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ノアリア叙事詩  作者: うめよろし
異界

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幸福の形

 ベルからの返書を受け取ったハオランは、手早く荷物をまとめた。

 パン工房の人々に、いつもの調子で「世話になったね。ここのパンは美味かったよ」と軽口を叩いて出立したハオランだったが、待ち受けていたベルの眼光は鋭かった。

 ベルがハオランの同行を許可したのは、エイダの頼みだからだけではない。ハオランが奴隷区画に現れてから相次いだ「奴隷たちの大量失踪」。その原因がこの男にあると、ベルは聞き知っていた。区画を摘発し、タリスの管理下に置いたベルにとって、ハオランは「泳がせておくべき危険分子」でもあったのだ。

 彼を追えば、タリスが認知しない危険区画が自然と見つかるかもしれない。

 私が管理する地区で不正なんて起こさせない。


 ノアリアへと向かう馬車の中、沈黙を破ったのはハオランだった。

「そんなに険しい顔をなさらないでください、ベル様。俺はただ、美しいと噂のノアリアを見てみたいだけですから」

「……しがない詩人が、奴隷を煙のように消す魔法を使えるのは本当か?」

 ベルの問いに、ハオランははにかんだ。

「はい。ご心配に及びません。消えた彼らは今頃、ここよりずっといい場所で美味いものでも食べています。」ハオランはそっと手帳を広げると、「受入れ完了」の文字が浮かび上がっていた。

 数日後、馬車の窓から見える景色が一変した。

 地平線を遮るようにそびえ立つ、文字通りの「剣山」。鋭利な岩肌が連なるその防衛線は、タリスの武力と意志の硬さを物語っていた。厳重な検問所では、タリスの兵士たちがベルの姿を見るなり一斉に最敬礼を送る。ハオランはその光景を見つめていた。検問所には兵士が四人、ノアリアからは人の気配がしない。

(ノアリア人は、都市の中心部に集中しているのか。なるほど……これほどの武力で守られているなら、こちらの世界で『神の兵』の恩恵を受けた連中が、ひっそりと隠れ住みたくなるわけだ)

 険しい岩山を抜けると、そこには驚くほど平坦で、青々とした理想郷が広がっていた。ノアリアだ。

 行き届いた区画整理、行き交う人々の穏やかな表情。それはハオランがこれまで見てきた、奴隷が鎖で繋がれた薄暗い市場とは真逆の世界だった。

「……美しいな」

 ハオランは呟いた。だが、彼の目は街の構造そのものに向いていた。どこか機能的で、効率的な都市計画。それはハオランの元の世界の知識に、かすかに共鳴するものだった。

 ノアリア人の祖先が、本当にものいわぬ転生者たちだったのだとしたら。

 ハオランは、胸ポケットに入れた「白紙の本」にそっと触れた。この国で、自分の「帰郷の儀」を求める者がいるのだろうか。それとも――。


 ノアリアの首都は、どこかハオランの元の世界を思わせる機能的な美しさを持っていた。規則正しく並ぶ石造りの家々、効率的に配置された水路。しかし、そこで暮らすノアリア人たちの佇まいは、驚くほど静かだった。彼らは必要最低限のことしか口にせず、ただ淡々と、しかし実に見事な手際でそれぞれの職務をこなしている。

 ベルの同伴のもと、ハオランは「異邦の詩人」として、ノアリアの中央広場に面した小さな憩いの場で弦を爪弾く許可を得た。

 ベルは少し離れたテラス席から、ハオランを監視するように見つめている。ハオランは苦笑しながらも、かつて奴隷区画で歌ったのと同じ、元の世界の「郷愁」を誘う旋律を、いろんな言語の歌詞に乗せて歌い始めた。

 通り過ぎる人々は、一瞬だけ足を止めるものの、すぐに興味を失ったように去っていく。やはり、過酷な奴隷市場とは違い、この満ち足りた国ではハオランの「救い」など必要ないのかもしれない。エイダのノートで知ったが建国から100年経っている。ここで暮らすのは2世3世ばかりだろう。ここで一生を全うするのを当たり前とする人ばかりが暮らしている。

 そう思いかけた、その時だった。

 広場の隅で、荷車から大きな樽を降ろしていた一人の若い青年が、ハオランの歌を聴いた瞬間に完全に硬直した。青年は持っていた樽を取り落とし、地面に転がるのも構わずに、吸い寄せられるようにハオランへと歩み寄ってきた。

