↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ノアリア叙事詩  作者: うめよろし
帝国タリスの理想と新経済圏の芽吹き

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/61

祝杯

 帝国タリスから派遣された監査官ヴァルナーによる視察を、私たちは無事に終えた。


 その夜。


 私たちは役場の奥にある小さな別室に集まり、外へ声が漏れないよう、ひっそりと祝杯をあげることにした。


 無骨な卓上に並べられたのは、粗末な木彫りの杯と、隠しルートで手に入れた上質な麦酒。そして、エンドンが持ち寄った塩漬け肉とクルミの小皿だった。


 アルマは木杯を卓に置くと、喉の奥で低く笑った。


「……『生活必需品の備蓄や、地域内での現物交換については、いちいち帝国が介入する必要はない』だと? あの堅物の監査官殿が、本当にそんなことを言ったのか、エンドン?」


 エンドンは深く頷いた。


「ええ。大国といえど、すべての属州や村の細部まで管理できるわけではない、と」


 そして、昼間のヴァルナーの言葉を思い出すように続けた。


「本国が戦争や財政難に陥ったとき、すべての物資を本国から送り届けられる保証もない。だから、各地が自分たちで食料や医薬品を確保しておくことは、むしろ納税能力を維持するためにも必要だ、とおっしゃっていました」


「へえ……」


 アルマが感心したように唸る。


 エンドンは苦笑した。


「タリスの官僚というものに対する印象が、少し変わってしまいましたよ」


 それまでぐったりと肩を落としていたサラが、三人分の杯に麦酒を注ぎながら溜息をついた。


「そういう一番肝心な方針はさ……村の掲示板にでも、最初から大きく書いておいてほしいものだよね」


「それなら大丈夫です」


 エンドンが答えた。


「監査官殿は帰る前に、役場へ正式な通達を残していくそうです。非常時のための生活物資の備蓄や、地域内での現物による融通については、通常の納税とは別に扱う、と」


「なるほど」


 アルマは納得したように頷いた。


「これで、少なくとも俺たちが勝手に帝国の規則を破っているわけじゃない、と説明できるわけだな」


「そういうことです」


 エンドンが頷く。


 アルマは注がれた麦酒を豪快に飲み干し、口元を袖でぐっと拭った。


「それにしてもエンドン。昼間のお前のあの怯えようは見事だったぞ」


「え?」


「何を聞かれても話が横道にそれる。塩の話をすれば大雨の話になり、酒の話をすれば畑の神様の話になる。あれには、さすがの監査官殿も疲れ果てていたぞ」


「あはは……」


 エンドンは照れくさそうに頭をかいた。


「さすがに少々やりすぎました。あとから考えると、ヴァルナー監査官は最初からかなり話の分かるお方だったんですけどね」


 サラも小さく笑った。


「でも、あれで助かったのも事実だよ」


「はい」


 エンドンも笑った。


 しばらく三人は、静かに酒を飲んだ。


 やがてエンドンは塩漬け肉を一切れつまみ、ふと真面目な顔になった。


「……でも、本当にこれで大丈夫なんですかね?」


「何が?」


「裏山の倉庫です」


 エンドンは声を落とした。


「塩や薬、保存食……あれは、帝国へ提出する通常の納税帳簿には載せていませんよね」


「ああ」


「今回、ヴァルナー監査官が認めてくれたからよかったものの……もし後から本国の別の役人に『なぜ報告しなかった』なんて言われたら、僕たちはどうなるんでしょう」


 サラは静かに首を振った。


「心配しなくていいよ」


「でも……」


「ヴァルナーは、あれを『隠された財産』とは見なさなかった。生活必需品を備蓄しているだけだからね。私たちはタリスへの納税を隠しているわけじゃない。正貨で納める税金と、村人が自分たちの生存のために確保している現物資産は、別のものだよ」


 アルマが頷いた。


「つまり、税をごまかしているわけじゃない」


「そういうこと」


 サラは杯を置いた。


「むしろ、タリス正貨の価値が大きく下落したときに、セレニアまで一緒に倒れたら、帝国にとっても困る。だからヴァルナーは、あの倉庫を『タリスへ納税し続けるための緩衝材』として認めたんだと思う」


