古代神話と黒い影―派遣民ベル
※「霊」について、自論が展開されています。ご了承ください。
派遣先の国はいま、占領軍による徴税と巡回人の判断によって、運用されている。いまのところ、占領軍に納税すれば、平穏を保てた。ただ旧法律が身に染み付いているのが民の現状で、この法律には神話が深く絡みついており、民の精神まで管理し搾取した。人々は常に神の存在を意識しており、一部の人は敬虔に生き、一方では、法の盲点を公で攻撃し旧法を終わらせようとする者、旧法が運用されていないにもかかわらず、神の高圧的な束縛により精神を極限状態に追い込まれ、屋内に閉じ籠って動けない者がいる。働き手が減れば、一人当たりの納税量が増えてしまう。早急に解決せねばならない事案だった。
私の任務は、動けない人々を立ち直らせることだった。
これを解決し、私はタリスに永住し、警備員になるんだ。
それにしても、もはや死語ともいえる文字で書かれた法律に翻弄されるとは、どういうわけだろう。信仰は、ひとにより希望ではなく絶望へ誘うものらしい。
私たち派遣民は信仰を持っているので、人の精神の支柱を壊すことの怖さを知っている。だが自分を過信せず、慎重に話を聞かなければ。
派遣先の法律は、1000年前に預言者が聞いた「神の声」を集めたものであり、その言葉を粘土板に刻み、微細に装飾された箱に収められている。偶像崇拝が禁じられ、民はどこにいても神の視線を意識した。この目の細かい法律は、かつて人々を賢くさせ、親子関係、人格形成に重大な影響を与えた。この国の民は、異様に賢く、旧法をかいくぐり、満足のいく生活を送っていた。
人々にとって信仰とは、ひとや組織と実利的につながる手段だった。
法律の想定外の出自体験を持つものは守られ、嘘を生存に必要なものとし、その上で互いに協力しあって生きてきた。
タリスが占領した後、旧法は人々の管理者でなくなり、形骸化し、拘束力はほぼない。
ただ、「巡回人」をかいくぐり、法律を活かし生まれた供給網で緩やかに暮らす富裕層がいた。多くは祭司である。その生活ぶりから、背後に大きな組織があることを予見させた。
富裕層と貧民層の格差は大きい。富裕層にお金を落としてもらうために、なにをすべきか考えてみた。
そこで、神話と法律そのものを白紙にし、誰もが守れる簡易的な法律を普及する案を出した。
すると、富裕層から猛烈な反発が起きた。
「この法律がどれだけ重要か、わかる人にはわかる。
世界を誠に調停しているのは、この信仰を伴う法律だ。
祭壇を復活させよ」
この一点張りだった。
「派遣民に、この法律を覆す力はなく、誰もそれを望まない。軽々にそんな提案をしてはいけない。」
そう熱心に説かれた。
力はないと脅されたが、私の背後には強国タリスがあり、筋の通った申請なら受理される。覆す力は持っている。祭司は弱った。
私は祭司に訴えた。「これ以上経済格差が進むと、貧民層が暴動を起こし、富裕層の蔵がまず狙われます。」
富豪は合点し、貧民層に隔週でパンの無償配給をするので勘弁してほしいと言われた。この話は、彼と同格の富裕層に伝わったらしく、配給所が設立され、複数の富豪がパンを民たちに配った。配給所では、派遣民が生活の知恵を指導した。民は食料を得て、派遣民の知恵、例えば効率的な農法などを知り、今後の方針を見つけたり、仲間を見つけ立ち直っていく人々が現れた。
こうして、富裕層による配給所兼学舎が生まれた。
これは私の功績だとして報告書にまとめ、併せて神殿の復興費用を申請する書類も添えて、伝令を走らせた。
先の協力してくれた富豪から、打ち明け話を聞かされた。霊障に惑わされ、複数の霊と話し、食事もせず眠りもしないという娘がいるという。この娘の一族は、先の人物と同じルートに物資を流し込んでいる富裕層であり、不自由なく暮らしていた。
「この娘が心配で、タリス駐在兵を介し、解決してくれる専門家を依頼したのだけど、もしかして、貴女がその専門家の方ですか?」
私は頷いた。「ノアリアの精神科医が同行します。」
すると富裕層は表情をこわばらせ、私の両肩を掴み、「どうか娘を救ってください。」と神妙な面持ちで訴えた。
私は改めて、霊障で悩む娘の調査に乗り出した。
娘の名はエイダという。
エイダは親元を離れ、集合住宅で静かに暮らしていた。
彼女は、両親から定期的に仕送りをもらっていたため、時々下町に売りに行く金細工の仕事だけで十分に生活費を賄っていた。
