監査
水路改良の功績によってタリス市民権を得たサラのもとへ、本国から一人の監査官が派遣された。
名はヴァルナーという。彼の目的はひとつだった。
人口も少なく、かつては崩壊寸前だった属州国セレニアが、なぜ今や本国の一部の地方都市すら凌ぐ勢いで、タリス正貨による納税額を増やし続けているのか。この調査に来たのだった。
農業を中心とするセレニアは、かつて商業も乏しく、交易路からも取り残されていた土地である。大規模な鉱山があるわけでもなく、特別な工業都市でもない。
それなのに、納税額は年々増えていた。
もちろん、セレニアは名産品や農作物による現物納税も行っていた。そうした納税方法は他の属州でも認められており、規則に反するものではない。
しかし、現物納税の評価額をタリス正貨に換算しても、なお不自然なほど税収が伸びていたのである。
ヴァルナーは着任すると、早々に役場の帳簿を押収した。
しかし、そこには寸分の狂いもなかった。
農産物の生産量。
外国商人との取引。
職人への支払い。
タリス正貨の収支。
現物納税の評価額。
納税額。
どれを調べても数字はきれいにつながっている。
さらに、タリス軍が発行した軍票の取引記録も整然と分けられていた。軍票の受け取り、役場での交換、穀物の払い出し、そして市場での取引。それぞれの数量が記録され、交換保証に必要な備蓄の量まで計算されていた。
その一つ一つに、タリス本国が定めた制度や規則を根拠とする書類が添えられている。
サラは、セレニアで行われているすべての取引を、タリス本国の教えと制度に従い、地方の生産力を最大限に引き出した結果として記録していた。
ヴァルナーは帳簿を何度も読み返した。
不正を示す決定的な証拠はない。
むしろ、書類だけを見れば、セレニアはタリスの政策を忠実に実行している模範的な属州だった。
帳簿から崩すことを諦めたヴァルナーは、次に村人たちへ目を向けた。
彼が気づいたのは、納税額に比べて村人たちの生活水準が妙に高いことだった。
新しい農具が揃い、住居の修繕も進んでいる。鍛冶場には上質な鉄材があり、村の倉庫には保存食や医薬品が備蓄されている。
しかも、住民の多くは贅沢をしているようには見えなかった。
ヴァルナーは、アルマやエンドンをはじめとする村人たちのもとを訪れ、個別に聞き取りを始めた。
しかし、返ってくる答えは、どこへ行っても同じだった。
「自分たちは質素に暮らしているだけです」
「豊かになったのは、すべてサラ様のおかげです」
村人たちは、あまりにも自然に同じことを答える。
ヴァルナーは疑念を深めた。
だが、彼らの証言そのものには矛盾がない。
そこで彼は、村の市場を実際に歩いてみることにした。
市場には、タリス正貨を使う者もいれば、軍票を差し出す者もいた。穀物と薪を交換する農民もいれば、絹と鉄材の取引をする商人もいる。
奇妙だったのは、軍票がごく自然に売買へ使われていることだった。
軍票とは、軍が物資の調達や支払いに用いる証票である。発行元の信用が失われれば価値を失う危険があり、必ずしも正規の貨幣と同じように扱えるものではない。
ところが、セレニアでは事情が違った。
市場の商人は、軍票を受け取っても慌てて役場へ駆け込まない。次の取引で別の商人へ支払えばよいからだ。
役場に持ち込めば穀物と交換できる。その保証があるため、軍票を持ち続けることにも、別の品物と交換することにも、それなりの合理性があった。
軍票は、セレニアの中で一つの取引手段として定着しつつあったのである。
ヴァルナーは、軍票の流通を調べるため、役場へ戻った。
「なぜ、これほどの軍票が市場に出回っている?」
サラは落ち着いて答えた。
「タリス軍が、物資の調達や労働者への支払いに軍票を用いているからです。私たちは、それを受け取った住民が困らないよう、交換の仕組みを整えました」
「軍票の発行元はタリス軍だ。発行量が増えれば、交換に必要な物資が不足する危険もあるだろう」
「その通りです。ですから、役場の保証を受けた軍票と、そうでないものを区別しています。交換可能な量も、倉庫の備蓄に照らして管理しています」
