第57話 境界の残響、あるいは白銀の敗北
1月19日
後期のオンライン授業が再開して二週間が経とうとしていた。
本来なら、去年の秋から年末に提出しなければならない、高等部への「内部進学意思確認書」と「入学確約書」の提出期限が明日に迫っていた。
『安藤は気持ちの整理もあるだろうから』と、特別に提出期限を延ばしてもらっていたんだ。出席簿では女子になっていたのに……。
オンライン授業は一日も欠席や遅刻もなく、中間試験の成績も上位だったことが高校への進学を決定づけていた。
三春台学院は、そのまま上の高校へ上がるのが当たり前だ。けれど、僕にとっては違う。
この書類で、四月からの僕は「女子生徒」として、新しい色のリボンをつけることになる。
「克美、書類書けた?」
と、母さんが部屋の外から声をかける。
「……うん、書いたよ」と短く答え、ペンを置いた。
僕の名前『安藤かつみ』はすでに印刷されていて、保護者記入欄はすべて埋まっていた。
あとは、性別欄の小さな四角い枠を塗りつぶすだけだった。
乾き始めたインクの跡。現実の僕が、ようやく「新しい自分」へと一歩踏み出そうとした、その日の夜――。
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19時30分
店に集まった僕たち三人の空気は、かつてないほど張り詰めていた。テツさんは、試験だか予備校だかで欠席だ。
すでに本戦への切符は手に入れている。
勝敗に関わらず本戦進出。だけども、「負けると本戦エリアの転送先に影響するわよ」とベルさん。
けれど、予選決勝の相手は前回5位のユニット。三人編成の狙撃特化ユニット『ゴースト・アイズ』だったからだ。
「そういえば、彼女も『赤眼』だった気がする……」
敵リーダーのシオンは、僕とは異なるけれど『何かしら』のスキルを持つ狙撃手として有名だとベルさんは言っていた。
フィールドは、一回戦と同じく濃霧に覆われた『白銀の廃都』。
一回戦では自分たちの独壇場だった廃都が、似たようなスキルを持つ「敵」によって今度は自分たちを追い詰める最悪の死地へと変貌する。
「またここかよ……」八代がぼやく。うん、僕もそう思う。
けれどこれは一回戦をシード権で回避した相手にとってはハンディキャップであり、同じフィールドを経験している僕たちへのアドバンテージと思いたい。
「これは僕たちにとってはアドバンテージだよ。だって同じフィールドを経験してるんだからさ」と八代をなだめる。
ベルさんと共有した視覚で、索敵を開始する。
敵三人は、ほぼ正面だったが――。
敵リーダー、シオンの位置は、方位001(N)、距離1249。時計塔の影。冷徹な「赤眼」の視線を感じる。
二人目は、左翼・方位331(NW)、距離1097。超高層ビルの屋上。
そして三人目は、右翼に同じような距離……崩れたマンションの最上階――。
絶望的な距離だ。
「ベルさん……」
「ええ、これはちょっと……」
「ん? どうした? 二人とも暗い顔して」
八代が状況を把握できていないこともあり、疑問を投げかけてくる。
「敵は三人とも、超長距離……1000メートル以上先から、僕たちを狙っている。しかも僕と同じ『赤眼』だ」
「!!」
八代が、声にならない叫びをあげる。
「そりゃどうしようもねぇな……一回戦のアドバンテージなんて、微塵もないな」
「そうね……しかも私、なんだかこの何日か、システムとのリンクがおかしくて……」
よく見ないとわからないけど、アバターに微かな「ノイズ」が走っていた。
それより、敵リーダーが時計塔の影にいるということは、僕と同じスキルなのか……。
1249メートル。本来なら到達まで一秒半はかかるはずの距離。
――なのに、シオンの銃口が火を吹いた瞬間、僕の網膜には「一秒弱」で世界が弾ける未来が、確定事項として焼き付いていた。
……逃げられない。
今まで、「狩る側」だった僕は、初めて狩られる側に回る恐怖を感じた。
M24の有効射程は、ゲーム内では500メートルに抑えられているけど、実銃は800。最大射程は1000メートルと覚えている。
ベルさんもなんだか普段どおりではなさそうだ。僕一人でやるしかない――。
そう決断した刹那、左翼から一発の銃弾――.338ラプア・マグナム弾――が、飛翔してくるのが『視え』た。
「ッ、ベルさん、回避を――!」 僕の叫びより早く、敵の放った一撃がベルさんの頭部を貫く。
その瞬間、視覚を同期させていた僕の網膜に、ベルさんの受けた衝撃とシステムノイズが直接流れ込み、真っ白な閃光とともにパニックに陥る。
撃たれた――。
実際に撃たれたのはベルさんだったけど、視覚共有で自分が撃たれた衝撃を感じた。
ふっと意識が飛びかける……でもまだ終わっちゃいない。800だろうが1000だろうが当ててやる!
僕は敵リーダーに向け、『正解』の場所に初弾を放とうと引き金に手をかける――レティクル内に、僕と『同じ目』があった。それでも構わず、引き金を絞った。
僕は1.51秒後に頭を撃ち抜かれ、ホワイトアウトした――。
真っ白に塗りつぶされた視界の中で、システムのアナウンスが無機質に響く。
『勝者、「ゴースト・アイズ」』
リスポーン地点に戻された瞬間、僕は自分の頭を抱えてうずくまった。
脳を焼くようなノイズの残響と、ベルさんが撃ち抜かれた瞬間の「赤」が、瞼の裏に張り付いて離れない。
二位通過。本戦への切符。
そんなものは、今の僕には何の慰めにもならなかった。
「……ごめん。……ベルさん、ごめんなさい……」
先にリスポーンしたベルさんは、僕の頭を撫でてくれた。
現実世界で、ようやく新しい自分への一歩を踏み出したはずなのに。
その一撃は、僕が今日塗りつぶしたはずの「未来の色」さえも、無慈悲に白く染め上げていった。




