賭け
サトウが夜の闇へと消えてから数日。
ハオランは相変わらず街の広場で詩を語り、適当におひねりを受け取りながら、表向きはのんびりとした「詩人としての日常」を演じていた。だが、その背中には常に、冷ややかな、しかし熱を持った視線が突き刺さっていた。
――ベルだ。
タリスの管理組織から派遣された彼女は、ハオランが「新参者たちに余計な毒を盛っている(=帰郷の選択肢という名の波風を立てている)」と強く警戒していた。
この日の夕暮れ、ハオランが宿のテラス席で一人、冷えたハーブティーを飲んでいると、音もなくカチャリと音を立てて、ベルが許可もなく向かいの席に腰を下ろした。
「……相変わらず、優雅なことでですね、ハオランさん」
ベルの声音には、あからさまな不快感とトゲが混じっていた。彼女は折り目正しい制服の裾を整えると、緑色の鋭い目をハオランにまっすぐ向けた。
「昼間も、例の若い職人と路地裏で何やら怪しげな話をしていたではありませんか。あなたが何を企んでいるのか、私にはすべてお見通しですよ。あんな未熟な若者をその気にさせて、元の世界へ連れ戻すなどと言い出す……そんな『不法出国』の幇助を、この私が黙って見過ごすとでも思っているのですか?」
ベルの態度は頑なだった。彼女にとって、ノアリアの秩序を守ること、そしてタリスの定めた管理体制を維持することは絶対の「正義」だった。野蛮で予測不可能な元の世界へ人間を戻すことなど、善意の皮をかぶった無責任な暴挙――彼女は本気でそう信じているのだ。
ハオランは慌てる様子もなく、ティーカップをソーサーに静かに置いた。そして、やれやれといった風に肩をすくめる。
「いやあ、相変わらずお堅いですね、ベルさん。そんなに目を三角にして睨み合わなくても、俺はただのしがない詩人ですよ。誰かの人生を背負うほどの気概なんてありませんって」
「口ではなんとでも言えます! ……証拠こそまだ掴めていませんが、あなたの周りでは確実に『異常な変化』が起きている。いつかその尻尾を掴んで、あなたの違法な『現場』をこの手で抑えてみせます。覚悟しておいてください」
ピシャリと言い放つベル。彼女の正義感は純粋ゆえに厄介だった。力でねじ伏せようものなら、彼女は迷わず組織総動員で動くだろう。正面突破は悪手だ。
ハオランはふっと笑うと、机に肘をつき、わずかに顔を近づけた。
「そんなに俺のことが信用できないならさ、ベルさん。一つ、賭けをしませんか?」
「……賭け、ですか?」
「ええ。あなたがそこまで『ノアリアの平和と、ここに生きる人々の幸福』を信じているなら、俺の仕事が本当に彼らを不幸にしているのかどうか、自分の目で確かめてみればいい」
ハオランの不敵な笑みに、ベルはわずかに眉をひそめた。
「どういう意味です?」
「俺がやろうとしているのは、強制的な密航や誘拐じゃない。ただ、この金魚鉢の外に出たいと、自分の足で選んだ奴の背中を押すだけだ。――もし、俺の用意した『道』を通った人間が、全員口を揃えて『ここで生きるほうが地獄だった』と心から後悔するような失敗作だったら、俺はこの街から二度と詩を歌わずに出て行きます。」
ベルの呼吸がわずかに止まった。彼女はハオランの目を凝視し、そこに嘘や怯えがないかを探る。
「ですがね、ベルさん」
ハオランのトーンが、わずかに低くなった。
「もし逆に……ここに残るより、外の世界へ行くことを選んだ奴らが、恐怖を越えて自分の意志で前を向いて歩き出したとしたらどうします? あなたが守っているその『完璧な管理』が、実は誰かの逃げ場を塞いでいただけの、ただの鳥カゴだったと証明されたら――その時は、あなたのその不服そうな顔を、少しだけでも改めさせてくれますか?」
「……っ」
ベルは言葉に詰まった。彼女の胸の奥底に、わずかな動揺が走る。
彼女自身、心のどこかで気づいていたのかもしれない。ノアリアの住人たちが纏う「従順さ」が、平穏の証明ではなく、諦めと依存の澱からきているということに。
「……ふん、口の上手い男ですね」
ベルは顔を背け、立ち上がった。その頬には、わずかに悔しげな赤みが差している。だが、先ほどまでの尖った敵意は、ほんの少しだけ形を変えていた。
「いいでしょう。その大言壮語、私が一番近くでたっぷりと見届けてあげます。あなたがどんな手品を使おうとも、私の監視の網から逃れられると思わないことです。――ハオランさん」
ベルはそれだけ言い残すと、鮮やかな身のこなしでテラスを去っていった。
遠ざかる彼女の背中を見送りながら、ハオランは小さく息を吐いた。
「やれやれ……これで、一番やっかいな『お目付け役』を、特等席に引きずり込むには成功したか」
サトウが進めるリストの準備、そしてサトウの仲間たちの離脱。
ベルという最強の監視者を味方(あるいは、一番の証人)に巻き込んだことで、ハオランの計画は、危険でありながらも確実な一歩を踏み出し始めていた。




