第1話 『エジプトの迷子、二つの月を見上げる』
人生で大事なことは、だいたい爺さんに教わった。
火の起こし方。水の見つけ方。知らない土地で最初にやるべきこと。そして――「どんなに退屈な遺跡でも、観光客が入らない場所にこそ宝がある」ということ。
まあ、だから今こうして、立入禁止のロープをくぐって地下に潜っているわけだが。
「……うわ、狭っ」
エジプト・ギザ。世界で最も有名な石の山のお膝元。
俺――柏木ケンタ、二十四歳、職業バックパッカー――は、ピラミッド脇の未公開地下遺跡をヘッドライトひとつで匍匐前進していた。
観光客がセルフィーを撮っている地上とは別世界だ。砂と埃と、何千年分の静寂。石灰岩の壁は冷たく、天井は背中を擦るほど低い。
爺さん――旅の師匠、齢八十を超えても世界中を歩き回っていた風変わりな老人――がかつて言っていた。
「ケンタよ。ギザの地下には、まだ誰も見つけていない部屋がある。わしが若い頃に迷い込んだ場所だ。そこに、わしの忘れ物を置いてきてしもうた」
忘れ物の正体は教えてくれなかった。爺さんはいつもそうだ。肝心なことは言わずに、にやにや笑って濁す。
だが、目印だけは残してくれていた。壁に彫られた小さな渦巻き模様。それを辿っていけば、いつか辿り着くはずだ。
三つ目の渦巻きを見つけたとき、壁の一部が不自然に窪んでいることに気づいた。
「……ここか?」
押してみる。びくともしない。
体重をかけてみる。変化なし。
ならばと、腰のポーチからマルチツールを取り出し、窪みの縁をこじる。
がこん、と石が動いた。
その向こうに広がっていたのは、三畳ほどの小さな部屋だった。
壁画もなければ、棺もない。財宝の類いは一切なし。
あるのは、部屋の中央に置かれた石の台座と、その上にぽつんと乗った――
「……時計?」
懐中時計だった。
手に取ると、ずしりとした重みが掌に伝わる。ケースは真鍮のような金属。蓋には蔦のような紋様が繊細に彫り込まれていて、一九五〇年代のヴィンテージを思わせる意匠だ。
蓋を開けると、象牙色の文字盤に、ブレゲ針。小さなスモールセコンドが六時位置に佇んでいる。
動いていない。当然だ。何千年も前の遺跡に、動く時計があるわけ――
チクタク。
「……え?」
チクタク、チクタク。
耳を疑った。時計を顔に近づける。確かに聞こえる。テンプが振動する、精密で心地よい機械音。
ゼンマイは巻かれていない。リューズは引かれたまま。なのに、秒針が――いや、スモールセコンドが、ゆっくりと回っている。
「……爺さんの忘れ物って、これか」
オカルトは信じない。だが、面白いものは大好きだ。
リューズに指をかけた。なんとなく、巻いてみたくなった。
かちかちかちかち。
小気味よい手応え。ゼンマイが巻かれていく感覚が指先に伝わる。八巻き、九巻き、十巻き――
十一巻き目で、世界が狂った。
チクタクチクタクチクタクチクタクチクタクチクタク――!