ヴァルナーは台帳をめくった。
そこには、軍票十枚を穀物一キログラムと交換する制度が記されていた。
「軍票を受け取るだけでなく、穀物まで渡しているのか」
「軍票を信用してもらうには、実際に交換できることを示す必要があります。口約束だけでは、紙切れと変わりませんから」
「しかし、備蓄が尽きれば保証できなくなる」
「はい。だからこそ、軍票を発行するのはタリス軍であっても、その信用を無制限に引き受けることはしません」
サラの答えに、ヴァルナーは少し考え込んだ。
軍票が市場で使われているからといって、すべての価値がセレニアの役場に負わされているわけではない。
役場が保証するのは、備蓄と交換可能な範囲に限られている。保証のない軍票まで額面どおりに受け入れれば、いずれ倉庫が空になることは明らかだった。
「……合理的な制度だな」
ヴァルナーはそう言った。
しかし、彼の調査はまだ終わっていなかった。
村の奥へ進んだところで、ヴァルナーは大きな倉庫を発見した。
中には塩、医薬品、酒、保存食、布など、大量の生活必需品が整然と保管されていた。
ヴァルナーはむしろ安心した。
これなら説明がつく。
「本国の貨幣だけに頼らず、生活必需品を備蓄しているのだな」
サラは頷いた。
「はい。セレニアでは、食料や塩、医薬品、鉄などについて、できるだけ現物の備蓄と物々交換の経路を残しています」
ヴァルナーは倉庫を見回した。
「これは必要な防御策だ。タリスは今、属州の鎮撫に追われている。戦費を賄うために正貨の発行量も増えている」
彼は少し声を落とした。
「本国としても、納税された正貨だけで、すべての属州を非常時に支えられるとは限らない。だからこそ、各地には食料や医薬品を備蓄するよう指示している」
「つまり、この倉庫は……」
「非常時のための備蓄だ。正貨の価値が揺らいでも、住民が飢えないようにするためのものだ」
サラは、あえて一歩踏み込んだ説明をした。
「正貨だけに依存すれば、正貨が不安定になったとき、セレニアそのものが納税能力を失います。しかし、食料や塩、医薬品、鉄などを現物で確保しておけば、正貨の価値が下落しても生活を維持できます。生活が維持できれば、生産も維持できます。生産が維持できれば、タリスへの納税も継続できます」
「……なるほど」
「軍票についても同じです。交換保証を設けることで、住民は取引に利用できます。ただし、保証の限度を超える分まで引き受けるつもりはありません」
ヴァルナーは倉庫の奥を見た。
備蓄は、単に住民の食料を確保するためのものではない。軍票の一部を穀物と交換するための準備でもあり、周辺商人との交易を継続させるための資産でもある。
だが、それを「タリスへの納税能力を守るための備蓄」と言い換えれば、制度上は何もおかしくなかった。
ヴァルナーも、その理屈を否定できなかった。
「セレニアには今後も、タリスへの優良な納税モデル地区として発展してもらいたい」
そう言い残し、ヴァルナーは倉庫の検査を終えた。
だが、彼の調査はまだ終わっていなかった。
次に向かったのは、村の鍛冶場だった。
そこには、上質な農具や刃物が整然と並んでいる。作業場には帳簿も置かれていた。
ヴァルナーは帳簿をめくりながら、アルマを見た。
「アルマと言ったな」
「へい」
「これほど精巧な鉄製品を、これだけの量作っている。そして、受け取っている代金にはタリス正貨も多いと聞いている」
アルマは黙っている。
「本国の都市部ですら、これほどの正貨が末端の職人へ流れてくることは珍しい。なぜ客は、お前にタリス正貨を支払う?」
アルマは、待っていましたとばかりに胸を張った。
「俺はタリス正貨の価値を誰よりも理解してる頑固な職人でしてね」
そして、棚の奥から粗悪な鉄製品を一つ取り出した。
「保証もねえ軍票だけを押しつけて、正貨で払う客と同じ品を寄越せっていう連中には、こんな鈍ナマクラしか作ってやらねえんです」
ヴァルナーが眉をひそめる。
「……わざと粗悪品を?」
