軍票が築くセレニア経済圏
こうして、セレニアにはタリス正貨がすこし定着した。
風の噂で聞いたが、タリスの挙動がおかしいらしい。
無益な武力遠征を繰り返し、軍票を乱発して、必要な資源を現地で調達しているという。
遠征先で部隊長の機嫌を損ねれば、土地は焼かれ、穀物は食い荒らされる。かつての規律正しいタリス兵とは思えない振る舞いだった。
この風潮は下火になるどころか、便乗する部隊まで現れた。各地へ遠征し、軍票を使って作物を買い漁っているらしい。
タリスは終わるのか。
不安になった私は、事情に詳しい駐在兵に尋ねた。
「兵舎で妙な病が流行っているらしい。穀物を見境なく食い荒らすほど理性を失うという。あれほど異常な状態の兵士たちが、どうやって遠征の許可を得ているのか……俺にも分からない」
彼は周囲を警戒するように声を落とした。
「今のうちに、タリス正貨で買える保存の利く品物を買っておいたほうがいい。もし本国の経済が破綻して物資の供給が止まれば、そうした品物は希少になる。別の交易路に流せば、今より高く売れるかもしれない」
その言葉を聞いて、私はようやく事態の深刻さを理解し始めた。
噂だけで判断するのは早計だ。私は商人や旅人から情報を集め、周辺地域の取引状況を調べることにした。
タリス兵は、いまだタリス正貨で給料を受け取っているらしい。しかし、商人たちはタリス正貨を以前より安く買い叩き、両替商の中には交換を拒む者まで現れていた。
貨幣の信用が失われ始めている。
私は村の役場に指示し、備蓄品の点検を行った。食料では豆や塩、農業資材では農具や修理用の鉄材。医薬品、布、針、靴、燃料、鍛冶道具、縄、木材加工用の工具など、交易が途絶えた際に不足しそうなものを洗い出した。
タリス正貨の一部を、こうした物資へ換えることにした。緊急時の備蓄を確保しつつ、通常の取引が続いた場合に備えて、手元にもいくらかの正貨を残しておく。
村人たちも、私の方針に従った。
同時に、隣村との交渉を進めた。こちらからは羊毛や鍛冶職人の修理技術を提供し、相手からは穀物や薪を融通してもらう。貨幣が使えなくなっても、互いに必要なものを手に入れられるようにするためだった。
そんな折、タリス兵が軍票で干し肉を買った。
軍票とは、軍が物資の調達や兵士への支払いに用いる証票である。軍の活動地域では貨幣の代わりに使われることがあるが、その価値は発行元の信用に左右される。
村人たちは扱いに困った。受け取ったところで、これが明日も使える保証はない。
ところが、役場に持ち込めば軍票を穀物と交換してもらえるという噂が広がり始めた。
私は、徴収した穀物や絹の一部を役場の倉庫に保管させていた。その備蓄を利用し、軍票十枚を穀物一キログラムと交換する制度を設けたのである。
ただし、無制限に交換を引き受けるわけにはいかない。役場は交換に応じられる量を備蓄に照らして管理し、受け付けた軍票の発行元や金額を台帳に記録した。交換済みの軍票は回収し、再び交換請求に使われないよう処理した。
こうして、役場の保証を受けた軍票は、穀物という実物に裏付けられた。
初めて軍票を受け取った村人は、半信半疑のまま役場へ向かった。そこで実際に穀物を受け取ると、その噂はたちまち村中へ広がった。
「軍票を持っていても、いざとなれば穀物に戻せる」
そう思えるからこそ、軍票は単なる紙切れではなく、売買に使えるものとして受け入れられ始めた。
やがて、軍票を受け取った村人が、そのまま別の商人への支払いに使うようになった。
干し肉を売った者は軍票で薪を買い、薪を売った者は軍票で農具の修理を頼む。修理を請け負った鍛冶職人は、受け取った軍票で穀物を買った。
誰もが毎回役場へ出向き、穀物に交換する必要はない。次の取引相手も軍票を受け取ってくれると分かれば、手元に置いておけばよいのだ。
軍票は、役場での交換を通じて価値を確かめられるだけでなく、村の中を巡ることで、その利便性を増していった。