 エンドンは少し考えた。


「タリスが危なくなったとき、セレニアまで巻き込まれてしまったら、そもそも税金を納められなくなる……」


「そう」


「だから、食料や塩や薬を手元に残しておくことが、結果としてタリスの利益にもなる」


「その通り」


 サラは頷いた。


「ヴァルナーは、そこまで理解したんだと思う」


 エンドンはようやく安心したように息を吐いた。


「なるほど……そういうことだったのか」


 アルマはサラの空になった杯を見て、再び麦酒を注いだ。


「なら、今日は安心して飲めるな」


「ほどほどにしてよ」


「今日くらいはいいだろう」


 アルマは自分の杯を持ち上げた。


 エンドンも嬉しそうに木杯を掲げる。


「部屋の隅で、こっそりひっそり飲む酒ですが……今日ばかりは最高の味ですね」


 三人の視線が交わった。


挿絵(By みてみん)


「僕たちの小さな勝利と――」


 エンドンが少しだけ胸を張る。


「セレニアの未来に、乾杯!」


「ああ」


 サラが笑った。


「セレニアの未来に」


「乾杯だ」


 アルマも杯を差し出した。


 三つの木杯が触れ合う。


 カチン、と小さな音がした。


 外では、いつもと変わらぬ夜が静かに更けていく。


 しかしその夜、役場の小さな別室では、三人だけが知る一つの確信が生まれていた。


 セレニアは、まだ帝国の属州である。


 税も納める。帝国の通達にも従う。


 それでも、帝国の経済が揺らいだときに備え、自分たちが生き延びるための仕組みを築くことはできる。


 役場には穀物がある。


 村には農具を直せる職人がいる。


 隣村とは薪や食料を融通し合える。


 そして市場では、タリス正貨だけでなく、穀物との交換保証を受けた軍票も使われ始めている。


 軍票の価値は、タリス軍の威光だけで決まるものではない。役場が保証できる範囲の備蓄と、商人たちが取引を続ける意思によっても支えられている。


 その小さな仕組みは、今やセレニアの外へも広がり始めていた。


 タリスが揺らいでも、すべてを失わずに済むように。


 そのための備えを、私たちは少しずつ積み重ねていた。


     *


 翌朝。


 監査を終えたヴァルナーは、役場の執務室にサラを呼び出した。


 机の上には、監査のために何度も確認された帳簿と、数枚の羊皮紙が並べられている。


 ヴァルナーは羽ペンを置くと、乾きかけたインクを確認し、静かに言った。


「サラ殿。今回の監査について、いくつか正式に通達しておく」


「はい」


「まず、セレニアの納税記録については問題なし。農業生産、交易、職人の収入、正貨による納税額、いずれも帳簿上の整合性が確認できた」


 サラは黙って聞いていた。


「次に、生活必需品の備蓄についてだ」


 ヴァルナーは一枚の書類を持ち上げた。


「塩、医薬品、保存食、燃料、衣料その他、住民が非常時に必要とする物資については、一定量を地域内に備蓄することを認める」


「……認める、ですか」


「そうだ。正確には、帝国としてそれを禁止する理由がない」


 ヴァルナーは淡々と答えた。


「本国は現在、軍事費と属州統治に多額の資金を必要としている。もし本国からの物資供給が途絶えた場合、各属州が自力で生き延びられなければ、最終的には帝国自身の負担になる」


 ヴァルナーは机の上の地図へ視線を落とした。


「だから、食料や医薬品を地方に残しておくことは、帝国にとっても損ではない」


「なるほど」


「ただし、一つ条件がある」


 ヴァルナーはサラを見た。


「その備蓄を、通常の納税義務から逃れるための隠し財産として扱ってはならない」


「もちろんです」


「納税すべきものは、これまで通り納めること。タリス正貨による納税も、正規の商取引も、従来通り記録する」


「承知しました」


「その一方で、住民が自分たちの生存のために保有する生活物資については、すべてを帝国の帳簿へ載せる必要はない」


 サラは一瞬、黙った。


 ヴァルナーは続けた。


「村人が塩を穀物と交換し、農家が保存食を作り、職人が修理の代金として薪や食料を受け取る。そうした地域内の小規模な現物取引まで、帝国が一つ一つ管理することは現実的ではない」


「つまり……」


「地域内での自給的な取引については、帝国は原則として介入しない。ただし、これを納税義務を逃れるための隠れ蓑にしてはならない。外国商人との正式な取引や、申告すべき商業活動については、従来通り記録し、必要な税を納めること」