「おっと、言い方が悪かった。軍票での注文には、それに見合った品を作るってだけでさあ。役場の保証を受けた軍票なら、普通の品はちゃんと渡しますよ」
アルマは、今度は立派な刃物を取り出した。
「だが、タリス正貨を払う客には、タリスの誇りに恥じねえ業物を渡す。いい鉄は高え。いい仕事にも金がかかる。だったら、正貨で支払う客を優先するのは当然でしょう」
ヴァルナーはしばらく考えた。
アルマは、軍票を無条件に拒んでいるわけではない。役場の保証を受けたものなら取引に使い、それ以外の軍票については慎重に扱っている。
正貨による支払いには、より高品質な仕事を提供する。その価格差が、正貨を稼ごうとする商人や職人の動機にもなっているのだろう。
「……職人のこだわりが、結果的にタリス正貨の流入を促しているわけか」
「まあ、そういうことでさあ」
アルマは満足そうに笑った。
ヴァルナーは、これ以上追及する理由を見つけられなかった。
次に向かったのは、村の外れにあるエンドンの農地だった。
物置小屋の扉を開けたヴァルナーは、しばらく中を見渡した。
塩漬け肉、穀物、酒の樽、保存用の油。いずれも相当な量が、用途ごとに分けて保管されている。
「エンドン殿。帳簿に記載のない備蓄があるようだが」
エンドンは帽子を脱ぎ、軽く会釈した。
「ええ。家の者が暮らす分と、いざという時のために残してある分です」
「納税分を差し引いた余剰ということか」
「はい。納めるべきものは納めております。残した分まで、すべて役場に報告する決まりではなかったと記憶しておりますが」
ヴァルナーはエンドンに目を向けた。
「では、用途を聞こう。肉と穀物は分かるが、酒までこれほど蓄えている理由は?」
「酒は交易にも使いますし、祭礼にも必要です。塩漬け肉は長く保存できますから、収穫の少ない年や、病が出た時にも役立ちます。酒も肉も、必要になってから用意するのでは間に合わないことがありますので」
「村の備蓄とは別に、各家庭でも蓄えているわけだな」
「そういうことです。役場の倉庫があれば安心ですが、何かあった時に、そこから必ず受け取れるとは限りませんから」
エンドンは倉庫の奥へ目を向けた。
「サラ様からも、収穫があるうちに備えておくよう教わりました。食べる分を残し、余った分を売る。売った金で足りないものを買い、買えないものは品物同士で融通する。そうしておけば、正貨が手元にない時でも、暮らしを立て直せます」
ヴァルナーは、積み上げられた樽を見た。
「この備蓄は、タリス正貨の価値が下がった場合にも役立つと?」
「ええ。正貨がいくらあっても、食べ物がなければ腹は満たせません。逆に、食べ物があれば、金が手に入るまで持ちこたえられます」
エンドンの口調に、取り繕う様子はなかった。
「もちろん、蓄えにも限りはあります。売りすぎれば冬を越せませんし、残しすぎれば畑に手を入れる金が足りなくなります。そこは毎年、収穫を見て決めています」
ヴァルナーは帳簿に目を落とした。
「なるほど。納税とは別に、家計の備蓄を管理しているわけか」
「そうなります。必要でしたら、収穫量と納税分、それから売却分をお見せします。備蓄のすべてを帳簿に載せてはいませんが、何をどれだけ作り、どれだけ納めたかは記録しておりますので」
エンドンは、傍らの帳面を差し出した。
ヴァルナーは受け取り、しばらく数字を追った。
少なくとも、納税分を隠している形跡はない。備蓄の量は多いが、収穫量と照らし合わせれば、説明のつかない数字でもなかった。
「分かった。備蓄はそのまま維持するといい。非常時に備えることまで、国が妨げる理由はない」
「ありがとうございます」
「ただし、役場が交換保証を行う軍票については、備蓄の管理を怠らないように伝えておいてくれ。保証を広げすぎれば、いずれ住民全員が困ることになる」
「承知しております。保証できる分と、そうでない分を混同するつもりはありません」
ヴァルナーは帳面を返した。
「結構だ。自分たちの暮らしを守りながら、納めるべきものを納める。それができているなら、問題はない」
エンドンは帽子をかぶり直し、監査官を見送った。