テンプの音が急激に加速する。秒針が猛然と回り始めた。時計回りではない。逆だ。長針も短針も、まるで時間そのものを巻き戻すかのように、凄まじい速度で逆回転していく。
「なっ――」
石の部屋が震えた。天井から砂が降る。足元の地面が淡い光を放ち始め、渦巻き模様が――壁中の渦巻き模様が、一斉に輝き出した。
まずい、と思う直感と、面白い、と思う好奇心が同時に弾ける。
逃げるべきか。
このまま見届けるべきか。
判断の猶予は、与えられなかった。
光が爆ぜた。
◇ ◇ ◇
目を開けると、暗闇だった。
……ではなく、薄暗い空間だった。
横たわっていた体を起こす。頭を振って意識を確認。手足は動く。バックパックは背負ったまま。手の中には――懐中時計。針は止まっている。
「……下に落ちたのか?」
周囲を見回す。ヘッドライトの光が照らし出したのは、石灰岩ではなく、黒い鉱石で覆われた壁面だった。天井は高い。空気は冷たく、かすかに湿っている。
ピラミッドの地下は石灰岩と花崗岩の世界だ。こんな黒い鉱石は見たことがない。
「落ちた拍子に、さらに地下の未発見エリアに来ちまったか?」
そう結論づけた。
異世界に転移したなどとは、微塵も思わない。
ケンタは懐中時計をポケットに仕舞い、立ち上がった。こういう時にやるべきことは、爺さんに叩き込まれている。
「迷った時は焦るな。まず、風の匂いを嗅げ」
目を閉じる。深く息を吸う。
空気の流れがある。かすかだが、右側から。わずかに土と、何か……草のような匂いが混じっている。
地下遺跡の中で草の匂い?
疑問は棚上げだ。とにかく、空気の流れがある方向には出口がある。爺さんの鉄則だ。
「右手を壁に当てて進む。これで、必ず出口という『結果』に繋がる」
右手を黒い壁に這わせ、歩き始めた。
左手にはマッチを一本。火をつけると、炎がわずかに右へ傾いた。風上だ。正解。
黒い鉱石の通路は、ピラミッドの地下にしては不自然なほど広かった。天井は四メートルほどもある。壁には見たことのない文字らしきものが刻まれているが、象形文字ともヒエラティックとも違う。
「……新発見の遺跡か? だとしたらとんでもないな」
学術的興奮を覚えながらも、足は止めない。まずは出口。発見の喜びに浸るのは、生きて地上に戻ってからだ。
十分ほど歩いた頃だった。
前方から、妙な音が聞こえてきた。
べちゃ、べちゃ、べちゃ。
何かが這い回るような、湿った音。そして、鼻をつく酸っぱい臭い。
「……なんだ?」
ヘッドライトの光を向ける。
通路の先に、半透明の塊がいた。
直径一メートルほどの、緑がかったゼリー状の物体。その中に、溶けかけた骨や金属片がぼんやり浮かんでいる。ゆっくりと脈動しながら、壁や床を舐めるように移動していた。
「…………」
ケンタは三秒ほど固まった。
それから、非常に冷静な声で言った。
「えー……何あれ。めちゃくちゃスライムなんだが」
ゲームや漫画で散々見てきたアレだ。間違いない。骨を溶かしている時点で、可愛くはない方のスライムだ。
だが、ここでケンタの思考回路は「異世界だ!」ではなく、「何かの未確認生物(UMA)か?」に着地した。
世界を旅していれば、常識の外にある生き物に出会うことは珍しくない。アマゾンの奥地にも、東南アジアの洞窟にも、既存の分類では説明できない生物はいる――と、爺さんは言っていた。
「刺激しなければ大丈夫、なはず……」
壁に張り付くようにして、スライムの横を通り抜けようとする。
べちゃり。
スライムが動いた。ケンタのほうへ。
「大丈夫じゃなかった!」
全力ダッシュ。通路を駆け抜ける。スライムの移動速度は遅いが、分裂して追いかけてくるのが見えた。
走りながら、バックパックのサイドポケットを探る。
「あったあった……!」
取り出したのは、小さなジップロック袋に入った粗塩。料理用に持ち歩いていたやつだ。
立ち止まり、振り返る。追いすがるスライムの群れに向かって、塩をばら撒いた。