エイダの状況は深刻だった。彼女は部屋に閉じ籠もり、古代の神話を深く読み込んで当時の出来事や社会構造を研究していたという。人々が読み飛ばす神についての記述まで丹念に調べ、儀式の意図や集団を統率する神の性格から「法を作り出した者の心理や独特のロジック」を明らかにしようとしていた。
だが、その過程で彼女の価値観は次第に古代に寄っていき、現代的な感性から離れていった。当時の人々の情念や風潮を完璧に理解し、彼女は現代社会から完全に隔絶された。
そして、視界に「黒い人影」が見えるようになったのだという。
その人影は窓辺に立ち、カーテンを捲る仕草をしながら、こう語りかけてきたという。
「外界と関われ。この欠陥だらけの賃貸から出ていけ、搾取されているぞ」
驚くべきことに、告げられた言葉は正しかった。この集合住宅は隙間だらけで虫がすぐ入り込む。その上、夜半に建物を照らす蝋燭の灯火の燃料代は、彼女の賃料に含まれていた。
その警告文は娘自身の口から発せられていた。口寄せというものに似ている。複数人の発言者が代わる代わる彼女の口を借りて話したということだ。傍から見れば、娘が延々と独り言を言い続けているように見える。同居する家族もその様子を目撃していた。
彼女は「霊たちの話を聞き、彼らの会話を記録し、捨てた」という。
しかし、数枚、霊たちのやりとりを記録に残したメモを残しておいたという。専門家とともに、メモに目を通したが、「今のは私の声、僕の提案」など、アイデンティティの確立・生前の振る舞いを思い出すことに躍起になっている文言を多数見つけた。霊が本当にいるのだとしたら、これは大変だし、巻き込まれた人間も大変だ。
ここ数ヶ月、彼女は酒を煽り、精神を安定させるための薬草「クシワ」を常用していた。さらに食事をほとんど断っていたため、体力は限界まで落ちていた。
タリスによる占領という怖い現実と古い法律との狭間で孤立し、外界との交流を絶った彼女は、強い精神不安と脳の神経伝達物質の異常分泌を起こし、幻覚や幻聴の症状が現れた。
――彼女の言葉を借りれば「霊界の存在との同調」に至った。
彼女に語りかける「彼(人影)」の他にも四方に人影が複数見え、輪郭の曖昧な姿で語りかけてきたという。彼らは、四方の人影を目で追うエイダの目の動きを「目が回っているよ。」と揶揄し、笑った。
また、部屋にコーヒーのような香りが漂い、安楽椅子に座る人の姿が見えたそう。彼は、「そんなに死にたいなら、死んだらいい」といい、痛みの少ない楽な自殺を提案した。
壮絶な体験であり、彼女はその存在を振り返り、「もう会いたくない」と語った。
どこにいても常に意識が繋がっている感覚に苛まれ、苦しかったという。四六時中、人の姿が見え、思考を覗かれること、話しかけられ続ける恐怖と苦痛は察するに余りあるものだった。
彼女の主張によれば、「霊界の仕組みを生者が理解した途端、霊側はその仕組みを即座に書き換えて隠蔽する(動的暗号のような仕組みになっている)」のだという。
「霊障でした」と報告しそうになる私を納め、同行した精神科医は次のように分析した。
「絶食、孤立、薬物と酒の摂取、そして古代人の思考様式の再構築への没頭――これらが重なることで脳内に深刻な反応が起き、強い解離と幻覚状態が生み出されています。」
そして、これ以降の調査は自分が引き受けると、医師は告げた。
「貴方は共感力の高さから、今回の調査に選ばれた。でも、彼女の思考を追体験することは、あなたにとって極めて危険です。分析は私に任せ、別の形で彼女の問題を解決してください。」
医師の助言に従い、病理の深い解明は専門家に任せ、
私は彼女を現実世界へと繋ぎ止めるため「社会復帰の支援」に専念することにした。
まずは酒と薬草を完全に断たせ、体内の薬物成分が抜け切るまで、栄養のある食事をしっかりと摂らせた。
また、期限付きで娘を共同生活区に移し、人と共同生活をしてもらい、パンの配給に参加してもらった。神話を手放し、現代で広く支持される書物を何冊か寄贈し、1ヶ月ほど様子を見ることにした。
娘は、古代の人々を知り、一部の破綻した人間像を恐れ、人間の本質を恐れ、他者全般を恐れるようになっていた。
私は彼女に静かに語りかけた。
「現代と古代では、置かれた環境も価値観も土地柄もまったく異なります。大昔の極端な人間像に振り回され、今の自分を苦しめる必要はありません」
娘は、他者への恐れを手放し始めた。食事量が戻り、血色も見違えるようによくなった。
彼女がかつて語っていた「霊界」についての記憶は不思議なものだった。時間の概念が存在しない無限の世界。彼らは現実世界に現れ、本や人間、飲み物といった「有限の時間の中に存在する物質」に触れることで、どうにか自分の輪郭を保とうとするらしい。