「はい」


 ヴァルナーは頷いた。


「それから、軍票についても確認しておきたい」


 サラは顔を上げた。


「セレニアでは、軍票十枚を穀物一キログラムと交換しているそうだな」


「はい。ただし、役場の交換保証は、実際に備蓄している穀物の量に応じたものです。保証できる範囲を超えて、すべての軍票を引き受けることはできません」


「それでよい」


 ヴァルナーは帳簿を指で叩いた。


「軍票の発行量は、セレニアの役場が決めるものではない。タリス軍がどれほど発行しようと、役場の備蓄が無限に増えるわけではないからな」


「おっしゃる通りです」


「ならば、交換保証の対象となる軍票と、そうでないものを明確に区別しておくことだ。保証があると誤解されれば、住民との間で問題になる」


「台帳と印章によって区別しています。今後も記録を続けます」


「よろしい」


 ヴァルナーは書類に目を落とした。


「軍票を扱うこと自体は、直ちに問題とはならない。だが、役場が何を保証しているのかは明確にしておけ。タリス軍が発行したというだけで、その価値を無制限に保証する義務が生じるわけではない」


 サラは静かに頷いた。


 その言葉は、彼女がこれまで気を配ってきた制度の要点そのものだった。


 軍票が市場を巡ることは、セレニアにとって便利なことだ。周辺の商人が受け取るようになれば、取引相手も増える。


 しかし、役場が保証する範囲は、あくまで現物の備蓄によって支えられる範囲に限られる。


 その線引きを曖昧にすれば、軍票が増えるほどセレニアの負担が大きくなる。


「それから、もう一つ」


 ヴァルナーは別の書類を取り出した。


「この通達は、役場の掲示板に掲示すること」


「掲示板に?」


「そうだ。住民が知らなければ意味がない」


 ヴァルナーは少しだけ苦笑した。


「私が視察した限り、セレニアの住民は必要以上に帝国を恐れているようだからな」


 サラは思わず笑いそうになった。


 昨晩、エンドンがどれほど必死に怯えていたかを思い出したのである。


「……それは、申し訳ありません」


「謝ることではない」


 ヴァルナーは羽ペンを置いた。


「官僚というものは、何を禁止しているかは大声で伝える。しかし、何をしてもよいのかについては、意外と説明しない」


「耳の痛い話ですね」


「私自身も官僚だ」


 ヴァルナーは肩をすくめた。


「だから、今回は明文化しておく」


 そして最後に、書類へ帝国監査局の印章を押した。


 乾いた音が、静かな執務室に響いた。


 ヴァルナーは完成した通達書をサラへ差し出した。


「これを掲示しておけ」


「はい」


「そして、サラ殿」


「何でしょう?」


 ヴァルナーは一拍置いてから言った。


「これからも、セレニアを飢えさせるな」


 サラは顔を上げた。


「帝国への納税を続けるためにも、だ」


「……承知しました」


「本国から物資が届かなくなっても、だ」


 サラは答えなかった。


 ヴァルナーはそれ以上何も言わず、椅子から立ち上がった。


「では、私は本国へ戻る」


 扉へ向かいかけたところで、ふと思い出したように振り返る。


「それと、倉庫の件だ」


「はい」


「鍵をかけておけ」


「……なぜです?」


「塩も薬も酒も、役人より盗賊のほうが怖いだろう」


 サラは思わず笑った。


「それは確かに」


 ヴァルナーもわずかに笑った。


「ならば、しっかり守れ」


 こうして、ヴァルナーの通達は役場の掲示板に貼り出された。


 そこには、難しい帝国法令の言葉が並んでいた。


 だが、村人たちが読み取った意味は単純だった。


 ――税を払っている限り、自分たちが生き延びるための食料や薬まで、帝国に取り上げられることはない。


 セレニアにとって、それは小さな一枚の通達だった。


 しかし、サラにとっては違った。


 これまで密かに守ってきた非常時の備えが、帝国監査官自身の言葉によって、制度の中に位置づけられたのである。


 しかも、その文書には帝国監査局の印章が押されている。


 これから先、別の役人がセレニアへやって来ても、少なくとも生活物資を備蓄しているという理由だけで、簡単に倉庫を没収することはできない。


 もちろん、この通達があらゆる取引を免責するわけではない。正規の納税義務は残り、軍票の交換保証も備蓄の量に制約される。


 それでも、セレニアには一つの基準ができた。


 タリス正貨は、本国との納税や遠方との交易に使う。


 軍票は、交換保証の範囲を明確にしたうえで、地域の市場を動かす。


 食料や塩、医薬品、鉄などは、現物の備蓄と交易によって確保する。


 それぞれの仕組みを組み合わせることで、どれか一つが揺らいでも、すべてが崩れないようにする。


 サラは掲示板に貼られた通達を見上げ、静かに呟いた。


「……ヴァルナーさん。あなた、思っていたよりずっと話が分かる人だったんですね」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。