ぎゅるるるる、と。
スライムたちが一斉に縮んだ。浸透圧。塩分濃度の高い環境に触れたことで、体内の水分が一気に奪われたのだ。高校の生物で習う、細胞の脱水現象。ナメクジに塩をかけるのと同じ原理である。
縮んだスライムたちは、まるで二日酔いの朝のように力なく痙攣し、やがて動かなくなった。
「……塩って偉大だな」
一息ついて、再び歩き始める。
さらに五分ほど進んだところで、通路が少し広くなった。そこに――
「うう……ぐすっ……だめだぁ……もう魔力がからっぽだよぉ……」
誰かが泣いていた。
ヘッドライトを向けると、壁に背を預けて座り込んでいる少女の姿があった。
年の頃は十八、九だろうか。長い銀髪がダンジョンの埃にまみれて薄汚れている。纏っているのは紺色のローブ。その裾はぼろぼろで、あちこち焦げている。そして――
耳が、尖っていた。
「…………」
ケンタは数秒、その耳を凝視した。
尖った耳。ローブ。「魔力」という単語。
彼の脳内で、極めてバックパッカー的な結論が導き出された。
「あー、もしかして、このへんのテーマパークのスタッフさん?」
「え?」
少女が顔を上げた。涙で濡れた紫色の瞳が、ケンタを見つめる。
「いや、すごいクオリティの衣装だなーと思って。耳の特殊メイクとか、めちゃくちゃリアルですね。ここ、なんかのアトラクション? だとしたら非常口の場所を教えてほしいんですけど」
「な、何言ってるの? ていうか、あなた誰!? こんな古代遺跡に魔力もなしで何で生きてるの!?」
「え、魔力? いや、ないですけど魔力は。あ、ひょっとして没入型のRPG? 役になりきるやつ? 俺は参加してないから大丈夫です。一般のバックパッカーです」
「ばっくぱっかー……?」
少女は困惑の表情でケンタを見ていたが、ふと、彼の背後に目をやって悲鳴を上げた。
「う、後ろ! スライムの残党!」
振り向くと、先ほど塩で縮ませたスライムのうち一匹が、復活してこちらへ這ってきていた。
「ああ、はいはい」
ケンタはポケットから塩の袋を取り出し、近づいてきたスライムにさらさらと振りかけた。
ぎゅるるる。
スライムは抗議するように震え、再び縮んで動かなくなった。
「…………」
少女は、その光景を口をぽかんと開けて見つめていた。
「な……な、な……!」
「ん?」
「今、何したの!? 詠唱もなし! 魔法陣もなし! ただの白い粉でスライムを……!?」
「いや、塩ですけど」
「しお……」
「浸透圧って知ってます? ナメクジに塩かけたら縮むでしょう。あれと同じ」
「しんとうあつ……なめくじ……」
少女はぶつぶつと呟きながら、縮んだスライムとケンタの顔を交互に見た。
そして、その紫色の瞳がきらりと輝いた。
「あなた……魔法を使わずに世界の理を操っている……!」
「いえ、塩をかけただけです」
「これは……これは古代の大賢者が使ったという『因果律の直接干渉』……! まさか、失われた術理の継承者が、こんなところに……!」
「いや、だから塩です」
聞いていなかった。
少女は勢いよく立ち上がり、ケンタの両手をがしっと掴んだ。距離が近い。銀髪が揺れる。埃まみれでもわかるくらい整った顔立ちが、期待と興奮に輝いている。
「お願い! 私と一緒に来て! あなたの術理を研究させて!」
「え、いや、あの、まず名前を……」
「あ、ごめんなさい! 私はライラ。ライラ・エルテシア。古代魔法を研究している魔法使いよ! さっきこの遺跡で調査中に魔力を使い果たしちゃって、途方に暮れてたの!」
「はあ、ライラさん。俺はケンタです。えーと、とりあえず出口を探しませんか。この遺跡から出たい」
「出口ならわかるわ! こっちよ!」
ライラは元気を取り戻し、ケンタの手を引いて歩き始めた。
ケンタは引かれるままについていきながら、心の中で呟いた。
(……エジプトにこんなテーマパークあったっけ?)
