君の声が聞こえたんだ
周囲が歓声に包まれる中、俺は軽く準備を始める。現在の順位は断トツで最下位だったところから、5位まで追いつけそうな所へと迫っていた。そんな中で笹野先輩がバトンを受け取る。瞬間、加速した彼が一瞬にして5位だった人を抜かす。
さらに加速していき、100mを走る頃には4位へと順位を上げていた。それでも先頭との差はまだ40mはある。それでも加速いき、先輩は距離を縮める距離にして20m。そんな中で先頭の走者から速川先輩にバトンが継がれる。
余裕だろ、コレなんて、どこか慢心した表情で俺をくすっと笑った彼が走り出す中、
「それじゃあ、行ってくるね、桜」
そう声を掛けてから俺はバトンを受けるのだった……。
(少し力を借りるね、澪)
これまで見てきた中で最も美しいフォーム。自分に最も応用できる彼女の走り方を思い出す。しなやかで、無駄がなく、それでいて、誰よりも速かったあの美しいフォームを自分に流用する。
——タンッ。
地面を押し出した俺は一瞬で加速した。力の流れ、重心の位置、自分の体で再現できる形へ落とし込む。その美しさに、惹かれるように見ていた彼女の走りが今の自分でも自然とできていた。
周囲の音が遠のく。歓声も、実況も、何も聞こえない。視界の中心には速川先輩だけがいた。地面を蹴る、体が前へ飛び出すように押し出される。
そうしてぐんぐんと速度が上がっていき、30mを超える時には既に一人抜かしていた。もう一人までの距離も10数メートル。そんな中で走り終えたカーブ。そこで一気に加速し、もう一人抜き去った。あと、一人。目の前で余裕そうに走っている彼を抜き去るだけだった。
軽く走っても勝てると思っているのだろう。今も俺に気付かない彼に向かって更に加速する。一歩ごとに体が弾かれるように前に押し出される。いつもなら崩れるはずのバランスが崩れない。
足が止まらない。もっと速く。もっと前へ————。
そうして迎えた百二十メートル地点、ようやく俺は彼の後ろに着いた。
後ろから迫る足音で先輩はようやく気づいたのだろう。ちらりとこちらを見て、目を見開いた。信じられないものを見るように。そのままさらに加速する。
分かっている。今の俺に余力なんてない。普通ならここから差は縮まらない。体力も。筋力も落ちている。経験ですら、全部向こうが上だった。
けれど、それがどうした?”離されたくない”ただその一心だった。互いに速度を上げる。だが距離は変わらない。縮まらない。抜かされまいと彼が最短距離を防ぐ。ぐっと奥歯を噛みしめて地面を押し込むけれど距離は縮まらない。
残り50m、カーブを走り終えた俺たちは直線へと差し掛かる。もう誤魔化しは効かない純粋な速さだけの勝負になる。勝つために踏ん張らないといけない。なのに、足が重い。肺が悲鳴を上げる。息が苦しい。そん中で視界に映る。
『————連!!』
なんて必死に叫ぶ桜の姿が見えた。必死に誰よりも前に出て叫ぶ、初めてみるどこか必死な表情に、ふっと身体が軽くなった。期待するように、信じるように、叫ぶ姿に再度俺は加速した。彼女の元へ、一番にたどり着けるようにと。あえて外から彼を抜く決意をする。
勝ちたい!……本気で勝ちたい!!
胸の奥で何かが燃え上がった。地面を蹴る。足の回転数が上がる。腕を振って、さらに加速していく。前へ、前へ、前へ。進む身体は不思議と軽い。
先輩の肩が近づく。並んで、追いついて。あと一歩。あと半歩。あと少し。そして——倒れ込むように最後の一歩を踏み込んだ。視界が揺れて、体勢が崩れ落ちる。少し受け身を取るようにして転がり込んだ先で、俺は後ろを振り返る。
砂が舞って、呼吸が乱れる。全身が熱い。どっちが勝ったんだ。荒い呼吸のまま振り返った先に見えた。こちらに向かって一位の看板を持ちながら走ってくる係の人の姿を。そして、悔しそうに顔を歪めた先輩を。瞬間、全てを理解し
「っしゃああああああああ!!」
気づけば叫んでいた。抑えきれないほど大きな声で。そんな俺の姿を桜が口を抑えながら、目に涙を溜めこんで。けれそ嬉しそうに微笑んだ。
(……あぁ、本当によかった。勝てて)
なんて心の底から安堵するのだった。
***
外側から周り込んだおかげで、幸いにも他の選手との衝突はなかった。俺はようやく息が整ったを確認し、桜の元へと向かって行く。
歓声が聞こえる。クラスメイトたちも何か叫んでいる。けれど不思議と、その全部が遠くて。視界の中にいるのは一人だけ。桜だった。近づくごとに目元を赤くして今にも泣き出しそうなのに、それでも必死に笑おうとしている。
その姿を見た瞬間。胸の奥が少しだけ温かくなる。俺は彼女の前で立ち止まった。そして少しだけ得意げに笑う。
「ほら、勝ったでしょ?」
なんて、いつものように笑いながら告げた。すると桜の瞳から涙が零れ落ちた。
「……うん」
震える声。
「ありがとう、連……」
嬉しそうに。本当に嬉しそうに。泣きながら笑う。そんな彼女を見ていると、なんだか照れ臭くなった。
右手を上げかける。けれど擦り剥いた掌に血が滲んでいることに気づき、途中で止める。代わりに左手を伸ばした。そっと頭を撫でる。柔らかい髪が指先をくすぐった。
「桜の声、聞こえたよ」
彼女が顔を上げる。
「最後、かなりきつかったんだけどさ」
苦笑する。
「背中を押された」
本当だった。足は重かった。肺は焼けるようだった。それでも。あの声だけは不思議なくらいはっきり聞こえた。
「ありがとう」
そう言うと。桜はさらに涙を溢した。
「私……」
言葉が詰まる。何度も何度も息を整えようとして。それでも感情が先に溢れてしまう。
「応援することしかできなくて……」
ぽろぽろと涙が落ちる。
「それでも連は勝ってくれた、本当にかっこよかった……」
先輩たちのおかげだよ。そう言おうとした瞬間だった。ふわりと柔らかな感触。桜が胸へ飛び込んできた。
「っ――」
さすがに驚く。けれど彼女は離れない。服をぎゅっと掴んで。肩を震わせながら泣いていた。嬉しくて。安心して。ようやく張り詰めていたものが切れたのだろう。俺は何も言わなかった。
ただそっと背中へ手を回す。ゆっくりと撫でる。大丈夫だと伝えるように。そんな様子を少し離れた場所から笹野先輩が眺めていた。
やけに嬉しそうな顔で。口元なんて完全に緩んでいる。
「……」
目が合った。先輩はにやりと笑う。どう見ても何か言いたそうだった。思わず睨む。すると先輩は肩をすくめた。
『はいはい』
そんな声が聞こえてきそうな仕草だった。俺は呆れたように小さくため息を吐いた。そして再び桜へ視線を戻す。まだ少し震えている背中を。ずっと優しく撫で続けた。




