帰郷
久しぶりに、ノアリアへ帰ってきた。
ククルからの道のりは、五時間ほどかかった。
移動には人力車を使った。タリス人の護衛が二人、車の両脇についている。先頭を歩く者は一時間ごとに交代し、交代した者は後方の警戒に回った。
帰省することを、前もって手紙で知らせておきたかった。しかし、各地で復興が続くなか、伝令に割ける人手が足りなかった。結局、両親に何も伝えないまま帰ることになってしまった。
ようやく、両親に会える。
そのことを考えると、自然と帰路を急ぎたくなった。
ノアリアの住居は、基本的に同じ様式で造られている。建物の配置も、広間の設計も、生活に必要な設備も、よく整えられていた。
共同の広間に入ると、中央の噴水から水音が聞こえてきた。そばのベンチでは年配の者たちが休み、子供たちは水辺ではしゃいでいる。暑さに耐えかねたのか、何人かは水を浴びて遊んでいた。
もうすぐ昼になる。
いきなり帰宅して、両親に慌てて食事を用意させるのも申し訳ない。十五時ごろに顔を出せば、少しは都合がよいだろう。
そう考え、三時間ほど散策することにした。
噴水の近くで、黒い小箱を手にした男が目に留まった。
男は箱を慎重に水の中へ沈め、しばらく待ってから引き上げた。表面についた水を拭い、蓋を開けて内部を確かめている。
どうやら、自分が開発した器具の防水性を調べているらしい。
ノアリアでは、こうした光景は珍しくない。
タリスから運ばれてきた武器や道具の分解・加工、カラクリの開発、そして各地に伝わる神話や口承の文献化。研究者たちは、さまざまな仕事に取り組んでいる。
タリスが持ち帰った品物を改良する場合、きっかけは二つあった。タリス側からの要望と、研究者自身の好奇心である。
もっと便利にできないか。別の用途に使えないか。内部の仕組みはどうなっているのか。
そうした疑問が生まれると、研究者たちは品物を分解し、材質や構造を調べる。改良案を試し、必要ならば部品を作り直す。
研究者の多くは、自宅か研究施設で作業をしている。量産の要望が出た場合には、専用の研究施設や工房が設けられることもあった。
一方で、広間に道具を持ち込み、仲間や通行人まで巻き込んで意見を集める者もいる。先ほどの男も、もしかすると、その類いなのかもしれない。
タリスが遠征先で手に入れた品物を、次々とノアリアへ送ったことにも、こうした研究環境が関係している。
もっとも、最初からノアリアに改良させることが目的だったわけではない。
タリス人は、遠征先で見つけた優れた品物を、親しみを持つノアリアにも渡したいと考えていた。自分たちが価値を認めたものを、ノアリアにも知ってほしい。そんな、ひどく単純な動機だった。
ところが、ノアリアの研究者たちは、贈られた品物をそのまま保管するだけでは満足しなかった。
分解し、構造を理解し、使いやすい形に作り直した。その結果、各地から集まった品物をもとにしたノアリア製の道具やカラクリが、いつしか全土へ広まっていった。
贈り物が、思いがけず技術の発展につながったのである。
ノアリアは、暮らしの快適さを突き詰めたような場所だった。
温泉宿があり、馬で移動できる範囲には景色のよい名所が点在している。食事や宿泊の手配が整っている場所も多く、遠出の旅行に出ることも難しくなかった。
以前、家族で馬に乗り、枝垂れ桜が美しく咲く橋まで出かけたことがある。桜の枝が水面へ垂れ、風が吹くたびに花びらが舞い落ちていた。
あのときは、持参した弁当を広げ、皆でのんびりと食べた。
懐かしい思い出だった。
けれど、ノアリアの暮らしには、少し変わったところもある。
人々の生活は、驚くほど規則正しい。
特定の勤め先に毎日通う者が少ないためかもしれない。研究者は自宅で仕事をすることもあり、調査員は必要に応じて各地へ出向く。決まった勤務先や出勤時刻がないからこそ、個々人が自分の生活のリズムを保つことが重要だった。