◇ ◇ ◇
その頃。
人の目には映らない、天と地の狭間に広がる神界にて。
雲と光で編まれた玉座に、一人の女神が不機嫌そうに頬杖をついていた。
金色の長い髪。白磁の肌。柔和でありながら、どこか幼い印象を与える顔立ち。纏う衣は太陽の光そのもので、見る角度によって色が変わる。
光の神、ルミナス。
この世界を闇の神と共に創った、二柱の最高神の一柱。
「ねーねー、セラフ。なんか変な反応が出てるんだけど」
傍らに控えていた六翼の天使が恭しく頭を下げる。
「はい、ルミナス様。地上の古代遺跡群、第七層にて因果律の乱れを検知しております。何者かが存在不明の術式を行使した模様です」
「因果律の乱れ? 私の作った完璧な世界に、バグが紛れ込んだってこと?」
「はい。該当の存在は……異世界因子を帯びています」
ルミナスの金色の瞳が、すっと細くなった。
「異世界因子……。あいつの残り香?」
脳裏に浮かんだのは、遥か昔にこの世界を追放された一柱の神の記憶。だが、その記憶は靄がかかったように曖昧で、すぐにぼやけてしまう。
「……まあいいわ。とりあえず斥候鳥を飛ばしておいて。光の鳥を三羽くらい。あの辺りの森の上を旋回させて、怪しいやつを見つけたら報告するように」
「かしこまりました」
「うん、よろしく。……ところでセラフ、今日のおやつ何だっけ?」
「天界フルーツの蜜煮でございます」
「あ、それ楽しみにしてたやつ! じゃあ先にそっち! 斥候鳥の報告は後でいいわ!」
「は、はあ……」
――光の最高神は、やることの優先順位が壊滅的だった。
一方。
天界の対極、深い闇に沈む宮殿にて。
黒大理石の広間に、少年の姿をした神が座っていた。
漆黒の髪に、紅い瞳。白い肌は人形のように滑らかで、身を包む漆黒の外套は、裾が影のように揺らめいている。見た目は十二、三歳の少年だが、その瞳には万年を生きた知性と、底知れぬ退屈が宿っていた。
闇の神、ダクネス。
「ベルゼ」
闇のなかから、恭しく影が立ち上がる。燕尾服を纏った長身の魔族――ダクネスの執事、ベルゼビュートだ。
「お呼びでしょうか、ダクネス様」
「ルミナスの庭にノイズが落ちたな」
「はい。因果律に属さない異物が、地上に出現した模様です」
ダクネスは、くく、と喉を鳴らして笑った。
「面白い。ルミナスの『完璧な世界』に、想定外のバグが紛れ込んだわけだ。あいつ、今頃ムキになってるだろうな」
「ルミナス様は現在、おやつをお召し上がりです」
「……あいつは本当にぶれないな」
ダクネスは玉座の肘掛けに頬杖をつき、紅い瞳を愉快そうに細めた。
「まあいい。退屈しのぎだ。俺の影魔獣を一匹、あのノイズの近くに放っておけ。ルミナスの斥候鳥とかち合って、あいつが慌てるところが見たい」
「かしこまりました。……ですが、ダクネス様。あの異物が何者か、調べなくてよろしいので?」
「調べてどうする? わかってから対処するなんて、つまらないじゃないか。わからないまま突っつくから面白いんだろ」
ベルゼビュートは、主の性格をよく知る者特有のため息をついた。
「……御意」
こうして、光と闇の神々の駒が、まだ何も知らないバックパッカーの頭上へと放たれた。
◇ ◇ ◇
遺跡から外へ出た瞬間、ケンタは足を止めた。
まず、空を見た。
月が、二つあった。
ひとつは地球で見慣れたのと同じくらいの大きさの白い月。もうひとつは、それよりやや小さく、淡い紫色に輝いている。二つの月が並んで夜空を照らし、地上には二重の影が落ちていた。
次に、地面を見た。
足元の土は赤みがかっていて、生えている草は見たことのない青紫色をしている。
最後に、遠くを見た。
