面は鮮やかなルビー色。脂身はほどよくサシが入り、見るからに旨そうだった。
「これは期待できるぞ。ドラン、鉄板ある?」
「は、はい! 鍛冶用の平板なら……」
「十分。ライラ、火は出せる?」
「火の魔法くらい余裕よ!『小火炎』!」
ライラの指先から小さな炎が飛び出し、鉄板の下に収まった。温度調節もできる便利な魔法だ。燃費のいい魔法は得意らしい。
鉄板が十分に熱くなったところで、ケンタは分厚いステーキ肉をのせた。
じゅうううう。
肉が焼ける音。立ち上る湯気。脂が鉄板に落ちてぱちぱちと弾ける。
肉の焼ける匂いが工房に満ちた。香ばしい、食欲を直撃する匂い。ケンタの腹がぐうと鳴った。
「いい匂い……! 早く食べたいわ!」
「もうちょっと……よし、いい色だ」
ケンタは焼き上がった肉を皿に取り、三等分した。
表面はこんがりと焼き色がつき、中はほんのりピンク。ミディアムレアの完璧な焼き加減だ。
「いただきます!」
三人が同時にナイフを入れた。
ぐにっ。
「……あれ?」
切れない。
ナイフが肉に沈まない。表面は美しく焼けているのに、刃を押し当てても弾力で押し返されてしまう。
「えっ、何これ? ゴム?」
ケンタが力を込めてナイフを押し込むが、肉は弾力でびよんと跳ね返す。
「ちょっと、噛んでみるわ!」
ライラが直接かぶりついた。
もぐ、もぐもぐもぐ……もぐもぐもぐもぐ……
「……噛み切れない! 口の中でゴムボールを噛んでるみたい!」
「ぼ、僕もです! 顎が……顎が疲れますっ……!」
ドランも涙目で咀嚼を続けている。
ケンタも一口試した。確かに、まるでゴムだった。味はいい。肉の旨味と脂の甘みが口に広がる。だが、噛んでも噛んでも繊維がほぐれない。弾力が異常だ。
「おかしいな……焼き加減は悪くないはずだけど。じゃあ、煮てみるか」
鍋に水を張り、肉を放り込んでぐつぐつと一時間煮込んだ。
結果:やっぱりゴム。
叩いてみた。
結果:叩いた分だけ弾力で跳ね返る。
薄切りにしようとした。
結果:刃が滑って切れない。
「なんなのこの肉! こんなの聞いたことないわ! 暴れイノシシの肉、こんなに硬くないはずよ!」
ライラが悔しそうに鍋を睨む。
ケンタは腕を組んで考え込んだ。
焼いてもダメ。煮てもダメ。叩いてもダメ。肉の繊維そのものが異常に強靭で、物理的な力では崩れない。
「……これ、普通じゃない。何かの魔法か呪いがかかってるんじゃないか?」
「呪い? でも、誰がそんなことを……」
三人が首を捻っていると――
工房の窓の外で、一瞬だけ、紅い瞳が光った。
路地裏の暗がりに潜む漆黒の獣――ダクネスの使い魔である『影魔獣』だ。主の命を受け、ゴム肉に悪戦苦闘する三人を見ては、腹を抱えるようにくっくっと影を揺らして嘲笑っている。
さらに工房の屋根の上では、淡い光を放つ白金色の小鳥――ルミナスの『斥候鳥』が、首を傾げながらその泥臭い光景をじっと見下ろしていた。
◇ ◇ ◇
路地裏の暗がりで、影の獣がくっくっと揺れていた。ダクネスの分身が宿った使い魔が、主人の笑い声をそのまま再生しているのだ。
天上界では、ダクネスが腹を抱えて笑っていた。
「カハハハハ! 見ろよベルゼ! あいつら、煮ても焼いても食えなくて泣きそうな顔してやがる! 最高だ!」
「それはようございました」
「しかも味はいいんだぜ? 旨いのに噛み切れない。この絶妙な生殺し感がたまらないね」
一方、光の宮殿では。
