第39話 朝の鏡、十七時への渇望
10月16日
翌朝、いつもどおりに7時に起床。
普段顔を洗う時にはあまり鏡を見ないようにしていたけれど、今日は自分の「眼」の色が気になり、じっと鏡を覗き込んでみる。
そこには碧でも赤でもない、いつもどおりの榛色の瞳が僕を見返していた。
ゲーム世界のデータが現実世界の身体に影響するなんてあり得ない。頭ではわかりきっているけど、なんだか得体の知れない不安が胸の中にうずまいていたんだ。
洗面所で鏡の前にいた時間は、母さんに笑われるくらい長かったらしい。
「克美がそんなに長い間、鏡を見てるってなんだか珍しいわね」
「あ、うん。目が充血しちゃったかなーって気になって」
とっさにそんな言葉で誤魔化してしまった。
「いただきまーす」
「めしあがれ」
食卓につき、トーストにバターと大好きな半熟サニーサイドアップの目玉焼きを乗せて、塩コショウをかける。
一口齧りながら、僕は無意識に右肩を左手で撫でていたらしい。
「克美、肩でも痛いの?」
母さんに言われて、初めて気がつく。
「ん? なんでもないよ」
「そお? 変な子ねぇ」
スリングの感触がしたような気がしたのかもしれない。身体の一部――右腕をどこかに置き忘れてきたような感覚。スリングから伝わる約7キロの重み、右肩を突き抜ける衝撃。
その感覚が、狂おしいほど懐かしく思えた。
なんだかダイブする17時が待ち遠しくてしかたない。
ベルさんはどんなカスタマイズをしてくれるんだろう……。
それでも出席日数が10日近く足りない分、今の成績を維持しなくっちゃと、オンライン授業は真面目に受講する。そうしないと、本当に留年の危機があるから。
15時半、授業が終わると30分ほどで宿題を済ませ、17時を待たずに僕はVRギアを装着した――。
+++
『System Login. Identity confirmed: A-Katsumi. Welcome back to Central City』
システム音声を聞き流し、実体化すると同時にベルさんの店へと走る。
重い鉄のドアを勢いよく開けると、そこには昨日と同じ、止まった時間の中に彼女がいた。
「お帰り、カツミちゃん」
「ただいま、ベルさん!」
「そんなに急いで。まだ17時までだいぶ時間あるわよ? そんなに銃が恋しかったぁ? それとも私?」
ベルさんは僕をからかう。
「え? あ、り……両方です!」
僕はベルさんの言葉に少しドギマギしながら、ちょっとだけ反発するように答える。
するとベルさんは、「え? あ、あはは……」と、珍しく顔を赤らめて照れ笑いする。
僕は初めてベルさんの笑顔を見た気がする。
いつも不敵にニッと笑ったり、僕をからかったりする時の「武器屋の店主」としての顔じゃない。
今、目の前で赤くなってうつむいているのは、どこにでもいるような、年上の綺麗な女の子だった。
……なんだか、直視できない。
「もう、カツミちゃんたら。調子いいんだから」
ベルさんは照れ隠しにそう言うと、視線を逸らすようにカウンターの下から、丁寧に布で包まれた細長い物体を取り出した。
「さあ、お待たせ。あなたの新しい『右腕』よ」
ベルさんは丁寧に巻かれていた布を解き、僕のM24をカウンターに置いた。
見た目は変わっていない。
「さあ、握ってみて。あなたの身体ログから、指の関節の動き、頬を寄せた時の角度……そのすべてを、1ミリ以下の単位で『今のあなた』に合わせたわ」
僕は息をのみ、右手を伸ばす。
グリップを握った瞬間、全身に電気が走ったような感覚に襲われた。
……えっ?
昨日までは鉄の塊、ただの武器としてしか感じていなかった感覚が一変した。
指にかかるトリガーの重み、頬を預けるストックの高さ。
手に馴染む……いや、まるで最初から僕の身体の一部だったみたいに、どこにも隙間なく吸い付いてくる。
「ベルさん。全然違います。重くない!」
「ふふ、重さは変わってないわよ。ただ、あなたの『重心』と完全に一致させただけ。これで、あなたとM24の境界線は、もうほとんど無くなったはずよ」
ベルさんは満足げに頷いた。
ボルトを引く。その動作すら、自分の肘を曲げるのと同じくらい滑らかで、何の抵抗も感じない。
「これが……僕の『腕』」
僕は確信した。
この銃でなら、あの「赤と黒」の世界で見た真実を、もっと確実に射抜ける。