もちろん、軍票だけで村の経済を成り立たせるつもりはなかった。国へ納める税は従来どおりセレニアの名産品とし、塩や医薬品などの必需品については、物々交換や実物交易の経路を残した。
貨幣を使えるようにすることと、貨幣がなければ暮らせない状態を作ることは違う。
その原則だけは、決して忘れないようにした。
ところが、タリスの遠征が増えるにつれ、村に流れ込む軍票の量も増えていった。
駐在兵は穀物や干し肉を買い、燃料を調達し、防壁や外堀の工事に現地の労働者を雇った。報酬は軍票で支払われた。
軍票は兵士から商人へ、商人から職人へ、職人から農民へと渡っていった。
村人たちは、軍票を持ち込めば穀物と交換できることを知っていた。しかし、毎回交換するより、次の買い物に使ったほうが便利だった。
次第に、役場へ持ち込まれる軍票の割合は減り、市場でそのまま使われる割合が増えていった。
私は、この変化を見逃さなかった。
軍票の価値を支えているのは、タリスの威光だけではない。役場の倉庫にある穀物と、そこから生まれる交換への信頼である。
ならば、その仕組みをセレニアの外へ広げることもできるはずだった。
私は近隣の村や交易路沿いの商人に働きかけ、軍票を使った取引を試みた。
最初、彼らの反応は芳しくなかった。
「タリス軍が発行した紙切れだろう。遠征軍がいなくなれば、何の役にも立たないではないか」
もっともな反応だった。彼らにとって、セレニアの役場は遠く、わざわざ軍票を持ち込んで穀物と交換するだけの価値があるかどうかも分からない。
そこで私は、取引の方法を変えた。
まず、セレニアで軍票を使って買える品物を増やした。穀物や絹だけでなく、保存の利く食料、鉄材、農具、燃料などを揃えた。さらに、交易路の中継地に倉庫を設け、セレニアの保証を受けた軍票を扱う商人を増やした。
軍票を持つ商人が必ずしも役場まで足を運ばなくても、取引相手を見つけられるようにしたのである。
最初に協力したのは、セレニアへ繰り返し出入りする商人たちだった。
彼らは軍票で絹や保存食を仕入れ、別の土地で商品を売った。受け取った軍票は、次の仕入れに使うこともできる。必要になれば、セレニアの役場で穀物と交換することもできた。
やがて、彼らは別の商人にも軍票での支払いを提案するようになった。
「この軍票なら、セレニアで使える。穀物との交換も保証されている」
その説明を受け、軍票を受け取る商人が少しずつ増えていった。
こうして軍票は、セレニアの村内だけでなく、周辺の集落や交易路沿いの市場へも流れ始めた。
セレニアの商人は、異国人に対してこう言うようになった。
「この軍票なら受け付ける。ほかの貨幣については相談次第だ」
それは、単にタリス軍への忠誠を示す言葉ではなかった。
軍票を受け取れば、セレニアの品物を購入できる。次の商人への支払いにも使える。セレニアとの交易を続ける者にとって、軍票は持っていて困らないものになりつつあった。
軍票の価値は、タリス本国への信用だけで支えられているのではない。セレニアが供給する物資と、継続的な取引の機会によっても支えられるようになっていた。
この変化は、次第に周辺の商業地にも広がった。
軍票を扱う商人たちは、仕入れや代金の受け取りに同じ証票を使うようになった。商人同士の取引が増えると、軍票を扱う市場では、軍票何枚で穀物や絹を買えるかという相場も共有され始めた。
それまでは物々交換を基本としていた地域でも、軍票を介せば、品物をすぐに必要としている相手を探す手間が減った。穀物を持つ者が絹を必要としていなくても、軍票を受け取れば、後から絹を売る別の商人を探せるからだ。
物々交換そのものがなくなったわけではない。塩、医薬品、鉄、食料などは、従来どおり現物で取引されることも多かった。
しかし、異なる地域の商人同士が取引する際には、軍票が便利な共通の手段になっていった。