「あら、ダクネスがまた地上でイタズラしてる。アイツは本当に性格が悪いわ」
ルミナスが水鏡を覗き込みながら、フルーツの蜜煮をぱくぱく食べていた。
「あのイノシシの肉、美味しそうなのにもったいないわねー。……ま、私には関係ないわ。セラフ、おかわり」
「……はい、ルミナス様」
光の女神もまた、ぶれなかった。
◇ ◇ ◇
「よし、発想を変えよう」
ケンタは不毛な試行錯誤を打ち切り、工房の椅子に座り直した。
「力で崩せないなら、別のアプローチだ。肉が硬い原因は、筋繊維にあるタンパク質の結合が異常に強いこと。だったら、タンパク質そのものを分解すればいい」
「分解? どうやって?」
「酵素だよ」
「こーそ?」
ライラが首を傾げた。ドランも同じ顔をしている。
「パイナップルって知らないよね。地球の果物なんだけど、あれにはブロメラインっていうタンパク質分解酵素が入ってるんだ。パイナップルを食べると舌がピリピリするの、あれが酵素のせい。玉ねぎや生姜にも似た効果がある。肉を柔らかくする酵素を含む果物が、この世界にもあれば——」
「待って!」
ライラが目を輝かせた。
「タンパク質を分解する……つまり、肉の繊維をほぐす成分を持つ植物ってこと? それなら心当たりがあるわ!」
「マジで?」
「『金太陽果』って果物! 黄金色で、すっごく酸っぱい果実なの。昔から『この果物の汁に漬けると何でも柔らかくなる』って言われてて……私、それがなぜ柔らかくなるのか研究テーマにしようとしたことがあるの! 舌がビリビリするのが特徴で……」
「それだ! まさにそれがタンパク質分解酵素だ。どこで手に入る?」
「この近くの森にあるわ。でも、かなり高い木の上に実がなるから取るのが大変で……」
「ドラン。長い棒と、先端にフックをつけられるか?」
「そ、それくらいならすぐに!」
ドランは目を輝かせて工具箱に飛びついた。十分後には、金属のフックがついた三メートルの長竿が完成していた。さすがの手際だった。
◇ ◇ ◇
街の東にある雑木林に入ると、ライラが「あった!」と指差した。
見上げると、確かに高い木の枝先に、拳大の黄金色の果実がたわわに実っている。夕方の斜光を受けて、まるで木に金貨がぶら下がっているように見えた。
「きれいだな、あれ」
「きれいだけど、酸っぱいわよー。生で食べると顔がくしゃくしゃになるくらい」
ケンタはドラン製の長竿を伸ばし、フックで枝を引っ掛けた。果実がぼとぼとと落ちてくる。バックパックに十個ほど詰め込んだ。
果実を一つ割ってみると、中から鮮やかなオレンジ色の果汁があふれ出した。甘い柑橘系の香りに、鋭い酸味が混じっている。
「ちょっと舐めてみるか」
指先に果汁をつけてぺろりと舐めた。
「っ……酸っぱ! でもうまい。パイナップルとレモンを足して二で割ったみたいな味だ」
「でしょ? で、しばらくすると舌がビリビリしてくるの」
「あ、ほんとだ。ビリビリしてきた。これだよ、この感覚。タンパク質分解酵素が舌の表面を分解してるんだ」
「ぶんかい!? 舌を!?」
「微量だから大丈夫。これが肉の繊維に作用すれば……」
ケンタは早足で工房に戻った。
◇ ◇ ◇
工房の調理場。
ケンタは手際よく下準備を進めた。
まず、金太陽果を絞って果汁をたっぷりと取る。オレンジ色の果汁がボウルに溜まっていく。甘酸っぱい香りが工房に充満した。
「ドラン、肉を叩いてくれるか? できるだけ薄く伸ばして、繊維をほぐしたい」
