第45話 神の座標、あるいは観測者の呪い
11月12日
八代は研修旅行の二日目で、今日もいない。
旅行先は広島と長崎の選択制で、八代は広島へ行ったはずだ。
自分が行くわけじゃないから、どっちかなんて気にはしていなかったけど、昨夜八代から届いたメッセージには『原爆資料館見学して戦争の凄惨さを感じた』と神妙なことが綴られていた。
かと思えば、『土産はもみじ饅頭がいいか?』とか、『自由行動時間に食った広島焼き美味かった』という呑気な内容が続いていた。
相変わらずだな。
そうとしか感じなかった自分に、少しだけとまどった。
なんだか現実に対する興味というか、執着心が、確実に薄くなっている。
それでも進学の不安があるから、午前中だけは12月の中間試験範囲の予習をした。
けれど、お昼ご飯を挟んでまで勉強する気になれず、結局VRギアへ手を伸ばした。
早く、あの『午後二時』の世界へと――。
+++
立冬を過ぎた、現実世界の秋晴れの爽やかな空とは違い、永遠の『午後二時』の太陽は、相変わらず不気味なほど眩しい。
もう僕の中では、丸一日ここにいてもいいような気がしてきている。でもそれでは現実の僕の身体は衰弱してしまう――。
え? なら、ベルさんの身体はいったいどうなっているんだろう……。
店に入ると、ベルさんはいつものようにカウンターで、今日は珍しく、紅茶を飲んでいた。
店内は、外の眩しさとは対照的に、深い海の底のような静寂に満ちている。
「いらっしゃい、カツミちゃん。今日は一段と、こっちに馴染んでいるわね」
ベルさんの言葉に、僕は喉元まで出かかった疑問を飲み込んだ――『ベルさんの現実の身体は、今、どこでどうしているんですか?』
そう聞くことは、彼女の『聖域』を土足で踏み荒らすような気がしたから。
「さっきまで勉強してたんですけど。なんだか、文字が滑って頭に入らなくて現実にいるのが、すごく疲れちゃうんです」
ベルさんは僕の前に、実体化させた温かいコーヒーを置いた。
「それは、あなたがこちらの真実を知ってしまったからよ。一度ピントが合ってしまったら、もうボヤけた世界には戻れない……」
ベルさんの言葉は、今の僕にとって残酷なほど正論だった。
僕は差し出されたコーヒーの香りを、深く吸い込む。現実の部屋で食べるコンビニのパンよりも、この実体化されたデータの苦味の方が、ずっと「生きている」実感がした。
「ベルさん……。ここに来てから、時々わからなくなるんです。お腹が空いたから現実に戻るのか、それとも、現実を維持するためにしかたなく食べているのか」
「そうね。……『食べる』ことも、『眠る』ことも、あっち側の世界を維持するためのメンテナンス作業でしかなくなる。シンクロ率が上がれば上がるほど、向こうの肉体はただの重荷に感じられるようになるわ」
ベルさんは自分のカップを口に運び、目を細めた。
その仕草があまりに優雅で、けれどどこか儚くて、僕は思わず口を開いた。「ベルさんは怖くないんですか? もし、あっち側の『メンテナンス』を忘れてしまったら……」
僕が本当に聞きたかったのは、彼女の生命維持の危うさだった。
ベルさんは小さく笑って、答える
「怖くないわ。私にとっての生命維持は、あっちで点滴バッグを眺めることじゃなくて、ここで『引き金』を引き続けることだから」
僕はベルさんの「点滴」という気になる単語にあえて触れずに、彼女の顔を見つめた。
「……カツミちゃん、あなたには私の『眼』がどう見えているのかしら」
ベルさんと眼が合うと、その瞳はいつもより深く、ガラス細工のような冷たい光を宿していた。
「私のレアスキルは、あなたの『赤眼』とは少し違うの。望まなくても半径2キロ以内、この世界のプレイヤーの位置情報、ステータス――ノイズが、私の脳内に直接、マッピングされるのよ。すべて」
僕は息を呑んだ。
それはもはや、狙撃の域を超えた「神の視点」だ。
「すごすぎます。それなら、誰もベルさんからは逃げられない……」
でもベルさんはこう言ったんだ。
「そう。でもね、その代償は重いわ。何人分ものノイズを脳が処理し続けなきゃいけない。ログアウトして現実に戻っても、私の脳は無意識に、プレイヤーのノイズを探し、読み取ろうとして、頭痛を引き起こすの。あっちの世界のほうが、人間が多すぎて。だから、私はここでしか息ができないのよ」
ベルさんの淡々とした言葉に、背筋が凍るような感覚を覚えた。
彼女はカウンターに置かれた、手入れの行き届いた銃身を愛おしそうに撫でる。
「道具は壊れたら直せる……でも、人間はそうはいかないわね」
僕は何も言い返せなかった。
さっきの『点滴バッグ』という言葉。そして、今の『直せない』という響き。
聞いちゃいけない。これ以上、踏み込んじゃいけない。
「だから私は、こっちでもめったに外には出ない。スナイパーとしての眼が発動しちゃうからね。移動すればするほど多量な座標値が高速に流れ込んで、自分自身が飲み込まれてしまうから。
ねえ、カツミちゃん。あなたは『視る』ことで世界を書き換えるけれど、私は『視える』ことで世界に縛られているの」
ベルさんは、自分の細いこめかみを指先で軽く叩いた。
「それが、私のギフトで……呪いなのよ」
「……でも、ベルさん。何度か、一緒に外に来てくれましたよね。それに僕たちをザックから助けてくれたあの時も?」
ベルさんは一瞬、困ったような、けれど慈しむような笑みを浮かべた。
「ええ。脳が白熱して、焼き切れるほどではないけどね。でも、自分の『真実』が壊されそうになっているのを、指をくわえて見ていられるほど、私ガマン強い人間じゃないのよ」
「真実……?」
「そう、真実。あなたは、イレギュラー……システムのバグでしかない存在――出来損ないの私が成し得なかった、スナイパーとしての『真実』が見える、唯一の存在なのよ」
ベルさんは何を言ってるんだろう。その言葉に今度ばかりは反射的に反応してしまった。
「僕はそんな存在じゃないし、ベルさんは出来損ないなんかじゃないです!」