セレニアは、気づけば軍票を使う経済圏の中心になっていた。
役場は単なる地方行政機関ではなくなった。穀物や絹を管理する倉庫、軍票の交換窓口、商人同士の取引を仲介する市場。その三つを兼ねる場所へと変わっていったのである。
私は、この経済圏をタリス本国から切り離すつもりはなかった。表向きには、あくまでタリスの支配下にある一地方として、従来どおり納税を続けた。
他の属州国にも、税を現物で納めるところはあった。そのため、セレニアが名産品や農作物を中心に納税していても、特に咎められることはなかった。
帳簿上は、農業の発展と交易の活性化によって、納税が安定しているにすぎない。
だが実際には、セレニアと周辺地域の間で、タリス本国を経由しない取引が増えていた。
隣国の商人が持ち込んだ鉄材を、セレニアの絹や穀物で買い取る。別の地域から医薬品を仕入れ、軍票を使って労働者や商人に支払う。受け取った軍票は、また次の交易へと回されていく。
セレニアには、穀物、絹、塩、鉄、その他の資材が蓄積されていった。
それらは単なる備蓄ではない。軍票を受け取った者が、必要に応じて交換できる物資であり、商人が次の取引へ進むための信用の源でもあった。
こうして、セレニアはタリス正貨だけに頼らず、軍票と現物交易によって動く経済基盤を築き始めた。
ところが、軍票の流通が広がるにつれ、新たな問題も現れた。
タリス軍は、各地で軍票を乱発していた。セレニアの備蓄で保証できる額を超えてまで、すべての軍票を無条件に受け入れることはできない。
そこで私は、役場の保証を受けた軍票と、そうでない軍票を区別することにした。発行元を確認し、保証できる範囲のものだけを台帳に登録する。周辺の商人にも、その違いを知らせた。
セレニアで流通する軍票は、単なるタリス軍発行の紙片ではなく、役場の交換保証と取引網に結びついた証票になっていった。
軍票の量が増えれば、それだけで村が豊かになるわけではない。保証できる物資が不足すれば、軍票への信頼は一瞬で崩れる。
だからこそ、私は流通量と備蓄を常に照合させた。保証できる範囲を超えてまで、信用を売り渡すわけにはいかなかった。
やがて、タリス本国で大きな異変が起きた。
属州国の一つがタリスに対して蜂起し、戦争が始まった。戦費を確保するため、政府は正規貨幣を大量に発行した。
市場に出回る貨幣が急激に増え、タリス正貨の価値は下落した。商人たちは正貨での取引を避け、穀物や塩、鉄などの現物を求めるようになった。
軍票を発行するタリス軍も、ますます現地での支払いに頼るようになった。
しかし、セレニアでは、すべての軍票が同じように扱われたわけではなかった。役場の保証を受けた軍票には、交換できる物資と、そのための備蓄があった。保証を受けていない軍票は、商人たちから額面どおりに受け取られなくなっていった。
タリス正貨が不安定になっても、セレニアの経済圏がただちに崩れなかったのは、この違いがあったからである。
セレニアには、正貨だけに頼らない物々交換の経路が残っていた。役場の倉庫には穀物や絹があり、周辺地域との交易路も維持されていた。軍票は、その物資と取引網を介して使われ続けた。
もちろん、セレニアもタリスの混乱から完全に逃れられたわけではない。遠征軍による買い占めや物価の変動は、こちらの市場にも影響を与えていた。
それでも、必要な物資をすべてタリス本国から運んでもらわなければ暮らせない状態にはなっていなかった。
やがて、その噂は周辺国へ広がった。
「セレニアなら、軍票で取引ができる」
「穀物や絹との交換が保証されている」
「タリス正貨が不安定になっても、現物での取引が残っている」
そうした評判を聞きつけ、近隣諸国や反タリス勢力の商人たちがセレニアへ集まり始めた。
彼らは軍票を持ち込み、穀物や絹、鉄材、医薬品を買い求めた。別の地域で受け取った軍票を、セレニアで必要な物資に換える者もいた。
