脱出
初日の夜。
崩れかけた石造広場は、熱狂的な熱気に包まれていた。
ランタンの明かりが揺れ、金属板を叩く重低音が響き渡る。ハオランが仕掛けた「野外劇」は、単なる芝居ではなかった。重圧に押し潰されそうなノアリアの日常を風刺し、感情を解き放つ破天荒な大スペクタクル——住民たちにとって、それは見たこともない衝動の渦だった。
観客席の最前列で腕を組み、冷ややかな視線を送るのはベルだ。
彼女の配下である警備兵たちは広場の外周を隙間なく取り囲み、「剣山」の監視システムは最大出力で稼働している。広場から一歩でも外へ出ようとする者がいれば、即座に検知される体制だった。
「隊長、異常はありません。広場の出入り口、および外郭の空間波形も完全に正常です」
「油断するな」
ベルは部下の報告に低く応えつつも、舞台の上で立ち回るハオランから目を離さない。
その時、舞台上でクライマックスの演習が始まった。
巨大な幕が落ち、爆発的な歓声と音響が広場を揺るがす。観客の意識が完璧に一点へ集中したその瞬間——舞台裏の暗がりで、ハオランはポケットの中の「本」にそっと指先を触れさせた。
暗がりの中で、トマとルカスが息を飲んで立っている。
「行け」
ハオランは声を出さず、唇の動きだけで指示を出した。
舞台裏の影の深みが、まるで水面のように一瞬だけ揺らぐ。ルカスが恐る恐る足を踏み出すと、彼の体は空間の切れ目へと吸い込まれるように消えた。
続いてトマがハオランを振り返り、深く頭を下げてから暗闇へと飛び込む。
パチン、と小さな気泡が弾けるような音がして、空間の歪みは完全に収束した。
「剣山」の監視システムが反応するのは「街の境界線を越える移動」のみ。ハオランが開いたのは、境界線を通り抜ける穴ではなく、空間そのものを折りたたんで外へ直接繋げる「跳躍点」だった。
二日目、そして三日目。
劇の内容は日を追うごとに過激さを増し、街中の人々が押し寄せた。
二人、また一人と、舞台裏の「雑用係」たちは劇の最高潮の瞬間に姿を消していった。
サトウは客席の隅で、涙をこらえながらその光景を見守っていた。かつて絶望に沈んでいた者たちが、熱狂の裏で静かに未来へと旅立っていく。
そして、最終日の終演を告げる鐘が鳴り響いた。
静まり返る広場。客が立ち去り、静寂が戻った舞台裏に、ベルがゆっくりと歩み寄ってくる。彼女の表情は険しく、手元の魔導測定器を何度も確認していた。
「……あり得ない」
ベルの声が微かに震えていた。
「広場の警戒網は一度も破られていない。出入り口を通った者もいない。……だが、あの初日にいた『雑用』の若者たちの反応が、街のどこを探しても存在しない」
(町人にGPSでもつけているのか、この世界の兵士はおっかないな——)
ハオランは舞台の縁に腰掛け、リンゴをかじりながらベルを見下ろした。
ベルが素早く剣の柄に手をかけ、ハオランに詰め寄る。
だが、その瞳に宿っているのは怒りではなかった。あの日交わした賭け、そしてハオランという男の計り知れない底力に対する、どこか奇妙な戦慄と感嘆。
「どうしてそこまでして彼らを逃がす? お前に何の得がある」
「得? あるさ」
ハオランはリンゴを一口かじると、笑った。
「お金。そして何より……社会貢献の面白さ。」
「ッ……!」
ベルは絶句し、突きつけた手袋を固く握りしめた。
「お前の負けだ、ベル。出口を完璧に塞ぎ、町の外側を熱心に監視すればするほど、俺の仕掛けは完璧になったんだよ」
ベルは深々と息を吐き出し、握りしめていた拳をゆっくりと解いた。
彼女の唇から、あきらめと苦笑の混ざった溜息が漏れる。
「……本当に、その周到さなら、ノアリアの王も、感知しないさ。
途中から、お前を後押ししたくなった。ノアリア以外の諸国は、割とうまくやってる。
こんなに病的なのはノアリアだけなんだ。みんなを救って、導いてくれよ。」
「できそうなことしかしない。期待するなよ。」
ハオランは舞台から飛び降りると、残された「本」を懐に収め、闇の深まる街へと歩き出した。
「さて、大芝居は無事に終幕だ。……次はどの街で催そうか。」
月明かりの下、ハオランの背中を見送りながら、ベルは悔しそうに、けれどどこか吹っ切れたような笑みを浮かべるのだった。