「は、はい! 叩くのは得意ですっ!」
ドランは鍛冶用の木槌で、ステーキ肉を丁寧に叩き始めた。トントントンという小気味よい音と共に、硬かった肉の表面にひび割れが走る。
「よし、それをこの果汁に漬け込む。繊維のほぐれた隙間から酵素が浸透して、タンパク質を分解してくれるはずだ」
叩いた肉を金太陽果の果汁に浸し、深めの容器に入れて蓋をした。
「どのくらい漬けるの?」
「酵素の強さがわからないからな……一晩がベストだと思う。地球のパイナップルだと、数時間で効果が出るから」
「一晩!? おあずけってこと!?」
ライラが悲鳴を上げた。
「我慢しろ。明日の朝を楽しみにしよう」
「うう……分かったわよ……でも、本当に柔らかくなるの?」
「なるさ。科学は裏切らない」
ケンタはそう言い切って、にやりと笑った。
◇ ◇ ◇
翌朝。
ケンタは誰よりも早く起きた。
容器の蓋を開ける。金太陽果の果汁はやや褐色に変化していた。肉の成分と化学反応を起こした証拠だ。
箸で肉を持ち上げてみる。
「…………おお」
昨日までゴムのように弾力で跳ね返していた肉が、自重で垂れ下がった。箸に力を入れると、すっと裂ける。
「やった。完璧だ」
ケンタは嬉しさを噛み殺しながら、鉄板を温め始めた。
物音で目を覚ましたライラとドランが、寝ぼけ眼で調理場に現れる。
「んん……ケンタ、朝から何して……」
「見てろ」
ケンタは金太陽果の果汁から引き上げた肉を鉄板に載せた。
じゅわああああっ!
肉が鉄板に触れた瞬間、盛大な音が弾けた。昨日とは明らかに違う、水分と脂が高温に触れる豊かな音だ。
そして、匂い。
こんがりと焦げる表面から立ち上る煙には、肉の旨味と金太陽果のほのかな甘酸っぱさが混じり合い、なんとも言えない芳醇な香りが工房中に広がった。
「な、何この匂い……!」
ライラの鼻がひくひくと動く。寝ぼけていた紫色の瞳が、瞬時に覚醒した。
「ケ、ケンタさん……もしかして、柔らかくなったんですか……!?」
ドランも大きな目をさらに大きくしている。
「ああ。見てな」
ケンタがトングで肉をひっくり返す。鉄板から離れた面は美しい焦げ茶色に色づいていて、表面から肉汁がじゅわじゅわと染み出している。
もう片面も焼く。両面がこんがりと焼き上がったところで、皿に移した。
分厚いステーキ。
表面はカリッと焼き色がついて、中から肉汁がじんわりと滲み出している。
ナイフを入れる。
すっ、と。
滑るように刃が通った。断面は美しいピンク色で、切り口から透明な肉汁がとろりと溢れる。
「……切れた」
「切れたわ!!」
ライラが歓声を上げた。
「ど、ドワーフの神に誓って、昨日と同じ肉とは思えません……!」
ケンタは三等分した肉を皿に盛り付けた。
「さ、食べよう。今度こそ」
「「「いただきます!」」」
三人が同時に一切れを口に運ぶ。
ケンタの口の中で、まず広がったのは肉の旨味だった。赤身肉特有の濃厚な味わいが、舌の上で溶けていく。繊維はほろほろとほぐれ、噛むたびに脂の甘みと肉汁が溢れ出す。
そこに、金太陽果の酵素が生んだ微かな果実の風味が寄り添う。酸味は焼いた段階でほとんど飛んでいて、残っているのは仄かな柑橘系の香りだけ。妙に品のある、まるで高級レストランのフルーツソース添えステーキのような仕上がりだった。
「う……うま……」
ケンタは思わず目を閉じた。
異世界に来て三日。初めてのまともな肉料理が、こんなにも旨いとは。