起床し、食事をとり、仕事や研究に取り組み、体を動かし、休む。
そうした日課を自分で組み立てておくことが、健康を保ち、思考を落ち着かせるための基盤になっている。
自由に過ごせる環境は、何もしなくてよい環境ではない。自由であるからこそ、自分自身を整える必要があるのだ。
広間を歩いていると、口伝神話の文献化に携わる調査班のことを思い出した。
以前、僕の家にも取材班が訪ねてきたことがある。
そのとき、家族は皆、外出していた。僕一人で対応することになり、茶菓子を出して、先祖から語り継がれてきた話を聞かせた。
質問は、昔の暮らしや地域の慣習から始まった。どのような食物を口にしていたのか。祭りでは何を供えたのか。家族の間で、どのような物語が伝えられてきたのか。
やがて、話題は家系図へ移った。
僕の家系には、歴史上の重要人物の末裔とされる者がいた。そのためか、調査班は系譜について特に念入りに尋ねてきた。
そこで僕は、その人物の乳母を務めた祖母が残した証言についても話した。
調査員たちは互いに目を合わせ、記録を確かめたあと、納得したようにうなずいた。そして礼を述べ、帰っていった。
彼らは、各家庭に残る口伝を集めるだけでなく、祭壇に伝わる目録の整理も進めているらしい。先祖の名や祭具の由来、奉納された品物の記録を照合しながら、一軒一軒を調べている。
全戸を対象にした調査なのだから、途方もない仕事だろう。
それでも、誰かが記録に残しておかなければ、語り継がれてきた話も、いつか失われてしまう。
いつか調査結果が一冊の本にまとめられ、手元に届くのだろうか。
楽しみだった。
ここは、研究者にとっての桃源郷なのだと思う。
知りたいことを追いかける時間があり、それを支える生活の基盤がある。発見したことを仲間と共有し、次の世代へ伝えるための仕組みまで整えられている。
戦争で奪われた品物さえ、ここでは研究の対象となり、新しい道具へと生まれ変わる。
この場所の穏やかさを眺めていると、ククルで目にした光景が、かえって異様なものに思えてきた。
僕は広間のベンチに腰を下ろした。
子供たちが噴水の周りを走り、研究者たちは手帳を開いて議論している。少し離れた場所では、先ほどの男が、黒い箱の内部を念入りに調べていた。
その光景を眺めながら、ずっと気になっていたことを考え始めた。
ククルを襲ったタリス軍の軍隊長は、すでにタリスから追放されているという。今は行方がわからないらしい。
彼は、ククルを補給地点として利用するつもりなどなかったのだろう。
田畑を焼き、食糧を奪い、ワインも金銀も持ち去った。
村を再建する側からすれば、あの行為は単なる略奪だった。暮らしを支えるものを壊し、残された人々に復旧の負担を押しつけたのである。
しかし、タリスが本来行ってきた遠征は、あのようなものではなかった。
タリスは、武力を持つだけで勝てるとは考えていなかった。
まず大軍を準備し、遠征の目的を定める。敵地の地形や気候、道路、河川、食糧事情を調査し、自軍が有利に戦える条件を整えてから進軍する。
そもそもタリスは、勝算のない戦いを極力避ける国だった。
遠征に際して、占領した土地を補給に利用する必要がある場合には、戦場へ向かう前に周辺の村や町を調べる。物資を集めやすく、交通の便がよい場所を選び、そこを補給拠点として確保してから敵陣へ進む。
そのための占領も、原則として無差別な破壊を伴うものではなかった。
大軍で町を包囲し、白旗を掲げるよう促す。開城を求める矢文を送り、町の長には、戦闘がどの程度続くと見込まれるかを伝える。
抵抗を続けるよりも、開城したほうが住民の被害を抑えられる。その判断ができるよう、タリス側は交渉の余地を残していた。
