第30話 十七時の境界線
10月12日
12時30分。
今日は土曜だから授業は午前中の3時間だけ。
オンライン授業のウィンドウを閉じると、僕の部屋には10月の冷ややかな静寂だけが残る。
今日は土曜日だから、三春台の丘の上にある学校では今ごろホームルームが始まり、もうしばらくすると来週に備えてみんなで教室を掃除しはじめるころだ。
約9割の生徒は部活動に汗を流しているはずだけど、僕も八代もどこにも所属していない、いわゆる帰宅部だ。
八代は学校から黄金町駅へ坂を下り、京急線から横浜駅で東横線に乗り継いで妙蓮寺駅まで帰ってくる。
そこから松見町のこのマンションまで、歩いて約10分……。
いつもなら1時間弱で彼は帰ってくるけれど、今日は土曜日だ。コベルホールで昼飯を食べてから帰るのか、クラスメイトとどこかに寄るのか。
どっちにしても17時のログインまでには、まだたっぷりとした時間が残されている。
今日はあいにくというか、幸いにも宿題もなかったし、母さんも仕事でいない。
一人でお昼ご飯を食べて、あとは八代を待つだけだ。
ふと、自分の手を見る。
窓から差し込む秋の鋭い陽光が、僕の腕を透き通るほど白く照らし出す。
節の目立たない小さな手。
「もう慣れちゃったんだな」と何度も自分に言い聞かせるけれど、心のどこかでは、かつての「僕」を必死に探している自分がいる。
三春台学院の男子制服を着て、眩しい日差しの中を八代と笑いながら坂を下っているはずだった自分。
その「本来の姿」が、鏡の中に映る女の子の姿に塗りつぶされていく感覚が、たまらなく怖くなる時があるんだ。だから僕は鏡を見るのを避けていた。
16時10分。
スマホが震え、八代からのメッセージが届く。
『今、黄金町。電車来た。17時な』
短い言葉。それだけで、彼が人混みの中を急いでいる姿が目に浮かぶ。
そこからの40分間が、やけに長い。
明るかった部屋が少しずつ夕闇に侵食されていく。
照明をつければいいのに、なんとなく身体が動かない。
八代が運んできた、昨日の『出席簿』の話。
自分が完全に女の子になってしまうのを認めるのが怖くて、暗がりに逃げ込みたくなるんだ。
9月24日。あの日を境に、僕の身体は一変してしまった。自分がかつての「僕」とは違う存在に変わってしまったことを認めるのが怖くて、暗がりに逃げ込みたくなるんだ。
16時50分。
再びスマホが震える。今度はビデオ通話だ。
画面の中の八代は、妙蓮寺の駅を出て水道道沿いの坂道を早足で登り、交差点で信号待ちで通話してきたみたいだ。
『今、信号待ちだ。はぁ、はぁ……』
「八代、そんなに急がなくったって……」
『大丈夫。お前の部屋、下から見たら真っ暗だったぞ。ログインする前にしん気臭ぇ顔してんなよ』
八代のぶっきらぼうな声に、僕は苦笑いした。
「……うん。ちょっと考え事してただけだよ。『出席簿』のこと、ありがとう」
八代は信号を渡りながら、少しだけ照れくさそうに笑った。
『気にすんな。お前は一人でずっと考えてるだろ? 学校のデータがどうだとか、身体がどうだとかさ』
画面の中の八代が、少しだけ真剣な目に変わる。
『でも、17時にログインしちまえば、そんな理屈は関係なくなるだろ。俺はお前の相棒で盾だし、お前は俺の相棒のスナイパー。それだけが真実だ。みんなログインしてる時だけが、本当の自分でいられる時間なんだよ』
八代の言葉は、いつも真っ直ぐで迷いがない。
彼は僕の身体がどう変わろうと、僕の心が「男」のままであろうと、そんな「境界線」を飛び越えて会いに来てくれる。
16時55分。
『ウチに着いた。じゃあ、17時にベルさんのとこで』
通話が切れる。
僕は自室のベッドに横たわり、ヘッドセットを手に取る。
ベルさんが言った『嘘を見抜く眼』。
戦闘中に一度だけ発動したあの『赤眼』は、僕の「揺らぎ」さえも暴いてしまうんだろうか。
でも、今はいいや。
この空白の時間を終わらせてくれる八代を、世界で、誰よりも早く見つけ出したかった。
17時ちょうど。
僕は意識を加速させ、あの感覚が待つ世界へとダイブした。