地平線の向こうに、巨大な――本当に巨大な、一本の樹が見えた。天を突くような白銀の大樹が、月光を浴びて静かに輝いている。
「…………」
ケンタは五秒ほど黙った。
それから、深く息を吸って、吐いた。
「……あ、これ、エジプトじゃないわ」
隣でライラが首を傾げる。
「え? えじぷと? 何それ?」
「いやいやいや。待って。月が二つある。草が青い。なんかバカでかい木が生えてる。全部おかしい」
「何がおかしいの? 双月は当たり前だし、草は青いものだし、あれは世界樹よ?」
「世界樹て。……いや、うん。そうか」
ケンタは腕を組み、しばし考え込んだ。
爺さんの教えが、脳裏をよぎる。
『ケンタよ。常識を疑え。目の前の事実が常識と矛盾するなら、疑うべきは常識のほうだ』
「……爺さん。『常識を疑え』って、こういうことだったのか。想定の百倍くらいスケールがでかいけど」
ケンタは五秒で受け入れた。
バックパッカーとして世界中を旅してきた経験が、ここで活きた。知らない土地に放り込まれること自体は、いつものことだ。言葉が通じない国、文化が全く違う地域、常識が何一つ通用しない環境。そういう場所を渡り歩いてきた。
月が一つ増えたくらいで、何だ。
「よし。ライラさん、一個聞いていい?」
「な、何?」
「この世界で、一番近い街はどこ?」
ライラは、この異邦人の順応力に目を丸くしながらも、答えた。
「えっと……ここから北に半刻ほど歩いたところに、獣人と亜人の交易街があるわ。リューゲの街って言うの」
「よし、行こう。とりあえず飯と情報だ」
「え、あ、ちょっと待って! あなた、全然動揺してないの!? 異世界に来たっぽいんでしょ!?」
「うん。でも動揺しても月は一個にならないし、腹は減るし。だったら進むほうが建設的でしょ」
ライラは、ぱちぱちとまばたきを繰り返した。
「……あなた、本当に面白い人ね」
「よく言われる」
◇ ◇ ◇
リューゲの街は、ケンタの想像よりずっと活気に満ちていた。
石畳の大通りに並ぶ露店。獣耳の商人が干し肉を売り、鱗に覆われた種族が宝石を並べている。ランタンの灯りがオレンジ色に街を染め、どこかから焼き肉と香辛料の匂いが漂ってくる。
「おー……」
ケンタはきょろきょろと首を回しながら、目を輝かせていた。
バックパッカーの血が騒ぐ。知らない文化、知らない人々、知らない食べ物。これぞ旅の醍醐味だ。異世界だろうが何だろうが、面白い場所は面白い。
「ライラさん、あの露店のやつ何? めちゃくちゃいい匂いするんだけど」
「え? ああ、あれは焼きワイバーンの串焼きよ。尻尾の肉が美味しいの」
「ワイバーンって竜の? 竜の串焼き? 食べたい。食べていい?」
「お金は持ってるの?」
「……あ」
文無しだった。
「とりあえず酒場に行きましょう。冒険者ギルドの掲示板があるから、お金を稼ぐ方法も見つかるわ」
「冒険者ギルド。漫画で見たやつだ」
「まんが……? まあいいわ。こっちよ」
ライラに連れられ、通りの奥にある大きな酒場に入った。
木造の広い店内は、冒険者や商人でごった返していた。カウンターでは獣人の店主が忙しくジョッキを並べ、奥のテーブルでは甲冑を着た集団が大声で笑っている。
ギルドの掲示板は酒場の壁一面を占めており、何十枚もの依頼書がびっしりと貼られていた。
しかし、ケンタの注意を引いたのは掲示板ではなかった。
酒場の隅で、一人の小柄な男が、大柄な男たちに囲まれていたのだ。
「おいおい、ドラン。今日も酒が飲めねえのか?」
「だ、だって、お酒飲むとお腹痛くなるし……」
「ドワーフのくせに酒が飲めねえとか、恥ずかしくねえのか!」
「そ、それは……」
「しかもこいつ、斧も振れねえんだぜ? 鍛冶場に引きこもって、ちまちまアクセサリーなんか作ってやがる。ドワーフの恥さらしだな!」