町が開城すれば、タリスは一時的に統治権を引き受ける。宰相の配下から役人を派遣し、町の運営を代行する。年貢や必要最低限の税を徴収する一方で、住民の生活を維持し、軍のための備蓄を整える。
現地の経済圏とタリスの経済圏が異なれば、物資の調達に使う金銀も区別して扱った。土地の商習慣を無視して、軍票やタリスの正貨を一方的に押しつければ、物資を集めること自体が難しくなるからだ。
こうした準備には、一か月から二か月ほどを費やすこともあった。
もし戦況が悪化して軍が敗走しても、補給拠点と備蓄が残っていれば、立て直して再び軍を動かすことができる。
占領した土地を焼き尽くせば、その場で奪えるものは増えるかもしれない。しかし、それでは次の戦いに必要な物資まで失ってしまう。
タリスの軍人なら、それくらいのことは理解していたはずだった。
もちろん、タリスの統治が、占領された人々にとって常に望ましいものだったとは限らない。徴税もあれば、統治権を奪われる不自由もある。あくまで、タリス自身の利益と軍事上の合理性に基づいた仕組みだった。
それでも、少なくとも従来のタリスは、占領した土地を使い捨てにすることを避けていた。
補給拠点は軍の生命線であり、住民の生産力は、その生命線を支える資源だったからだ。
ククルで起きたことは、その基本から外れている。
農地を焼けば、次の収穫は減る。食糧を根こそぎ奪えば、住民は飢え、復旧に必要な労働力まで失われる。酒や金銀を持ち去るだけで、何の備蓄も残さないなら、後から来る部隊も利益を得られない。
あの軍隊長は、目先の略奪を優先したのだろうか。
それとも、軍隊長だけの問題ではなく、軍全体で何かが変わっていたのだろうか。
近ごろのタリスでは、兵舎で奇妙な病が広がり、兵士たちが以前のような規律を保てなくなっていたという話も聞いている。無益な遠征が増え、軍票が大量に発行され、各地で食糧の買い占めや混乱が起きていた。
ただし、タリス兵のすべてが略奪を望んでいたわけではない。昔からの規律を守ろうとした者もいただろう。復旧に力を貸す元兵士たちを見れば、それはわかる。
問題は、規律を守ろうとする人間がいたとしても、それだけでは止められないほど、軍の仕組みそのものが崩れ始めていたのではないか、ということだった。
ククルを襲った軍隊長は、タリスの名を使いながら、タリスが築いてきた信用を損なった。
彼の行動によって、人々がタリスの兵士を疑い、タリスの通貨を疑い、タリスとの取引を避けるようになれば、損失はククルだけにとどまらない。
タリスが長い年月をかけて整えてきた補給路も、取引の慣習も、各地に蓄積された信用も、使われなくなれば維持できなくなる。
信用は、武力のように命令一つで取り戻せるものではない。
壊すのは簡単でも、再び築くには、相手が安心して取引できるだけの実績を積み重ねるしかないのだ。
僕は、噴水の水面に目を向けた。
ここノアリアでは、遠い土地から届いた品物が調べられ、分解され、新たな価値を与えられていく。人々は自分の生活を整えながら、知識や技術を少しずつ積み上げている。
ククルも、もう一度立ち上がれるだろうか。
焼けた農地には炭と堆肥を混ぜた。住居の基礎も固まりつつある。村人たちは働き、職人たちも力を貸してくれている。
けれど、村を再建することと、失われた信用を取り戻すことは別の問題だった。
タリスの名を聞くだけで身構える人々がいるかぎり、以前のような関係に戻るには時間がかかるだろう。
それでも、ここで過ごす人々を見ていると、失われたものを残し、壊れたものを直し、次の世代へ渡していくことはできるのだと思えた。
僕は立ち上がり、衣服についた埃を払った。
そろそろ、両親のもとへ向かおう。
今度こそ、何も心配をかけずに顔を見せたい。
久しぶりの帰省なのだから。