 その目は見開かれ、呼吸は荒い。首元には奴隷の銘板カードの代わりに、ノアリアの市民であることを示す上質なブローチが輝いている。

 ハオランは歌うのをやめ、楽器を抱え直した。

「……あんた、この言葉に聞き覚えがあるかい?」

 青年は震える声で、しかしこの世界の言葉ではない、ハオランにとって耳馴染みのある「元の世界の言葉」で呟いた。

「……君は、あっちから来たのか?」

 ハオランは周囲にベルの目が光っていることを意識しながら、極めて自然な動作で青年に近づき、声を潜めた。

「ああ。仕事でね。ここ一帯のはぐれ者を『帰郷』させてる。あんたも帰りたいか? 準備はいつでもできる。向こうの窓口に連絡を入れれば、すぐに――」

「拒否する」

 青年の口から出たのは、明確な拒絶の言葉だった。

「え?」

 ハオランが目を丸くする。青年はハオランの胸ぐらを掴みかねない勢いで、激しい拒絶をぶつけてきた。

「帰るわけがないだろう。 あっちの世界に何があるっていうんだ? 毎日満員電車に揺られて、上司に怒鳴られて、家賃のためにすり減るだけの生活だぞ! ここを見てくれ。タリスの奴らが土を改良してくれて、飢える心配もない。誰も俺を馬鹿にしない、静かで、平和なんだ。俺はここで、ノアリア人として死ぬんだ!」

 青年の悲痛な叫びは、しかし周囲のノアリア人たちには届かない。彼らは青年の奇妙な言語(元の世界の言葉)での興奮ぶりに首を傾げながらも、関わらないように通り過ぎていく。

「……なるほどね」

 ハオランは、青年を落ち着かせるようにその肩をそっと叩いた。

「怒らないでくれ。俺はただ、選択肢を提示しただけさ。帰りたくないなら、それでいい。ここで幸せに暮らしなよ。あんたの言うこともよく分かる」

 青年はハオランの手を振り払い、まだ肩で息をしながらも、どこか怯えたような目でハオランを睨みつけてから、静かに肩を落とした。

「すまなかった、この世界から逃れたい人はいるかもしれない……」

 青年は背を向け、逃げるように荷車のところへ戻っていった。

 ハオランはぽつんと取り残され、懐にある「白紙の本」を上からそっと押さえた。

(大金のために、必死に綱を引っ張って、溺れかけている奴を引き上げているつもりだったが……)

 ハオランの胸に、初めて奇妙な苦みが広がった。この世界に転生した者すべてが、元の世界を恋しがっているわけではない。「面白い顔をしているな、詩人」

 いつの間にか背後に近づいていたベルが、冷ややかな声でハオランに声をかけた。

「今のは、ただのファンとの交流かい? それとも、お前の『魔法』が不発に終わった顔か?」

 ハオランはすぐにいつもの飄々とした笑みを作り、ベルの方へ振り返った。

「いやあ、ベル様。どうやらこの国の住人は、俺の歌よりも、タリスが用意してくれた美味いスープの方がお好みのようです。商売あがったりですよ」


 ベルの追及を軽口でかわし、その日の探索を終えたハオランは、タリス軍が管理する宿舎の一室を与えられた。窓の外には、夜の帳が降りたノアリアの静謐な街並みが広がっている。

 ハオランが手元の「白紙の本」を開き、今日出会った青年の反応や、拒絶された顛末を記録し報告しようとしたとき、

 コン、コン、と小さく窓が叩かれた。

 ここは二階だ。ハオランが警戒しながら窓を開けると、そこには音もなく室内に滑り込んでくる影があった。

 フードを深く被ったその人物は、ノアリア人特有の上質な衣服を身にまとっているが、その佇まいには周囲の寡黙な住人たちとは一線を画す、鋭い知性と、長い年月を生き抜いた者だけの重みがあった。

「……夜分に失礼。昼間の詩人さん」

 フードの隙間から見えたのは、白髪の混じった初老の男性だった。そして彼の口から漏れたのは、紛れもない「元の世界の言葉」だった。

「あんたも、あっちの人間か」

 ハオランは懐のナイフに手をかけながらも、声を潜めて応じた。

「ああ。だが、君が昼間に出会った若者のような『新参者』じゃない。私はこの世界に来て、もう四十年になる」

 老人は自嘲気味に微笑み、ハオランの手元にある白紙の本に目を留めた。

「それが、あっちの世界と繋がる道具かい? 素晴らしい技術だ。私たちの頃は、ただトラックに跳ねられたり、過労で倒れたりして、気がつけばこの世界の奴隷市場に転がっていたものだがね」