「ぐ、ぐすっ……」
囲まれている小柄な男――ドランは、ずんぐりとした体型に革のエプロンを着けたドワーフだった。茶色の短い髪に、そばかすの浮いた丸い顔。目は大きく、今にも泣きそうに潤んでいる。
ドワーフという種族の一般的なイメージ――豪快で、大酒飲みで、斧を振り回す屈強な戦士――とは正反対の、なよなよとした青年だった。
絡んでいるのは三人のドワーフだ。いずれも筋骨隆々で、顔に傷があり、ジョッキを片手に赤ら顔で笑っている。
ケンタはその光景を見て、一瞬で状況を把握した。
そして、動いた。
「ライラさん、ちょっと待ってて」
「え? ケンタ? ちょっと、何する気——」
ケンタは荒くれドワーフたちのテーブルに、すたすたと歩いていった。
そして、にっこりと笑って声をかけた。
「どうもー、皆さん楽しそうですね! ちょっとお話いいですか?」
三人のドワーフが、怪訝な目でケンタを見上げた。
「あァ? 誰だ、お前。人族の兄ちゃんか? 俺らに用かよ」
「いやー、実は俺、旅の薬商人なんですけど」
嘘である。
「今日はこの街に来たばかりで、腕のいい戦士の方々を探してるんですよ。見たところ皆さん、かなりの手練れとお見受けしました」
「お、おう。まあな! 俺たちゃ『鉄斧団』っつー傭兵団の……」
「鉄斧団! 聞いたことあります! すごい実力派の!」
聞いたことはない。
だが、ケンタのコミュ力は世界七十カ国を渡り歩いた実績に裏打ちされている。知らない相手でも、三十秒で打ち解ける。これは魔法ではなく、スキルだ。
「いやー、こんなところでお会いできるとは。実はですね、僕のような旅の薬商人は、各地で珍しい薬を集めてまして」
そう言いながら、ケンタはさりげなくポケットからミントタブレットの小さな缶を取り出した。
「これ、東方の秘薬なんですけど。一粒舐めると、酒の悪酔いが一発で覚めるんです。二日酔いにも効きます」
「なにっ!?」
三人のドワーフの目が、同時にギラリと光った。
酒飲みにとって、二日酔い対策は永遠のテーマである。それは異世界のドワーフも変わらない。
「ほ、本当か!?」
「ええ。まあ、ただの試供品ですからお代はいりませんよ。鉄斧団の皆さんへのご挨拶がわりということで」
ケンタは缶を開け、ミントタブレットを三粒取り出して差し出した。
ドワーフたちは奪い合うように受け取り、口に放り込んだ。
「ぬおっ! な、なんだこの清涼感は! 口の中に雪の精霊が住み着いたみたいだぞ!」
「うめえ! っつーか、なんか頭がシャキッとする!」
「おい、もっとくれ! 金なら出す!」
「いやー、申し訳ない。手持ちはこれだけなんです。でも、次にこの街に来たときには必ずお届けしますよ。鉄斧団の拠点はどちらです?」
「おう、南門の近くの——」
ドワーフたちは完全にケンタのペースに呑まれていた。ドランへの絡みなど、綺麗さっぱり忘れている。
ケンタは、にこにこと会話を続けながら、さりげなく視線でドランに合図を送った。
(今のうちに逃げなよ)
ドランは一瞬きょとんとした後、はっと気づいて、音を立てずに席を離れた。
数分後。ケンタはドワーフたちと固い握手を交わし、「また必ず来ますから!」と爽やかに別れを告げてテーブルを離れた。
酒場の入口で待っていたライラが、呆れたような感心したような顔で言った。
「……あなた、何したの?」
「交渉術だよ。爺さんの教え。『怒っている相手には、正面からぶつかるな。小さな得を与えて視線をズラせ。人は怒りより欲に弱い』」
「その爺さん、何者なの……?」
「さあ。ただのすごい爺さんだよ」
酒場の外には、先ほどのドランが立っていた。