ヴァルナーが立ち去るまで、彼の態度に目立った変化はなかった。
ヴァルナーはその場を後にした。
だが、村を歩きながら、彼の中には一つの疑問が残っていた。
セレニアは、本当にただの優良属州なのか。
帳簿は完璧だった。
税も納めている。
職人は正貨を稼いでいる。
農民は生活に必要な備蓄を持っている。
役場は本国の制度を忠実に守っている。
軍票の流通にも一定の秩序があり、保証できる範囲を超えた負担を避けている。
そして、村の生産力は年々上がっている。
不正を探せば探すほど、すべてが「正しい地方統治」に見えてしまう。
ヴァルナーはそこで、ようやく理解した。
セレニアは、タリスから離れているのではない。
タリスの制度を利用して、自分たちが倒れない仕組みを作っている。
しかも、それはタリス本国が掲げる「優良な属州」の理想そのものに見える形で実現されていた。
セレニアの市場では、タリス正貨が遠方の品物を買うために使われていた。軍票は、交換保証と商人同士の信用を通じて周辺地域に広がっていた。そして、塩や食料、医薬品、鉄などの必需品は、現物交易によって確保されていた。
三つの仕組みが並行して動いている。
そのため、タリス正貨の価値が揺らいでも、軍票の発行量が増えすぎても、セレニアの全機能が一度に失われることはなかった。
むろん、どの制度も無敵ではない。軍票の交換保証は備蓄に限られ、現物交易も交易路が閉ざされれば途絶える。
それでも、ひとつの仕組みにすべてを委ねるよりは、はるかに強靱だった。
そして、その仕組みは今や、ヴァルナー自身にとっても魅力的だった。
タリス本国の財政は危うい。
戦費を賄うために正貨の発行量が増え、兵士たちは現地調達に頼り、軍票が各地へ流れ込んでいる。もし本国が破綻すれば、正貨の価値も、官僚としての地位も、これまで築いた財産もどうなるか分からない。
しかし、セレニアには穀物がある。
絹がある。
塩がある。
鉄がある。
そして、それらを必要とする者へ届けられる交易網がある。
ヴァルナーはサラに、一つの提案をした。
「もし本国の財政が破綻した場合、私の一族の財産の一部を、セレニアの実物資産によって保証してもらえないだろうか」
サラは答えた。
「その代わりに、ヴァルナー様には何をしていただけますか?」
「本国との窓口になる」
ヴァルナーは言った。
「セレニアを守るために、必要な情報を渡す。必要な制度上の手続きも通す。そして、本国にとってセレニアが必要な存在であることを、私は報告書に書こう」
サラは、すぐには答えなかった。
ヴァルナーの申し出は、セレニアにとって利益になる。しかし、それは同時に、監査官を自分たちの側へ引き入れることでもあった。
「お約束を守っていただけるのであれば、検討しましょう」
サラは、そう答えた。
こうして、二人の間に密約が結ばれた。
ヴァルナーにとって、セレニアは単なる監査対象ではなくなった。
崩壊しつつあるタリスの中で、自らの命と財産を守るための避難先。いわば、隠された砦だった。
やがてヴァルナーは本国へ戻った。
そして提出した監査報告書には、こう記されていた。
――セレニアは、サラの類まれなる指導力とタリスへの忠誠心により、極めて健全かつ合法的に発展している。
――農業、水利、交易、納税のすべてにおいて、他の属州が参考とすべき優良事例である。
――軍票の取り扱いについても、交換保証と備蓄管理を組み合わせることで、現地調達に伴う混乱を抑制している。
――生活必需品の備蓄と現物交易は、非常時の納税能力を維持するための合理的な措置であり、問題はない。
この報告によって、セレニアは本国から正式に「特別経済区」として認められることになった。
サラの手元には、豊かな物資だけではない。
軍票を介してつながった商人たち。現物を融通し合う隣国。タリス正貨を扱う交易路。そして、本国の中枢へ直接つながる、強力な一本の道が生まれていた。
その道の名は、ヴァルナー。
彼はもう、セレニアを監査する人間ではなかった。
セレニアが生き残るために必要な、本国側の協力者になっていた。