交易の規模が大きくなると、役場の窓口だけでは対応できなくなった。私は鍛冶屋アルマや小作農エンドンらと連携し、倉庫を増設し、帳簿を整え、周辺の商人たちとの取引契約をまとめていった。
セレニアの役場は、いつしか地域の交換所であり、貿易の仲介所であり、物資の保管庫にもなっていた。
その取引の一部は、タリス本国を経由していなかった。
タリスの威光によって成り立っているはずの軍票が、皮肉にも、タリス本国から独立した交易網を広げる役割を果たしていたのである。
そして、ついにタリス本国そのものが揺らぎ始めた。
戦争と政争によって国は分裂し、各地の統治能力は低下していった。兵士への給与は滞り、商人たちも商品を確保できなくなった。
やがて、本国の人間たちは生き延びるため、セレニアの物資に頼らざるを得なくなった。
セレニアには、過去の農地改良と交易によって蓄積された穀物、絹、塩、鉄があった。タリス正貨も一定量は残していたが、それ以上に重要だったのは、物資を必要とする者へ届けられる交易網と、現物に裏付けられた軍票の仕組みだった。
私はアルマやエンドンらと連携し、困窮した兵士や商人たちへ物資を供給した。
表向きには、こう説明した。
「派遣民の指導によって農業と交易が安定し、納入を滞りなく続けられている」
私は、あくまでタリスの忠実な地方官であるように振る舞った。
だが実際には、物資を必要としている者たちに優先的に商品を渡し、その見返りとして、金や情報、そして将来の協力を得ていた。
金で買えるものは金で買う。
物資で恩を売れる相手には、物資を渡す。
そして、借りを作った者には、タリスが崩壊した後も生き残れる道を示す。
そうして少しずつ、本国側の人間とのつながりを増やしていった。
その頃、セレニアの異変に気づいた人物がいた。
タリスの監査官、レヴィである。
彼はセレニアの帳簿を調べ、表向きの納入量と、実際の物資の動きに不自然な点があることに気づいた。
普通ならば、ここで私は逮捕されていた。
しかし、私はレヴィに別の提案をした。
「タリスがこのまま崩壊した場合、あなたの命と財産を保証する」
レヴィは黙って私を見た。
私はさらに続けた。
「あなたが本国へ戻れば、今回の件は必ず問題になる。だが、ここに残るなら、あなたが持っている知識も財産も守る」
長い沈黙の後、レヴィはその提案を受け入れた。
こうして、監査官レヴィはセレニア側の協力者となった。
しかし、一つ問題が残った。
レヴィが本国へ帰らなければ、当然、本国から問い合わせが来る。
数日後、案の定、詰問状が届いた。
サラが二人に告げた。
「本国から、レヴィ監査官の帰任が遅れている理由を問う詰問状が来ました」
私はしばらく考えた。
「どうする。賊に襲われ、殺されたことにするか?」
サラが首を横に振った。
「それでは調査隊が来ます。死体を探すために、徹底的に調べられるでしょう」
そして、別の案を口にした。
「地方で流行病が発生し、レヴィ監査官は緊急隔離されていることにしましょう」
「病気、か」
「ええ。伝染病なら、本国の役人も簡単には近づけません。現地確認を命じられても、実際に来る者は少ないでしょう」
私はしばらく考えた後、頷いた。
「それでいい」
こうして、本国へ送られた報告書には、こう記された。
――レヴィ監査官は、セレニア地方で発生した流行病への感染が疑われるため、現在、緊急隔離中。
レヴィ監査官は、死んだことにはならなかった。
ただ、タリス本国から見れば、セレニアに足止めされ、帰任できない監査官となった。
そしてセレニアでは、彼自身もまた、崩壊しつつあるタリス本国から身を守るための協力者となっていた。
タリスが築いた軍事網は、タリス自身を支えられなくなりつつあった。
しかし、その軍票をきっかけに生まれた経済圏は、穀物と絹、塩と鉄、そして人々の取引によって、今も広がり続けていた。