大きな目に涙を溜めたまま、もじもじとケンタの前に歩み出る。
「あ、あの……助けてくれて、ありがとうございます……」
「いいよいいよ。あいつら、べつに悪い奴らじゃないだろ。ノリが体育会系なだけで」
「で、でも、僕……ドワーフなのに、お酒も飲めないし、斧も振れないし……みんなに馬鹿にされて……」
「ドワーフなのに、っていうけどさ。ドワーフだから酒を飲まなきゃいけない法律ってあるの?」
「え……? そ、そんな法律は、ないけど……」
「じゃあいいじゃん。飲めないなら飲まなきゃいいし、斧が振れないなら別の武器を使えばいい。って、そもそもドランは何が得意なの?」
ドランの目が、わずかに輝いた。
「……もの作り。精密な……小さな機械仕掛けとか、宝飾品とか……みんなは馬鹿にするけど、僕は、細かいものを作るのが好きなんです」
「最高じゃん」
「え?」
「最高だよ。手先が器用なドワーフって、たぶんめちゃくちゃ希少価値高いぞ。酒飲んで斧振るドワーフは腐るほどいるだろうけど、精密な機械仕掛けを作れるドワーフは少ないでしょ」
「そ、そうかな……?」
「そうだよ。見せてくれない? ドランの工房」
ドランはしばし呆然とした後、こくこくと何度も頷いた。
◇ ◇ ◇
ドランの工房は、交易街の路地裏にある小さな地下室だった。
だが、一歩足を踏み入れた瞬間、ケンタは息を呑んだ。
「……すげえ」
狭い空間に、所狭しと並ぶ工具。やすり、ハンマー、ルーペ、坩堝。壁には完成品のアクセサリーや精密な歯車が飾られている。
そのどれもが、信じがたいほど緻密で美しかった。
指先ほどの小さな歯車。寸分の狂いもなく噛み合う構造。宝石を留めた指輪は、光の当たる角度まで計算されているかのように輝いている。
ケンタがその腕前に感嘆していると、ドランの視線が、ケンタのバックパックに向いた。
正確には、バックパックのサイドポケットについている金属のファスナーと、ストラップに引っ掛けてあるカラビナ。そして——
「ケ、ケンタさん……それ、何ですか?」
ドランが指差したのは、ケンタがポケットから取り出した懐中時計だった。
「ん? これ? さっき遺跡で拾った時計だけど」
「見せて……見せてください!」
ドランの目が、別人のように鋭くなった。
ケンタが手渡すと、ドランは震える手で懐中時計を受け取り、ルーペを目に当てて覗き込んだ。
「…………!」
息を、呑んだ。
「な、何ですかこれ……! この歯車! この脱進機構! 魔力の痕跡が全くない! 純粋な機械動力だけで時を刻んでいる……!」
「まあ、手巻き時計だからね。ゼンマイの力で——」
「ぜんまい!? このバネのような部品ですか!? これが、こんな精密な運動を生み出している……!? ありえない……魔法なしで、こんな精密なものが作れるなんて……!」
ドランは懐中時計を捧げ持つようにして、ぼろぼろと涙をこぼした。
「う、美しい……美しすぎます……これは、僕が目指していたものです……魔力に頼らない、純粋な技術の結晶……!」
次に、ドランはファスナーに食いついた。
「こ、これ! この金属の歯が噛み合って布を閉じる仕組み! 何ですかこの発想! 天才ですか!? いやこれもう芸術ですよ!」
「いや、ファスナーは俺が発明したわけじゃ——」
「カラビナ! このバネ付きの輪っか! 開いて閉じてロックされる! う、うわああ、何この合理的な構造! 僕に、僕にこれを作らせてください! お願いです!」
ドランは地面に頭をこすりつけるように土下座した。
ケンタは苦笑しながらドランを起こした。
「いいよ。別に秘密でもないし。作りたいなら教えるよ」
「ほ、本当ですか!?」