 ハオランは椅子を引き、老人に座るよう促した。大金のための仕事とはいえ、この世界に四十年も留まっている転生者の存在は、ハオランの好奇心を激しく刺激した。

「私の名はサトウ。かつてはタリスの属州で、ただの物言わぬ奴隷として働かされていた」

 サトウは静かに語り始めた。

「君は、なぜノアリア人が『寡黙で従順』だと言われているか知っているかい?」

「タリスの言葉が通じないからだろ?」

「それは表向きの理由さ」

 サトウの目が、怪しく光った。

「本当の理由は、私たちが『あちらの世界の記憶』を流出させないため、あえて口を閉ざしたからだ」

「この世界の住人に、私たちの世界の知識……例えば、進んだ科学技術や、効率的な政治体制、あるいは民主主義のような思想を知られたらどうなると思う?

 タリスのような軍事大国は、それを貪欲に吸収し、戦争の道具に使うだろう。現に、このノアリアの美しい都市計画も、農業の改良土も、私たち古参の転生者がタリスの当時の権力者に『小出しに与えた知識』の結晶だ。タリスは私たちの価値を知っているからこそ、こうして特権的な国を与え、過保護なまでに守っているのさ」

 サトウは窓の外の静かな街を見つめた。

「ここは理想郷だ。だが見る人によっては、タリスという巨大な怪物のために、便利な知識を産み落とし続ける『金魚鉢』に見える。ここで生まれる二世代目のノアリア人たちは心配している、もう元の世界の言葉・知識を持たない、ただの従順な人形になりつつあるということを。」

「……タリスは解体し、彼らへの納税義務は消滅したんだろ。なんで彼らの顔色を伺うような空気があるんだ、タリスは本当にそれを望んでいるのか?」

 ハオランの質問に対し、サトウは窓の外の暗闇をじっと見つめた後、深くため息をつき、静かに、しかし冷徹な声でこう答えた。

「望んでいるとも。タリスという組織は、解体されたからといって消滅したわけじゃない。形を変えて、システムそのものとして機能し続けているのさ。

 いいかい、ハオラン。納税義務という『鎖』が消えたのは事実だ。だが、タリスが100年かけてこの国に張り巡らせた『依存』という見えない檻は、そんな手続き一つで壊せるほどヤワじゃない。

 ノアリア人はもう、自分たちで外の世界と戦う術を知らないんだ。農業の改良土、整備された水路、そして何より、あの外壁(剣山)で睨みを利かせる圧倒的な防衛力……これらすべてが、タリスという後ろ盾があって初めて維持されている。解体されたとはいえ、今のタリスの残党や管理組織がその手を引けば、このノアリアの平和は一瞬で周囲の飢えた野盗や他国に食い荒らされる。

 彼らが顔色を伺っているのは、タリスの『命令』に対してじゃない。タリスが消えることで、この満ち足りた『金魚鉢の環境』が壊れてしまうことへの恐怖に対してさ。

 支配されることに慣れきった人間は、鎖を外されても、自分から檻の外へは出ない。タリスはそれをよく知っているからこそ、高圧的な態度を取る必要すらないのだよ。純粋な善意と完璧な管理で守り続けるだけで、ノアリア人は自ら進んで、一生をここで全うする『従順な人形』であり続けようとする。……これほど効率的な、飼い殺しのシステムが他にあるかい?」

「タリスは従順な人形なんて望んでいない、ごく健全な動機でこの国を作った。

 もし飼い殺しにするなら、ノアリア人に開墾や家造りなど、生きるための知恵を与えるわけがない。

 タリス上層部の一部が病み、先達の意思を正確に継承しなかったんだろう。」

 サトウはハオランの言葉を聞くと、驚いたように目を見開き、それから酷く寂しげな、しかしどこか納得したような複雑な苦笑いを浮かべました。

「……君は、タリスの『始まり』にある善意を信じているのだね、ハオラン」

 サトウはゆっくりと立ち上がり、窓辺に近づいて夜の街を見下ろしました。

「確かに君の言う通りかもしれない。100年前、この国を共に作ったタリスの先達は、本当に純粋な同情と敬意を持って私たちに接してくれた。生きる知恵を与え、自立を促し、一つの尊い『民』としてノアリアを築こうとした。その動機は、ごく健全で美しいものだったのだろう。

