逃亡者のリスト
ベルとの危険な賭けを終えてから数日後の夜。
ハオランが宿の部屋でランプの芯をいじっていると、前と同じように、コン、コン、と窓を叩く乾いた音が響いた。
鍵を開けて招き入れると、フードを深く被ったサトウが静かに室内に滑り込む。老人の足取りはわずかに重く、その表情には数日前の夜以上の疲労の色が濃くにじんでいた。
「……遅くなってすまない、ハオラン。準備に手間取った」
サトウは懐から、丁寧に折りたたまれた一枚の羊皮紙を取り出し、机の上にそっと置いた。
ハオランがそれを広げると、そこには細いペン字で、十数名の名前と、それぞれの「元の世界での未練、あるいはここでの絶望の理由」が簡潔に記されていた。
【帰郷希望者名簿(一部抜粋)】
ルカス(22歳・二世代目ノアリア人):親世代から「外の世界の物語」を聞いて育つ。タリスの管理する安定した暮らしに息が詰まり、自分の足で本当の空を見たいと願う。
エレナ(元・タリス属州の裁縫奴隷):サトウと同じく40年前に転移。当時の恐怖がトラウマになっており、金魚鉢の平穏に馴染めず、故郷の家族(もう誰もいないかもしれないが)の墓標だけでも見たいと望む。
トマ(19歳・農業区画担当):機械いじりが好きだが、タリスから支給される「決められた道具」以外の技術革新を禁じられていることに絶望している。
「……名前だけでなく、それぞれの事情まで丁寧に添えてある」
ハオランはリストから視線を上げ、サトウを見つめた。
「若い二世代目も混じっているのか。タリスの管理が行き届いたこの街で、外の世界に憧れるなんて、上層部にとっては一大事だな」
「ああ。飢えないことと、不自由がないことだけが人間の幸福ではないのだと、若い連中は本能で気づき始めている」
サトウは椅子に腰を下ろし、深く息を吐き出した。
「このリストに載っている者たちを、どうやって『ベルの目』を欺きながら、一度に、あるいは数回に分けて安全に送り出すか……。タリスの警備兵たちは表向き解体されたとはいえ、街の出入り口を固める『剣山』の監視システムは今も稼働している」
ハオランは机の上に広げられたリストを眺めながら、腕を組んだ。
――ベルの存在が頭をよぎる。
彼女はハオランの動きを鋭く監視している。しかし、あの日の賭けを思い出せば、彼女をただの「邪魔者」として切り捨てるのは得策ではない。
「サトウさん。このリストの連中、明日から全員、俺の『詩の朗読会』の裏方、あるいは雑用として一時的に雇うことはできるか?」
「……ハオラン、それは一体?」
「表向きは、街の外れにある古い広場でちょっとした大掛かりな野外劇をやろうと思うのさ。もちろん、タリスの許可は取る。ベルにも『若者たちを社会勉強させるための余興だ』って言い訳できる建前を用意する」
「まさか……その劇の最中に、舞台の裏手から……?」
「ああ。人の目が一番集まり、かつ熱狂と喧騒に包まれる瞬間を利用する。本の力を使えば、空間の切れ目を一時的に開くことはできる。ただし、一度に全員を飛ばすのは未経験でリスクがある、何より目立ちすぎる。数日間に分けて、一人、また一人と『舞台の裏から姿を消した』形にする」
サトウは老いた目を大きく見開き、それから、震えるような笑みを浮かべた。
「……恐ろしい男だね、君は。タリスが何十年とかけて固めた金魚鉢のガラスを、舞台の裏でこっそりスライドしてやろうというのか」
「人聞きが悪いな。俺はただ、チケットを買ってくれた客を、望みの席へ案内するだけさ」
ハオランは懐から「白紙の本」を取り出し、指先で軽く弾いた。
「さて、サトウさん。リストの面々には、明日、俺のところへ顔を出すように伝えてくれ。いよいよ、この街の『お芝居』の幕開けだ」
サトウはうなずき、静かに立ち上がると、再び夜の闇の中へと消えていった。
残されたハオランは、窓の外で冷たく光る月の下、静まり返るノアリアの街を見つめながら、これから始まる大芝居のシナリオを頭の中で組み立て直すのだった。




