第35話 止まった太陽、十七時の静寂
ベルさんの優しい声と、指先の震え。……それは何を意味していたんだろう。
自分の悩みを無理やり閉じ込めようとしている僕の胸に、正体の知れない感情が襲ってきた。
今日はもう、訓練する気力なんて出てこない。
現実では何時だろう……救いを求めるように、視界の隅で明滅する【16:55】というシステムクロックの数字に目をやった。
現実の横浜はまだ日は沈んでないけど、そろそろ空が薄暗くなり始めている頃だ。
窓がないベルさんの店を出れば、街はきっとログインした時と寸分違わぬ『午後二時』の角度で、影は固定されているはずだ。
このままだと、自分の感覚まで狂ってしまいそうだ。
ベルさんの「指先の震え」が、まだ僕の脳裏に焼き付いて離れない。
僕は空中に指を走らせ、システムメニューから八代へメッセージを送る。
『ごめん。今日は、訓練はやめておく。なんだか疲れた』
すぐに返事が返ってきた。
『どうした? まあいいや。脳が疲れてるんだろ。ゆっくり休め』 八代のぶっきらぼうな気遣いが、今は少しだけ救いになった。
「ベルさん、ごめんなさい。今日はもう帰りますね」「あら、大丈夫? 随分と話し込んじゃったから疲れちゃった?」
ベルさんもシステムクロックを確認したようだ。
「あ、もう17時なのね。店にいると、私、つい時間を忘れちゃう」
僕はその何気ない一言が、なぜかベルさんは時が止まったこの場所でしか生きられないように感じられて、胸が締め付けられた。
「……じゃ、明日17時に来ます」
「ええ、またね」
僕はベルさんの顔をまともに見ることもできずに、逃げるようにログアウトした。
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ホワイトアウトした世界から戻り、目を開けると10月の薄暗い夕闇に包まれた、自分の静かな部屋が待っていた。
ゲームの中は、あんなに眩しかったのに、ベルさんの店と同じだ。
「ベルさん……学校、行きたいのかな」
彼女の指先の震えを思い出し、胸の奥がキュッと締め付けられる。
それと同時に、暗闇の中で自分の身体の「違和感」が、嫌でも意識の中に浮き上がってきた。
「僕の、身体はずっとこのままなんだ……」
僕は布団を引き寄せ、丸くなった。
このまま、あの『永遠の午後二時』に閉じ込めてもらえたら、どんなに楽だろうか。
現実は、容赦なく夕闇を深めていく。
僕はただ、暗くなっていく部屋で一人、明日が来るのを拒むように目を閉じた。