 だがね、ハオラン。個人の善意が集まったからといって、国家という怪物が善意で動くわけじゃない。

 タリスの民が純粋に警備業に励み、競技会に汗を流しているその裏で、彼らの『強さ』をどこに配置し、どう分配すれば世界が均衡するかを冷徹に計算している頭脳が上にいる。

 ノアリアの都市計画もそうだ。奴隷たちと知識を出し合って作ったのは事実さ。だが、その知識(果実)を独占し、外部に漏らさないよう剣山で囲って『管理』することを選んだのはタリスだ。純粋な善意ほど、悪意なく他人を飼い殺す強力な檻(おり)になるのだよ」

 サトウは振り返り、ハオランをまっすぐに見つめました。

「先達の意志を正確に継承しなかった、か……。あるいは、最初はただの『保護』だったものが、世代を経てシステムが肥大化していく中で、いつの間にか『飼い殺しの檻』へと変質してしまったのかもしれないな。上層部が病んだのか、それとも組織の宿命か。

 どちらにせよ、結果は同じだ。一度完成してしまったこの金魚鉢から、彼らはもう出られないのだから」

 ハオランは頭をかきながら、いつもの飄々とした、しかしどこか芯のある苦笑いを浮かべて言った。

「難しい理屈や、国家がどうとかいう細かいことは俺にはよくわかりません。ただ、俺が知りたいのはもっと単純なことです。

 ――サトウさん、あんた自身は、このノアリアでの生活に満足しているんですか?

 それに、そんな古参のあんたが、わざわざ夜中にリスクを冒してまで、俺みたいな新参の詩人の部屋にやってきた。その本当の目的も、合わせて教えていただけませんか」

 ハオランの真っ直ぐな問いに、サトウは一瞬だけ言葉を詰まらせた。その顔に浮かんだのは、自嘲と、そして40年という歳月が刻んだ深い孤独の影だった。

「ハオラン。この40年間、私がここで感じてきたのは、自分が少しずつ『生きたまま腐っていく』ような感覚だけだ。この安全で平穏な金魚鉢の中で、私はただの便利な知恵袋として、タリスに飼われているに過ぎない。生きている実感など、とうに失ってしまったよ」

 サトウはそう言うと、視線をハオランの胸元――「白紙の本」がある場所へと移した。

「そんな私が、なぜ君の元を訪れたか。理由は一つさ。

 昼間、君が若者に『帰郷の儀』の選択肢を提示しているのを見た。そして確信したのだ。君なら、この止まった時間を動かせるかもしれない、と。

 私の目的は、君に頼み事をすることだ。このノアリアで、タリスの作ったシステムに疑問を持ち、もう一度『人間として自分の足で歩きたい』と願う者たちが、実は水面下で僅かに集まっている。

 私のような老い先短い未練がましい者や、人形になることを拒んだ若者たちを……君のその本で、元の世界へ『帰郷』させてはもらえないだろうか。それが、私がここへ来た本当の理由だ」

 ハオランはふっと笑うと、懐から「白紙の本」を取り出し、ぽんぽんと軽く叩いて見せた。

「向こう(元の世界)にはさ、社畜生活から逃れる法律ってやつがあるんですよ。それに、一度ドロップアウトしても、なんだかんだやり直しの融通が利く。少なくとも、自分の意思じゃどうにもならないこの世界よりは、ずっとね。

 いいよ、サトウさん。その依頼、引き受けよう」

 ハオランの言葉に、サトウは驚いたように顔を上げ、それから深く安堵したように目元を緩ませた。「……ありがとう。君ならそう言ってくれると信じていたよ」

「ただ、やるなら手際よくやらないとね」ハオランは窓の外、テラス席のあった方向へ薄く目を向けた。「外にはタリスの鋭い目(ベル)が光ってる。大掛かりな集団失踪なんて起こしたら、今度こそ俺の首が飛ぶ。サトウさん、帰郷を望む連中のリストと、ベルの目を盗めるタイミングを近いうちに用意してくれ」

「分かっている。こちらでも慎重に事を運ぼう。準備ができ次第、また連絡する」サトウはそう言い残すと、来た時と同じように音もなく窓から夜の闇へと消えていった。

 一人残されたハオランは、白紙の本を閉じてベッドに寝転がった。昼間の青年の激しい拒絶と、サトウの静かな絶望。同じ世界から来たはずなのに、求める幸福の形はまるで違う。

(どっちが正しいかなんて、俺が決めることじゃない……)

「俺はただ、帰りたい人を帰す。それだけやる。あとは知らない。」

 ハオランは天井を見つめながら、小さくため息をついた。


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