派遣民カルナの手記
奴隷上がりである私たちが、他国へ出向いて「生活や知識の指導」を行う。
それは言い換えれば、現地の人々に対して「教える者(上手に立つ者)」になるということだ。
それゆえ、かつて自分を支配していた主人の元へ派遣されることは絶対にない。
もしそんな再会を果たせば、過去の恨みや屈辱から暴動に発展しかねないからだ。
そうした事態を防ぐための配慮であり、また派遣先には常にタリス兵の護衛が同行するため、身の安全は確かに保障されていた。
こうして故郷から遠く離れ、各地を転々と過ごすうちに、自分がどの国に属しているのかという「帰属意識」は薄れていった。だが、それが特別寂しいとも思わない。
もとより私は奴隷として生まれ、故郷は戦争で荒らされ、過酷で辛い
日々を生き抜いてきたのだから。――ただ、ふとした折に思う。どこ
かで生きているかもしれない家族に、もう一度だけ会いたい、と。
今回の私の任務は、セレニアの地で上がった「作物の味がおかしく
なり、食べると腹痛を起こす」という問題の調査であった。現地住民
の多くが農作物による体調不良を訴えており、安全を期すために水で
はなく、水で薄めたワインを飲んで凌いでいる状況だった。
私は被害の発生場所、発生時期、患者の症例、水源の位置、飲食物、住民たちの行動パターン、そして土壌の状態を細かく収集して整理した。
その結果、原因は川の上流にあると確信し、源流を目指して山へと向かった。
果たして、山深い上流には一人の革細工職人がひっそりと暮らしていた。
調査を進めると、原因は彼が行う革の「鞣し(なめし)」作業の廃液にあった。
職人は廃液を川に流せば下流の水が汚れると考え、良かれと思って土壌にそのまま捨てていたのだ。
しかし、鞣しや漬け込み、脱脂、洗浄の工程で大量に使われていた石炭成分やタンニン、化学物質が土壌にしみ込み、長雨によって土砂とともに川へ流出。
それが下流の水質を汚染し、農作物や土壌に悪影響を及ぼしていたのである。
職人は、世間から忌み嫌われがちな自らの職業を考慮し、人目を避
けて水が豊かな山深くに留まっていたのだという。
彼は納品物を受け取りにくる専門の業者から普段の生活備品を受け取
っていたため、セレニアの町に依存しない独立した暮らしを送っ
ていた。
「牛を神聖な生き物とし、肉や皮のための屠殺を忌避するこの地に、これほど相性
の悪い職業があるとは思わなかった……下調べが甘かったよ」
職人は自嘲気味に肩を落とした。この一帯は敬虔な信徒が多く、牛は
農耕に不可欠な神聖な存在とされていたため、人々は牛革ではなく羊
毛や蚕(絹)を使った製品を好んでいたのだ。
しかし、彼の技術自体は本物だった。彼が作る軍用靴、鞄、サンダ
ル、皮張りの盾は非常に頑丈で長持ちするため、タリス軍の間で絶大
な人気を誇っていた。タリス側もその卓越した技術の国外流出を防ぐ
ため、莫大な報酬で彼と専属契約を結んでいた
ほどだ。タリスからは「自国に移住すれば家賃無料の住居とさらなる
報奨金を用意する」と打診されていたが、自分の仕事と自由を愛する
彼は返答を有耶無耶にし、極秘裏に外国の商人とも取引を続けていた
のだという。
だが、今回の汚染騒ぎと騒動に疲れ切った彼は、「来年あたり、おとなしくタリスへ
引越すことにするよ」と力なく呟いた。
私は彼に現状を丁寧に説明し、環境負荷の少ない新たな作業場所を
提示して立ち退いてもらうことにした。移動先として選んだのは、セ
レニアから遠く離れた海に面した沿岸部の崖下――海へと直接注ぐ短
い河口付近である。さらに、作業場の脇に小さな穴(沈殿槽)を掘
り、一度廃液を溜めて泥や固形物を沈殿させてから、上澄みだけを海
へ流す水質浄化の方式を導入させた。
以下は、現地での調査中に記した見聞録である。この土地は独特な
文化が残っており、調査の合間に過ごした日々は実に新鮮なものであ
った。私は現地にある有力者の邸宅に居候させてもらっていた。
この地の織物の柄は百年間変わっておらず、人々は弓の扱いに長け
ていた。部屋の床には分厚い羊毛の絨毯が敷き詰められ、そこに座っ
て食事や会話を楽しむ。ヤギを飼って乳からチーズを作り、羊からは
上質な羊毛を刈り取って着物や絨毯を織り上げるのだ。
部屋の中央には赤々と炭が燃える囲炉裏があり、その上には大きな黒い鉄鍋が吊るされている。大皿に盛られた料理を、人々は手掴みか木製の大スプーンで分かち合って食べる。
主菜はウサギや野鳥、山羊の肉を炭火で長時間煮込んだもので、肉は
口の中で溶けるほど柔らかかった。クミン、コリアンダー、黒胡椒、
乾燥唐辛子、ターメリックといった珍しい輸入スパイスに、山で採れ
た野生のニンニクやタイムのような香草が効いており、肉の臭みを消
しながら体を芯から温めてくれる深い味わいがあった。主食の平たい
パンは、囲炉裏の鍋の淵に貼り付けて香ばしく焼き上げるのだった。
弓矢での狩りや徴税といった一日の仕事を終えた男たちが今日の出来事を語り合い、女たちはチーズ作りの手を休めて温かい鍋を囲む。彼らは改変されていない昔ながらの法律を守り、奴隷を持たず、穏やかに暮らしていた。タリスもまた、彼らの豊かな固有文化には一切介入せず、そのままの姿で存続させていた。
今回の水質汚汚染の原因特定と解決が認められ、私には「タリス」あるいは「ノアリア」への定住権が正式に付与された。
さまざまな国を巡り、人の営みを見つめてきた。
……しばらくは、あの清涼な空気が流れるノアリアで、静かに暮らすことにしよう。