また、生者と対等なパワーバランスで対話するために、生者の尊厳を傷つけ、覇気を奪い取ることで自分と同じ精神状態まで引きずり降ろそうとするのだと彼女は言っていた。出会った当初の彼女が、ボサボサの髪でうずくまり、生気を失っていた理由がそこにあった。
霊界を否定するにはあまりに仕組みが緻密で筋が通っている。ただ、肯定することは、仕事上なんの得にもならないため、さっさと忘れてしまうことにした。
最近の彼女は、人と少しずつ関わり、美しく髪を結い上げてパン作りの仕事に励んでいる。もともと一人で静かに過ごすことを好む性格のため、仕事が終わると公営住宅の外のベンチで穏やかに風に当たっている。
幻視や幻嗅の症状は完全に消え、精神状態もきわめて安定している。
あと一ヶ月ほど観察を続けた後、実家に帰る予定となった。
私はすべての報告書を書き終え、ノアリアへ一時帰国することにした。
先に提案した格差是正と現地支援の取り組みが高く評価され、派遣民としての私の報酬(増収分)も増額されていた。さらに、神殿の再建費については拠出できないとの回答をもらった。残念だ。
夕暮れ時。共同生活区の工房裏にあるベンチ。焼きたてのパンの甘い香りが漂っている。エイダは焼き上がりの網を片付け、ベンチに腰掛けて風に当たっている。
彼女の方へ向かうと、エイダはつとこちらを見、会釈した。
私は話しかけた。
「いい香りがしました。明日の朝の配給が楽しみですね」
「はい……最初は、自分が誰かの食べるものを作るなんて、思ってもみませんでした。ただ粉を捏ねて、火の番をしている間だけは、あの『声』が聞こえないんです」
「それはよかったです。手と身体を動かして、目に見える『時間』を生きているからかな。本の中に閉じこもっていた頃とは見かけが全く違います」
「ええ……。あの頃の私は、神話の中にしか真実がないと思い込んでいました。古代の人々の憎しみや、容赦のない支配の思想を追求するうちに、生きている人間そのものが怖くなったんです。『人間とは、こんなにも残酷で破綻した存在なのか』と。」
「古代の法は厳苛でしたから。逃げ場のない思想に追いつめられれば、誰だって脳が悲鳴を上げてしまう」
(エイダは、自分の髪をそっと撫でる)
「あの『影』は、私から髪を梳かし、服を着替える気力も奪っていきました。
『お前は無価値だ』と囁かれ続けたとき、本当に自分の魂が削れて、
薄くなっていくのが分かりました。……でも」
「あなたが私に温かいスープを飲ませてくれて、髪を結い直したとき、急に世界の色が変わったんです。占領軍であるタリスの人たちも、あなたたちノアリアの人たちも、私が恐れていたような『おぞましい人間』ではなかった」
(手元の小さな焼き立ての丸パンををベルに差し出す)「どうぞ」
「来月、実家へ戻ることになりました。……これを、お礼と言ってはなんですが」エイダは、パンを3つを袋に詰め、ベルに渡した。
(パンを受け取り、一口かじる)
「ふわふわで甘みがありますね。本当に美味しい、ありがとうございます」
エイダは、晴れやかな笑顔を見せ、深く頭を下げた。
*あらすじ
神話と結びついた古い法律や深刻な経済格差に悩む現地で、派遣民として活動するベルは、動けない人々を救うため奔走していた。そんな中、富裕層の協力者から、霊障に悩まされて部屋に閉じこもる娘・エイダの調査を依頼される。
精神科医を伴いエイダの元を訪れたベルが目撃したのは、古代の神話や過酷な法律の思想に深く没頭し、幻聴や幻視、絶食と薬物に蝕まれて生気を失った彼女の姿だった。彼女は「霊界の存在」との同調の果てに自尊心を削られ、現実世界から完全に乖離していた。
ベルは病理の専門的なケアを医師に委ねる一方、エイダを現実世界へ引き戻すため社会復帰の支援を開始する。酒や薬草を断たせ、十分な栄養をとらせた上で、共同生活区でのパン作りや他者との触れ合いの場を用意した。古代の極端な人間像に怯えていたエイダは、手足を動かし、目に見える時間を生きることで次第に心を安定させていく。
すっかり健康を取り戻し、美しく髪を結い上げてパン作りに励むようになったエイダは、ベルに感謝のスープと焼き立てのパンを差し出す。自身の過去や恐れていた父親と向き合い、実家へ帰る決意を固めたエイダの顔には、かつての暗い影はなく、晴れやかな笑顔が浮かんでいた。過酷な神話の呪縛から人間を取り戻す、静かで温かな再生の記録であった。