「っっっ!! 何これ何これ何これ!! とろけるっ! お肉がとろけてるぅ!!」
ライラは両手で頬を押さえ、椅子の上でばたばたと足を踏み鳴らしていた。紫色の瞳にはうっすら涙が浮かんでいる。数百年生きたハーフエルフの矜持は、このステーキの前には無力だった。
「お、おいしい……おいしいですぅ……! 僕、こんな美味しいお肉、食べたことないです……!」
ドランはぼろぼろ泣きながら食べていた。この子はすぐ泣く。
三人は黙々と残りの肉も平らげた。
食後、ライラが金太陽果の搾りかすを手にとってしげしげと眺めた。
「ケンタ、この果物の汁が肉を柔らかくする仕組み、もう一回ちゃんと教えて。これ、論文になるわ」
「いいけど、酵素の概念から説明しないといけないから長いぞ」
「望むところよ! 私、この世界の誰よりもあなたの知識を体系化してみせるわ!」
「はいはい。じゃあ食器洗ったら講義な」
「洗い物は私がやりますっ!」
ドランが嬉々として皿を抱えた。
平和だ。異世界で仲間と食卓を囲んで、旨い飯を食べて、笑い合う。バックパッカーとして世界中を旅してきたケンタだが、こういう何気ない瞬間が、旅の一番の醍醐味だと知っている。
一方、窓の外の暗がりでは。
自らの主の呪いがただの果汁に敗れ去ったことに呆然とする影魔獣が、すごすごと影の奥へ退散していく。そして屋根の上の斥候鳥は、魔法なき因果律の突破という理解不能の事態を報告すべく、慌てて夜空へ羽ばたいていった。
◇ ◇ ◇
天上界、闇の宮殿。
ダクネスは水晶の映し鏡を見つめていた。
映っているのは、笑いながら食事をする三人の姿。
「…………」
紅い瞳が、わずかに見開かれていた。
「ベルゼ」
「はい」
「俺は、あの肉の生命力を極限まで活性化させた。どんなに加熱しても繊維が崩壊しないように、タンパク質の結合を限界まで強化したはずだ」
「はい、確かに」
「それを、たかが果物の汁で突破しやがった」
「……そのようですね」
ダクネスは、ふっと笑った。
いや、違う。くくく、と喉の奥で震える笑いが、やがて声をあげた笑いに変わった。
「カハハハハ! 面白い! 面白いじゃねえか、あいつ! こっちが魔力で強化した結合を、果物の酵素? とかいうやつで分解した?本当に因果律の直接干渉じゃないか!」
「お気に召しましたか」
「最高だ。次はもっと面白い嫌がらせを考えないとな」
闇の少年神は、退屈の二文字が辞書から消えた顔で、新しい悪戯を思案し始めた。
一方、光の宮殿。
「ルミナス様。例の異世界人、ダクネス様の呪詛を食物の汁で解除した模様です」
「へー。すごいじゃん。……ん? 待って。呪詛を解除? 魔力も使わずに?」
「はい」
「…………」
ルミナスは金色の瞳を細め、水鏡に映る青年の姿をじっと見つめた。
「……あの子、なんだか懐かしい感じがするのよね。なんでだろ」
「思い出しそうですか?」
「ん〜〜〜……ダメ。思い出せない。ま、いっか! お昼にしよ!」
「かしこまりました」
光の女神は、今日も平常運転だった。
◆ ◆ ◆
【次回予告】
交易路を塞ぐ巨大スライムをギルドが緊急討伐依頼!
剣で斬れば分裂し、魔法で焼いても復活する最悪のモンスター!
ケンタの秘策は——コウモリのフンで吸熱反応!?
次回、『バックパッカー、神々の砂場を往く』第3話——
『物理無効の巨大スライムには塩も効かない!』
お楽しみに!




