第44話 敵を間違えた
長く乱れた橙色の髪が、風に揺れていた。
普段なら彼女を飾っている一対の角は、まだ隠れたままだった。
特別な理由があったわけではない。
ただ、見せる必要がなかっただけだ。
あえて理由を挙げるなら、今は目立ちたい気分ではなかった。
今の彼女の姿は、この場にいるドライアドや他の森の精霊たちと、そこまで大きく違っているわけではない。
ファウヌスや、それに似た他の生き物たちまでいる以上、角を出していたところで、そこまで注目を集めたとも言い切れなかった。
だが、そんな細かなことを気にしていられる精神状態でもなかった。
何しろ、自分がまだ生きていること自体が奇跡なのだ。
その時、彼女の深紅の瞳は、自分が目覚めた広大な谷を見つめていた。
弟と共にあの世界へ来てから続いていた戦いの日々と比べれば、そこはまるで別の現実のようだった。
アヴェルはその世界をエリュンデアと呼んでいた。
もっとも、どうやらアヴェル自身も、その名と本当の広さを知ったのは最近らしい。
そもそもアヴェルは冥界で生まれ、これまであまり遠くへ出たことがなかったのだから。
「まさか、女神に出会うことになるなんて……。そのおかげで、私はまだ生きているのね」
ドラジラは包帯を巻かれた腹部に手を添えた。
「タイタンが存在する以上……ああいうものがいるのなら、他の種類の神々がいても、たしかに不思議ではないわ」
ドラジラはしばらく考え込むように目を閉じた。
だが、再び目を開けると、ドライアドたちの村へ戻るべきだと判断する。
しかし、花の咲く高い丘を下りようとしたところで、若い男がこちらへ登ってくるのに気づいた。
目立つという話なら、現れた男はかなり目を引く姿をしていた。
そのうえ、まとっている気配があまりにも不可解だった。
ドラジラほどの強力な魔族でさえ、見通すことができない。
「目が覚めたみたいだな。よかった」
見知らぬ男は丘の上まで来ると、彼女の近くに立ってそう言った。
「正直、腹に穴が空いてたのに、よく生きてたと思うよ」
ドラジラは金属のベルトに手を触れた。
すると、それはすぐに無数の短く鋭い刃へと分かれ、彼女の腕へ巻きついていく。
「あなたは何者よ、この魔物!」
彼女はもう片方の手で、腕から垂れていた細い柄を握った。
ほどけた刃が組み合わさり、一本の長剣を形作る。
「ドライアドは全員女のはずよ。どうしてあなたのようなものが村の近くにいるの!?」
魔族の女の背筋を、冷たい汗が流れていた。
目の前の相手は、生き物というより、何かの天災のように感じられた。
絶対的で、恐ろしい何か。
だが、これ以上失うものが命だけなら、自分を救ってくれた者たちを守って死ぬ方がまだましだった。
「俺のようなもの……? そのうえ魔物呼ばわりか……。魔族の女は君の方じゃなかったか?」
謎の人物は疲れたようにため息をつき、それから続けた。
「もしかしてアヴェルは、俺のこととか、自分の森の外に何があるのかとか、君に説明し忘れたのか?」
「女神を呼び捨てにするの!? やっぱり! そんな不敬を働けるのは敵だけよ!」
「……」
ドラジラが剣を振るうと、それは再び何十もの鋭い刃へ分かれた。
次の瞬間、それらは雷光へと変わり、相手へ向かって撃ち出される。
その相手、言うまでもなくネレスは、ただその場に立ったまま雷を胸で受け止めた。
衝撃は彼の立っていた場所を吹き飛ばし、大量の砂煙を巻き上げる。
だが、それが晴れた時、彼の服には傷一つついていなかった。
「服の防御性能を確かめたかっただけで、雷が来るって予想してなかったとか、反応が間に合わなかったとか、そういうことじゃないからな。本当だからな!」
ネレスはひどく不満そうに、服についた土を払った。
一方、ドラジラは口を開けたまま彼を見つめている。
「この剣……この剣はアーティファクトよ……。私の世界の雷の神から、祖先へ授けられたものなのに……」
彼女はようやくそうつぶやいた。
「その神が自分で鍛えたのか、俺が使ってる店と同じところで買ったのかは知らないけどな。でも一つ言っておくと、剣のせいじゃない。この服、ちょっとした財産が吹っ飛ぶくらい高かったから」
ドラジラは、彼が別の言語を話しているのではないかという顔で見つめた。
アヴェルがあの果物のようなものをくれる前とは違う。
今は、この若い男の言葉を理解できている。
それなのに、何一つ理解できなかった。
「もう……」
「ん?」
「もう喋らないで! 私の気をそらそうとしているのでしょう!」
「……この状況で、俺にどうしろと?」
ドラジラは刃を回収していた。
それらは再び一本の剣となり、その刀身にはまた電撃が走っている。
「ただ歯を食いしばって、これを受ける覚悟をしなさい!」
「いや、それはさっきの攻撃でやったばかりなんだけど……」
「黙りなさい!」
今度のドラジラは、電撃をまとった鋼の鞭を振るったのではなかった。
むしろ、ネレスへ向かって空中へ跳び上がったのだ。
「ネレジエル様! お越しくださったのですね!」
だがその瞬間、背後からアヴェルの澄んだ声が聞こえてきた。
「様!?」
女神がそこまで敬意を込めて誰かを呼ぶのを聞いて、ドラジラは空中で凍りついた。
「あ……」
一方ネレスは、ドラジラが姿勢を崩し、そのまま自分へ真っすぐ突っ込んでくるのを見ていた。
「このまま落としたら傷が開くかもしれないな……。仕方ない。二度目も助けてやって、あとで膝をついて謝らせるか」
「誰が戦ってるの!? どうしてあたしを呼ばないのよ! あたしもやりたい!」
その時、セリスが背後に現れ、ネレスを押しのけた。
そして、ドラジラの進路上に入り込んでしまう。
‼
次の瞬間、二人は衝突して地面へ倒れ込み、そのまま偶然にも唇を重ねてしまっていた。
……
「こうして一緒に見ると、二人の色って合ってるよな」
ネレスは、つい数秒前まで自分が騒ぎの中心にいたことなどなかったかのように、アヴェルのそばへ歩み寄った。
「同じ色合いではないけど、目と髪の色が、それぞれ……ちょうど逆なんだよ。そう思わないか?」
「ネレジエル様、止めなくてよろしいのですか?」
「二人の時間をあげたいんだ。セリスの初めてのキスだろうしな」
「二人の時間……? 私には、セリスが今にもドラジラの首を刎ねそうに見えるのですが……。あれだけ苦労してお腹を治したのに……」
「何週間も笑えるな」