「うん。つーか、ドランの腕があれば、すぐ作れると思う」
ドランの顔が、満面の笑みに変わった。泣き虫で気弱なドワーフの目が、職人としての炎に燃えている。
その横で、ライラも負けじと前に出た。
「私も! ケンタ、あなたのその『魔法を使わない因果律の直接干渉』を、私の研究対象にさせて! スライムを塩で倒すやつとか、絶対論文三本は書けるわ!」
「論文……? まあ、いいけど。研究対象にされるのは複雑だな……」
ケンタは二人を見た。
好奇心に目を輝かせるハーフエルフの魔法使い。
職人魂に火がついたドワーフの鍛冶師。
どちらも、まだ出会って数時間の相手だ。だが、旅人の勘が告げていた。こいつらとは、長い付き合いになる。
ケンタは、にっと笑った。
「いいよ。俺はバックパッカーだから、この面白そうな世界を端から端まで歩き回るつもりだ。一人より三人のほうが楽しいし——一緒に行こうぜ」
ライラとドランの顔が、同時にぱっと明るくなった。
「行く行く! あなたの『因果律の直接干渉』を余すところなく記録するわ!」
「ぼ、僕も行きます! ケンタさんの道具を全部分解させてください!」
「いいけど、ちゃんと作り直してね。」
三人は笑い合った。
こうして、現代の知識と機転を持つバックパッカー、探求心旺盛なハーフエルフの魔法使い、そして天才的な手先を持つ気弱なドワーフの鍛冶師という——奇妙にして最強の放浪パーティが、誕生した。
◇ ◇ ◇
その夜。
ドランの工房に泊めてもらったケンタは、寝付けずに窓辺に立ち、二つの月を見上げていた。
ポケットの懐中時計は、相変わらず沈黙している。あれだけ暴走した針は、今はぴくりとも動かない。
「……爺さん。あんた、このこと知ってたのか?」
問いに応える者はいない。
だが、不思議と不安はなかった。
知らない場所。知らない世界。知らないルール。
それでも、面白い人間がいて、旨そうなメシがあって、見たことのない景色がある。
バックパッカーにとって、これ以上の冒険はない。
「……よし」
懐中時計をぎゅっと握り、ケンタは窓を閉めようとした。
その時だった。
視界の端を、何かが横切った。
一羽の鳥。
いや、普通の鳥ではない。全身が淡い光を放つ、白金色の鳥だった。夜空を音もなく滑空し、工房の屋根の上をゆっくりと旋回している。
「……光る鳥?」
続いて、反対側の闇の中にも何かが見えた。
路地裏の暗がりに、二つの紅い目が浮かんでいる。犬のような、猫のような、しかしどちらとも違う漆黒の獣。影そのものが形を持ったかのような存在が、じっとこちらを見つめていた。
ケンタは目を細めた。
「……なんだありゃ」
光る鳥と、影の獣。
その二つの存在が、まるで互いを牽制するように、工房の上下で静かに対峙している。
ケンタには、まだわからなかった。
光の鳥が、女神ルミナスの斥候であることを。
影の獣が、少年神ダクネスの尖兵であることを。
そして、自分がこれから——二柱の最高神による、壮大で理不尽で、ときどき間抜けな「おもちゃの取り合い」の的になることを。
今はまだ、知らない。
ケンタはふっと笑い、窓を閉めた。
「まあ、明日は明日の風が吹く、ってね」
二つの月が、異世界の夜を静かに照らしていた。
◆ ◆ ◆
【次回予告】
異世界での初仕事は「暴れイノシシの討伐」!
無事に大量の美味い肉をゲット——かと思いきや。
ダクネスの悪戯によって、イノシシ肉がゴムのように硬くなってしまった!
噛み切れない極上ステーキに泣き叫ぶライラ。
だがケンタの「科学」が魔法の呪いを打ち破る!
次回、『バックパッカー、神々の砂場を往く』第2話——
『暴れイノシシの迷惑な祝福をハックせよ』
お楽しみに!




